昨日、故郷の一人の小学校教師の書いた本にふれてつぶやきました。 今
日元小学校教師の老婦人が亡くなりました。 七日にお見舞いした80余歳の
方です。 死顔の穏やかだったこと、一週間ほど前に苦しげな顔を見ていまし
たから楽になったのだなーと思いました。
朝方、長女とその子・一人きりのお孫さんに両方の手をさすられながら亡く
なられたと聞き、自宅で最期を過ごしていたからそういう形で人生を締め切
ることができたのだと思いました。
病院の清掃という仕事にかなりの期間かかわって来ましたので、高齢者の
臨終前後の場を間接的ではありますが知る機会がありました。 人生の最後
の瞬間、自分の網膜に写しとるものが何であるか。 病室の天井かぼんやり
した明り、医者か看護師の顔、あるいは時々周りに立つ掃除のオジさん。
そういうオジさんとして偶然ある人の生ある瞳を見つめ、10分後には死者
の目になっていましたので、私の顔がこの世の見納めだったのか、と思ったも
のでした。 人の目が最初に写しとる顔は多分母親の顔ではないでしょうか。
無条件の愛情をたたえた瞳と顔立ちが育ち始めた脳にインプットされるのでし
ょう。 それならば、人生最後の瞬間に見納めにする顔が「掃除のオジさん」で
あっていいものか、と考えました。