かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

蘇我入鹿の終焉の場所と桓武天皇誕生の地さえも分かるようになっていま~~す

2020-01-09 05:31:34 | かごめかごめの真実とは

2020年1月9日(木)

イエス・キリストの墓から蘇我入鹿の墓までと、一番霊山寺までの距離は、共に107㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。

日光寺と八十八番大窪寺と、鬼の俎は直角三角形を描きまます。

蘇我入鹿の墓と桓武天皇の墓と日光寺は、基本形である2:1:√3の直角三角形を描きます。

桓武天皇を祀る桓武伊和神社と桓武天皇の墓と一番霊山寺は、1:1:√2に近い直角三角形を描きます。

そして・・、八十八番大窪寺と蘇我入鹿の墓と、謎である鬼の俎(まないた)は直角三角形を描きます。


私 :「蘇我入鹿さんは鬼の俎のあたりで息を引き取られたのですか」

 主:「どうして分かりましたか」

私 :「蘇我入鹿さんのお墓は松尾寺の補陀落山でしたね」

 主:「んん~~ん、どうして・・!?」

私 :「八十八番大窪寺で手を合わす先はイエス終焉の地でしたね。八十八番は最後の地を教えるんですよね」

   「八十八番大窪寺と蘇我入鹿の墓と鬼の俎は直角三角形を描くんですよね。・・そうでしょう」

 主:「よく分かりましたね」


私 :「ところで、桓武天皇は桓武伊和神社あたりで亡くなったという言い伝えがありますが、違うようですね

 主:「どうしてですか」

私 :「八十八番大窪寺とは図形が描けないんですね。でも一番霊山寺と桓武天皇の墓とでは見事に1:1:√2の直角三角形が描けます」

   「スタートの1番ですから、桓武伊和神社あたりで桓武天皇はお生まれになったと教えていますね」

 主:「よく分かりましたねぇ」

私 :「図形から、イエス・キリストも桓武天皇もそうです!と太鼓判を押しているかのようです」

 主:「でも・・よく解けましたねぇ」


・・と、会話していると・・、何か気になって事務所の外を見ると、一瞬だけ晴れて大きな虹が・・・。

誰かが見ていますねぇ。 聞いています。

そして、必ずグッドタイミングで虹などを見せて「OKです!」とサインをくれます。


「皆さん、外に虹ですよ」と、私。

「わぁ~~綺麗!!」と、皆さんがワイワイガヤガヤ。


この体験を重ねると、実に楽しく嬉しくなります。  

見えない何者かの存在が喜ぶ様を見る時、それはそれは嬉しくも心が喜びに包まれます。

「ありがとうございます。これで良いのですね」と私。

・・すると、一瞬の虹も消えてもとのどんよりとした冬空に戻りました。


この世は、目に見えない世界から見られている世界です!


鬼の俎(おにのまないた)



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桓武天皇の陵墓が六甲山山中に造られていた!! いよいよ『神の戸』が神戸から開かれる!!

2020-01-08 05:20:51 | かごめかごめの真実とは

2020年1月8日(水)

西宮市の夫婦岩は、もう一つ重大なことを教えていた。

それは、六甲山山中に墳長200mほどの第五十代桓武天皇の前方後円墳の存在である。

この前方後円墳は、見事に桓武天皇の墓に向けて造られているが、弘法大師廟と蘇我入鹿の墓と綺麗な直角三角形で造っている様からは、桓武天皇が蘇我入鹿の陵墓として造ったと私には響いてくる。

一つの情報から、神戸の北 六甲山の裏側の丹生山一帯に、それはそれは壮大な大伽藍を擁していたという明要寺があった謎にも結びつきます。

丹生山山頂には未だ登っていませんが、年末、古代史研究家の市川慎さんと会うために、聖地神河へと行く途中に麓まで行って情景を見てきました。


地理院地図の等高線からは、丹生山山頂から陵墓の一部が見て取れることが推測できますし、明要寺が存在していた理由も成り立ちます。

そして、空海様が遣唐使船に乗る前と帰ってきてから立ち寄ったという謂れが在り、空海自作の亀石がある再度山大龍寺が山中の陵墓の南に位置することも納得できます。

空海様の空白年間と行動もこれで完全に説明できます。

私は、神戸淡路大震災も体験しましたが、いよいよ『神の戸』が神戸から開かれるということのようです。

 

