4月19日、菊池黎明教会での主日礼拝の後、田原坂(たばるさか)公園に寄ってきた。ここは西南の役、最大の激戦地跡である。明治政府は、西郷隆盛率いる薩軍に包囲されていた熊本城を支援するのために「鹿児島暴徒征討令」(明治10年2月19日)を発し、征討総督に有栖川宮親王を据え、参軍山県有朋中将を司令官として政府軍を派遣した。薩軍は政府軍が熊本城に至のを阻止するために熊本城の北部に位置する要所田原坂に陣を敷き迎え撃った。
激戦の地も今ではツツジが咲き乱れる公園になっている。
司馬遼太郎氏は『肥薩のみち』で田原坂について次のように述べている。「田原坂は、熊本旧城下の北西の台上にあって、その一帯の台地の西端は有明海に落ち込んでいる.田原坂という坂そのものはさほどの傾斜でもないが、そのあたりの地形は複雑で、坂の左右は谷であり、一軒、自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹叢が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼はみごとというほかない」。
田原坂・弾痕の家(当時の戦闘の凄まじさを示す)
戦闘は明治10年3月4日より20日の16日間、昼夜を分かたず続けられ、官軍側だけで1日平均32万発の小銃弾が発射されたと言われている。この公園に建てられている「西南の役戦没者慰霊の碑」には官軍・薩軍の戦死者の名前が刻まれているが、その数は1万4千人に上る。そのうちの25パーセントが田原坂の戦いで失われた尊い命である。
司馬遼太郎氏は、この戦闘の特徴の1つとして16日間にわたる長期戦闘であったことに触れ、次のように述べている。「日本の国内戦の歴史で、主力決戦がこれほど長期にわたったという例はない。関ヶ原合戦という両軍の兵力の大きさと規模の点で、同時代の世界史に例の少ない事例を考えてもあの戦いはわずか半日で終わっているのである。日露戦争の主力決戦でさえ、遼陽会戦にせよ、奉天会戦にせよ、日数はみじかかった」。その時の激戦の状況を間近に経験した人の証言として「大東亜戦争なんか、アータ、小さな戦じゃったよ、西南戦争に比べれば」(元熊本県立図書館長蒲池正夫氏のご母堂談)。この実感について、薩摩の大口郷の郷士の家に生まれた海音寺潮五郎氏も同意しているとのこと。
この戦争に官軍の連隊長として参戦した乃木希典は日露戦争のとき、第3軍司令官として旅順要塞の攻撃を受け持ったが、その戦況下で、「しかし、植木・田原坂のほうがもっとひどかった」とつぶやいたという。
ある意味で、この戦争は初めから結果は予想できたことである。むしろ、16日間も戦闘が続いたことの方が不思議なぐらいである。両軍の兵士の数、装備の違いは明白であったし、それを支える経済力にも雲泥の差があった。記念館に並べられている両軍の服装を見てもそれは明白である。
薩軍の服装、刀が主で、小銃は従であった。
政府軍の服装、小銃が主で、刀を持たない兵士もいた。
刀を持っているのは兵士というよりも急遽集められた警官
なぜ、西郷隆盛ともあろう人物があえてこの戦争を始めたのかということについては、司馬遼太郎氏は「永遠の謎」であるという。そして、この戦争によって失われたものの最大のものは「日本国に史上類がないほど強力な官権政府を成立させるもととなった。あるいは西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまでの日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえる」という。
西南戦争のほとんど唯一の明るい遺産
日本赤十字の全身「博愛社」が設立され、
敵味方なく負傷者への治療がなされた。
激戦の地も今ではツツジが咲き乱れる公園になっている。
司馬遼太郎氏は『肥薩のみち』で田原坂について次のように述べている。「田原坂は、熊本旧城下の北西の台上にあって、その一帯の台地の西端は有明海に落ち込んでいる.田原坂という坂そのものはさほどの傾斜でもないが、そのあたりの地形は複雑で、坂の左右は谷であり、一軒、自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹叢が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼はみごとというほかない」。
田原坂・弾痕の家(当時の戦闘の凄まじさを示す)
戦闘は明治10年3月4日より20日の16日間、昼夜を分かたず続けられ、官軍側だけで1日平均32万発の小銃弾が発射されたと言われている。この公園に建てられている「西南の役戦没者慰霊の碑」には官軍・薩軍の戦死者の名前が刻まれているが、その数は1万4千人に上る。そのうちの25パーセントが田原坂の戦いで失われた尊い命である。
司馬遼太郎氏は、この戦闘の特徴の1つとして16日間にわたる長期戦闘であったことに触れ、次のように述べている。「日本の国内戦の歴史で、主力決戦がこれほど長期にわたったという例はない。関ヶ原合戦という両軍の兵力の大きさと規模の点で、同時代の世界史に例の少ない事例を考えてもあの戦いはわずか半日で終わっているのである。日露戦争の主力決戦でさえ、遼陽会戦にせよ、奉天会戦にせよ、日数はみじかかった」。その時の激戦の状況を間近に経験した人の証言として「大東亜戦争なんか、アータ、小さな戦じゃったよ、西南戦争に比べれば」(元熊本県立図書館長蒲池正夫氏のご母堂談)。この実感について、薩摩の大口郷の郷士の家に生まれた海音寺潮五郎氏も同意しているとのこと。
この戦争に官軍の連隊長として参戦した乃木希典は日露戦争のとき、第3軍司令官として旅順要塞の攻撃を受け持ったが、その戦況下で、「しかし、植木・田原坂のほうがもっとひどかった」とつぶやいたという。
ある意味で、この戦争は初めから結果は予想できたことである。むしろ、16日間も戦闘が続いたことの方が不思議なぐらいである。両軍の兵士の数、装備の違いは明白であったし、それを支える経済力にも雲泥の差があった。記念館に並べられている両軍の服装を見てもそれは明白である。
薩軍の服装、刀が主で、小銃は従であった。
政府軍の服装、小銃が主で、刀を持たない兵士もいた。
刀を持っているのは兵士というよりも急遽集められた警官
なぜ、西郷隆盛ともあろう人物があえてこの戦争を始めたのかということについては、司馬遼太郎氏は「永遠の謎」であるという。そして、この戦争によって失われたものの最大のものは「日本国に史上類がないほど強力な官権政府を成立させるもととなった。あるいは西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまでの日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえる」という。
西南戦争のほとんど唯一の明るい遺産
日本赤十字の全身「博愛社」が設立され、
敵味方なく負傷者への治療がなされた。