今日のローズンゲン 10月2日(日):
正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。(詩94:15)
人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブ1:20)
私の黙想:
社会の正常さは司法によって支えられている。邪心によって偏向された裁判によって、「心の真っ直ぐな人(イッシュレー)」は「反社会的(従わない人)」とみなされる。日本社会の問題点は色々あるが、最終的には「裁判所(官)」の正義(ツエデック)が問われる。
今日のローズンゲン 10月3日(月):
いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。(詩2:12)
イエスはペトロにいった、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32)
私の黙想:
今日は体調が悪く、ローズンゲンを開くのも夕方になってしまった。「いかに幸いなことか」、あらゆる義務や役割や規則や戒律や勤めから自由にされていることは。一日中寝たり起きたり、我が儘に過ごせることは。
今日のローズンゲン 10月4日(火):
わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります。(エズラ8:22)
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ15:28)
私の黙想:
人生には「ここ一番」という特別な時がある。そこでは普段と異なる心構えが要求される。国家にも、そういう時がある。全国民が「心を一つにして」難局に立ち向かうべき時、それが「今」である。こういう時に自己の利益に固執する人々に対して神は激しく怒られる。
今日のローズンゲン 10月5日(水):
神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光。(2サムエル23:3-4)
キリストの言葉:あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。(マタイ23:11)
私の黙想:
政治(宮殿、軍事力)と宗教(エルサレムの神殿)の保護とを統一した王、ダビデの権力は絶大。政治は宗教を背景に、宗教を政治の庇護の元に置いた最初の王ダビデ。ダビデは天才的王だ。
今日のローズンゲン 10月6日(木):
あなたは神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせました。(詩8:6)
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(マタイ18:14)
私の黙想:
旧約聖書の基本的人間観。この「僅かに劣る」が鍵語。永遠・無限の神と比較して「僅か」とは計算不能。にもかかわらず、人間は自分自身を神から「僅かに劣る」と言う。僅かではなく「比較を絶する」であろう。でも、何か「似ている」。
今日のローズンゲン 10月7日(金):
ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。(2サムエル24:10)
キリストの言葉:医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。(マタイ9:12)
私の黙想:
ここでのダビデ王の「罪」とは何か。部下ヨアブの諫めを退けて軍隊の数を数えたことである。それが何故「罪」なのか。自国の軍事力を確認することは、神による守護を信じないことであると、されたのであろう。自力に寄り頼むことは罪である。
今日のローズンゲン 10月8日(土):
アブラハムの僕は、主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って(彼女を)見つめていた。(創世記24:21)
その夜パウロは幻を見た。人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願った。わたし達はすぐに出発することにした。彼らに福音を告げ知らせるために、神が召されていると、確信したからである。(使徒言行録16:9-10)
私の黙想:
神の御心を確信するためには、できる限り「私の」先入観を取り除き、事態の推移をしっかりと観察することが必要である。その時、必ず徴が現れる。多くの場合、私たちは先入観に囚われて、徴を見落とす。徴を見たら果敢に行動に移す。
正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。(詩94:15)
人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブ1:20)
私の黙想:
社会の正常さは司法によって支えられている。邪心によって偏向された裁判によって、「心の真っ直ぐな人(イッシュレー)」は「反社会的(従わない人)」とみなされる。日本社会の問題点は色々あるが、最終的には「裁判所(官)」の正義(ツエデック)が問われる。
今日のローズンゲン 10月3日(月):
いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。(詩2:12)
イエスはペトロにいった、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32)
私の黙想:
今日は体調が悪く、ローズンゲンを開くのも夕方になってしまった。「いかに幸いなことか」、あらゆる義務や役割や規則や戒律や勤めから自由にされていることは。一日中寝たり起きたり、我が儘に過ごせることは。
今日のローズンゲン 10月4日(火):
わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります。(エズラ8:22)
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ15:28)
私の黙想:
人生には「ここ一番」という特別な時がある。そこでは普段と異なる心構えが要求される。国家にも、そういう時がある。全国民が「心を一つにして」難局に立ち向かうべき時、それが「今」である。こういう時に自己の利益に固執する人々に対して神は激しく怒られる。
今日のローズンゲン 10月5日(水):
神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光。(2サムエル23:3-4)
キリストの言葉:あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。(マタイ23:11)
私の黙想:
政治(宮殿、軍事力)と宗教(エルサレムの神殿)の保護とを統一した王、ダビデの権力は絶大。政治は宗教を背景に、宗教を政治の庇護の元に置いた最初の王ダビデ。ダビデは天才的王だ。
今日のローズンゲン 10月6日(木):
あなたは神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせました。(詩8:6)
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(マタイ18:14)
私の黙想:
旧約聖書の基本的人間観。この「僅かに劣る」が鍵語。永遠・無限の神と比較して「僅か」とは計算不能。にもかかわらず、人間は自分自身を神から「僅かに劣る」と言う。僅かではなく「比較を絶する」であろう。でも、何か「似ている」。
今日のローズンゲン 10月7日(金):
ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。(2サムエル24:10)
キリストの言葉:医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。(マタイ9:12)
私の黙想:
ここでのダビデ王の「罪」とは何か。部下ヨアブの諫めを退けて軍隊の数を数えたことである。それが何故「罪」なのか。自国の軍事力を確認することは、神による守護を信じないことであると、されたのであろう。自力に寄り頼むことは罪である。
今日のローズンゲン 10月8日(土):
アブラハムの僕は、主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って(彼女を)見つめていた。(創世記24:21)
その夜パウロは幻を見た。人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願った。わたし達はすぐに出発することにした。彼らに福音を告げ知らせるために、神が召されていると、確信したからである。(使徒言行録16:9-10)
私の黙想:
神の御心を確信するためには、できる限り「私の」先入観を取り除き、事態の推移をしっかりと観察することが必要である。その時、必ず徴が現れる。多くの場合、私たちは先入観に囚われて、徴を見落とす。徴を見たら果敢に行動に移す。