ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

退職後見えてきたこと

2008-05-22 19:15:58 | 小論
九州教区婦人会たよりに「退職後見えてきたこと」 というテーマで一文を出せとの依頼があり、下記のような一文を送り、先日印刷され、関係者に配られました。一応、記録のためここに掲載しておきます。
以下本文
婦人会書記の方から依頼された原稿のテーマは「退職後見えてきたこと」というものでした。このテーマで何か書こうと思うと、いくつか困ったことがあります。そのうちで2つだけあげておきます。
先ず第1に、聖職にとって「退職」とは何か、あるいは「退職後」の生活の仕方という重大な問題があります。この点に関しては、当然のこととして十人十色で、いろいろな可能性があります。どの生き方が正しいとか、良いとか、楽しいとかということは言えません。それぞれの聖職が、それぞれの状況に応じて選び、設計することができます。従って、以下に述べることはあくまでも「わたしの場合」という大きな括弧の中のことで、非常に個人的なことです。
もう一つは、「退職後に見えてきたこと」と言えば、「現職の時に見えていなかったこと」を告白することになりますが、これもかなり個人差があります。派遣された教会の状況や、牧会ということについての考え方や,その他のいろいろなことによって、退職後と現職中との関係は多種多様です。従って、この点でも「わたしの場合」という条件がつきます。
さて、わたしの場合、聖職を退職するということは、「牧師館を出る」ということを意味しました。どういう形であれ、牧師館に住んでいる以上は「現職」(括弧付き)であると思っています。従って、「退職後に見えてきたもの」とは、「牧師館を出て見えてきたもの」を意味します。
それはかなりいろいろなものが見えてきました。わたし自身は高校生以後、昨年の春まで、5年ほどを除いて、そのほとんどは牧師館に住んでいましたので、牧師館の外で生活するということは非常に新鮮な経験でした。
ともかく日曜日は日曜学校があり、礼拝があり、大勢の人たちが朝から出入りしますので、牧師の家族はぼやぼやして居れません。それが毎週繰り返されるのです。日曜日は牧師の家族は全員例外なしに、「迎える立場」(ホスト)になります。それが牧師館に住む人間の当たり前の生活です。従って、退職して、牧師館から離れて生活をはじめたころ、何の責任もない日曜日の朝、非常に戸惑いました。これは、わたしよりも家内の方が大きな変化だったと思います。今日は何にも予定はないんだ。「教会にでもいこうか」という心境でした。
よく世間では退職したら、「毎日が日曜日」というようなことを聞きますが、聖職の場合は退職したら「日曜日も平日」という生活になります。そうなると面白いもので、テレビの番組だけが曜日を自覚させます。今日は日曜日だからNHKの「ちりとてちん」がないとか、午後からは「何でも言って委員会」があるとか、というようなたわいないことが生活のリズムになります。
しかし、よく考えてみると、このようなことは要するに一般信徒が普通に感じていることにすぎないのでしょう。聖職の退職とは普通の信徒になるということ、しかも高齢の信徒になることだということが見えてきました。でも、この感覚は現職時代にこそ共感していなければならなかったことだということを感じています。

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