 

イエス・キリストの墓藤原不比等の墓と、夫婦岩と夫婦岩が教える桓武・蘇我の陵墓とは直角三角形を描いている。

蘇我入鹿の墓と弘法大師廟と桓武・蘇我の陵墓は、直角三角形を描いている。

そして、蘇我入鹿の墓と天武天皇の墓と天武天皇勅願によって法道仙人開基と言われる日光寺は、2:1:√3を描いている。

桓武・蘇我の陵墓から桓武天皇の墓までと生野の地下神殿入口までは1:1:√2の直角三角形である。

いよいよ世界は『夜明けの晩』に突入です。

かごめかごめの唄は、夜明けの晩に鶴と亀が統べった!と、・・いよいよ最終章です!!




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法隆寺金堂と高雄山の桓武天皇の墓とを結ぶラインから重要なポイントが浮かび上がります

2019-02-10 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2019年2月10日(日)

 法隆寺金堂と桓武天皇の墓と、惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) を祀る大皇器地祖神社の三点は、基本形である3:4:5の大矩を描きます。

この配置の意味することは重要です。

他にも日光寺との関係や、これらのことは、役行者も知っていたと聞こえてきますね。

行者山から桓武天皇の墓までと法隆寺金堂までの距離は共に同距離です。

二等辺三角形を描きます。

 

3月9日(土) 新大阪駅からバスで日帰り巡礼ツアーを行います

もちろん行く先は、法隆寺ですが、行基さんの墓に手を合わせてから法隆寺へ。

西円堂で手を合わせて、そこから蘇我入鹿さんの墓がある松尾寺へと御参りです。

お申し込みは、T.T.Cまで。 数日後には詳細はUPしますが、もう受付は開始します。

 


  


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やはりありました! 卑弥呼が暮らした場所に玉座の磐座を武部さんが発見!!

2017-10-02 11:16:17 | かごめかごめの真実とは

2017年10月2日(月)

 いつものように武部さんが発見!しました。

10月1日(日) 大発見です。 女王卑弥呼が暮らした場所は、地理院地図上では特定できていましたが、そのポイントにはなかなか行けない状態でした。

でも・・その時がやっと許されたようで、その場所にたどり着くことができました。

このポイントは、青倉神社日光寺とを結ぶ二等辺三角形の頂点に位置していて、八幡山ピラミッドから南に、卑弥呼の陵墓から北北東に位置しています。

武部さんが重要な磐座を発見しましたが、その位置情報には驚くべき証拠が隠されていました。

武部さんがブログで皆さんに知らせてくれるのを楽しみに待ちたいと思います。

青倉神社の巨石と、日光寺の磐座と、女王卑弥呼の玉座の磐座は、綺麗な二等辺三角形を描きます。

卑弥呼が座ったであろう玉座が南に向いて存在していました。 近くには大きな磐座や方位石が沢山ありました。

やはりいつもながらイワクラ学会の武部さんが発見しましたねぇ。

途中、大山地区や七宝寺さんも眺めることができました。

太古の時代、人々が住んだと思われる所には、必ず栗の木が存在しています。

卑弥呼さんの陵墓を北から間近に見ることもできました。

 

 

 


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女王卑弥呼がくらしていた卑弥呼の家の場所を特定できました

2017-07-06 10:07:06 | かごめかごめの真実とは

2017年7月6日(木)

 一日二日と神河町で、古代史の勉強会でした。・・しかも、個人レッスンみたいなもので市川慎さんと一日目は、ゆっくりお茶会。

二日目は、現場周りと言いますか、福崎にある「亀坪」という場所へ行って、大歳神社を見て、そこから日光寺へ。

そしてそこから、生野を通って、青倉神社へと連れて行ってもらいました。

どうして、同じ日に、直線距離にして凡そ32キロm、車の走行距離にして50㎞はあるであろう二か所を訪問したのか。

そしてそこで見たもの、目にしたものは、大変なことを私に教えてくれました。

それでいつものようにその二点を国土地理院地図に落として、図形を引いてみました。

その結果、一発で私に教えた場所は、もともと私に教えてくれていた卑弥呼が住んでいた家の場所でした。

又、それは別の大事な場所を教えて「554mの山」とも関係していて、「私はココヨ!」との響きとシンクロしていました。

卑弥呼は女王とは名ばかりで、実質は山の上に軟禁状態だったと聞こえてきます。

東も西も川で囲まれ、両側も急な崖地で、その地から抜け出すこともできない山の上が卑弥呼が暮らした場所でした。

祈りの場も、暮らした場所も、そして自ずから造営して自分から入って岩戸を閉めた卑弥呼の陵墓の位置も全て特定できました。

7月5日夕方、「もう間違いない!」との思いで、「バンザ~~イ!」とした瞬間でした。

これも、神社、寺院に残されていた磐座が教えてくれていました。

古代の歴史の真実を紐解くには、コツコツコツコツ現場を歩いて、一つ一つその意味を繋いでいかなければ見えてこないようです。

現場に行かなければ真実は教えてもらえないということのようです。

武部さんも頑張っていますねぇ

上三枚は、青倉神社の御神体の磐座です。

下は、卑弥呼の家を教える方位石と、意味ある梵字の碑です。


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法道仙人開基の由緒ある真言宗御室派の日光寺が朽ち果てようとしています

2017-07-03 10:24:30 | かごめかごめの真実とは

2017年7月3日(月)

 日光寺が荒れ果てています。 

真言宗の方々は、重要なこのお寺の意味を知って、速やかに修復、再興しなければなりません。

小さいですが、立派な方位石や意味ある梵字の石碑などなど・・。  この場所の意味を知らなければなりません。

 

 

 

 


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2017-01-19 10:05:19 | かごめかごめの真実とは

2017年1月19日(木)

 4冊目の原稿を書き終えて、又、何度も読み返し、今、校正中であります。

このブログをいつも見ていただいている皆様に、一部を読んでいただきたいと思います。

そしてこの話は、前回のツアーに参加された方々には、思い出のシーンが蘇ることでしょう。

私は二日目の昼食をとってバスに乗り込んでからマイクを握って言いました。

「カッパ伝承や大蛇伝説など怖い話は、実はそこが重要な場所であることを教えているんですよ~~」「近寄ってはダメですよ~~~」 ってね。覚えている方も居られると思います。

それで私は、翌々日に市川さんに電話して、伝承にある「駒が岩」を見に行ったのでした。

今回2月節分という意味ある大事な日に、「姫の路 シュメールの故郷へとまたまた第10回 聖地巡礼ツアー を行いますが、ツアーで聖地を皆で回るごとに謎が解けていってる気がします。

皆さんと一緒に謎を解いていま~~す。

ノアの箱バスの残りのシートはです。  オリオン座のベルトになるつの輝く星となる神様は・・誰?!

・・では、4冊めの本の中へと一足先に「しゅっぱ~~~つ!」

 

1章シュメールの故郷は兵庫県神崎郡を流れる市川流域だった!

2016年11月17日~18日に、恒例となった「イエスと卑弥呼の墓参り」を目的としたツアーを無事に終えて、ホッと一息入れる間もなく、ツアー中に気になった地点をパソコンで検索してみたら、やっぱり重要なことを教えられたのである。 

その地点というのは、神崎郡福崎町が町おこしの為に力を注いでいる「柳田國男記念館」のすぐそばだ。 

の場所には「駒が岩」と言う岩がある。そこには「河童伝承」があることから、よほど大事な場所であることを伝えている、と私には思えたので、早速、神崎郡在住の古代史研究家の市川慎さんに連絡をして、再調査をすることにした。 

「河童伝承」にしろ「大蛇伝説」にしろ、怖い話が残っている所は特別に重要な場所なのである。 

・・

カメラとコンパスグラスをリュックに押し込んで、私は、お気に入りのJR播但線のわずか2両編成の赤色の普通電車にゴトゴト揺られながら、椿さんと一緒に福崎駅まで向かった。 

車窓に映る景色が、あとわずかの所で「七福神様たち」の眠っておられる緑濃い山々に変わろうとする手前の駅が福崎である。

福崎駅で降りると、にこにこした市川さんの優しい笑顔が待っていてくれる。 

私たちは、慣れた調子で市川さんの車に乗り込んで、詳しい説明も特に必要としない阿吽の呼吸で目的地まで連れて行ってもらう。

まず初めに、取り敢えず、3人は「柳田國男」が何かを書き遺してくれていないか、を確認するために、その記念館を訪れてみた。 

熊本の田舎生まれで、長年、建築の仕事に携わってきた私としては、古い時代の建築物をゆっくり見て回るのも気が落ち着くものであるが、そこでゆっくりと町の歴史書も読んでみたいものだと興味をそそられる本もあったりした。 

そこで本を読みながら柳田國男の世界に浸りたいとも思ったが、目的は違うところにあったので、本だけを買い求めて、次を急いだ。 

いよいよ目的の「駒が岩」である。 

ここに「河童」が出没していたということだが、なるほど相当意味深い岩であることが、コンパスグラスを覗いてみて、ハッキリわかる。 

春日権現とも春日大明神とも呼ばれる「天児屋根命」の陵墓がコンパスグラスで真南にあり、「恵比寿様」の陵墓が真北にある。 

これが教えることは、「天児屋根命」、私は「コヤネ爺」と呼んでいるが、この人のルーツは「恵比寿様」つまりイエスの従兄弟の「タダイ」であるよ、ということである。  

さらに、また、東に位置する「白山」という山と、磁北にあたる「恵比寿様」の陵墓である「高星山」とで、きれいな正三角形が描ける。 

白山信仰は北辰信仰なので、これらが何を伝えたいのか、読み解くことができる。 

そして、もうひとつ、大事なことも教えてくれている。 

それは、「駒が岩」の長い背のラインが250°方向を向いていて、それを真直ぐ伸ばしていくと、岡山県備前市にある「イエス・キリストの最期の地」に行き着くのである。

私がコンパスグラスを覗いて感慨にふけっていた時、すぐそばで椿さんは、2つの低い山(神前山と日光寺山)の間から「市川」という川、七福神様たちの安らいでおられる「埴岡の里」(現在の神河町と生野市)の真ん中を流れる川の上流を眺めて、かつての厳かで美しかった聖地を想像するのであった。 

市川さんが何の気なしに口にされた「この『市川』には7つの川が流れ込んでいる」という一言が心に強く響いたようだ。 

椿さんも私と同様、あの世とこの世、過去と現在と未来が、何の違和感もなく、一つになっていると感じるらしい。 

今、自分が立っているこの同じ場所に、何層にもなって過去が重なっており、さらに未来も繋がっているのである。

太古の時代から、この「埴岡の里」は「聖地」として選ばれていたに違いない。 

聖地はその2つの山の間を軸にして北方向にまるで蝶が羽を開いたように扇形、あるいは見方によってはハート型に拡がっており、周囲を七福神様達の山々に囲まれていて、平面的に見れば、「市川」と7本の川とで巨大な「生命の樹(メノラー)」が形造られている。  

 ・・・

 みんなで謎解き物語の中にいてますよ~~~!

 4冊目の本は、もうビックリ! です。 お楽しみに・・!! 

            

  

市川と駒ヶ岩

 


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