ぶんやさんち

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今週のローズンゲン 2017/07/23~07/29

2017-07-29 16:32:59 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/07/23~07/29

2017 日々の聖句 7月23日(日)
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。(思い上がった言葉を口にしてはならない。)主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。(サムエル上2:3)

言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ3:18)

私の黙想:
今日の聖句、預言者サムエルの母ハンナの祈りの中の1節という設定になっている。一応、その設定に従ってこの句を考えると、子どもが生まれない女として人びとからさんざん悪口を言われてきたのであろう。そして今、念願の子どもが祈りに答えられて与えられた。そのことを感謝する祈りの中で先ず口にするハンナの気持ちを推し量ると、この言葉には凄みが加わってくる。
「偉そうなことを言っていた、あんたたち、もう二度とそんな偉そうなことを言うな。人間にはそれぞれ神から与えられた人生があるんだ。お前たちの思い上がった言葉で私はどれほど傷ついたことか。何にも分からないくせに、いい加減なことばかり言って、あんたたちに私の人生の何が分かるっちゅうんだい。あんたたちが私に投げかけた悪口、全部神さまはご存じなんだぞ。その内、神さまがきちんとケリを付けてくださるから、そのつもりで覚悟しておれよ」。
ちょっと乱暴な言い方をしたらそんな文章なのだ。こんな言葉を祈りの中で言うハンナさんの気持ちよく分かるなぁ。
日曜日の朝から、とんでもない、ことを書いてしまいました。懺悔いたします。

2017 日々の聖句 7月24日(月)
わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。(エレミヤ3:15)

願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。(1テモテ2:1~2)

私の黙想:
こういう聖句を読んで、何を思い起こし、何のことだと思うのだろうか。今朝の旧約聖書の聖句と新約聖書の聖句との組み合わせは、微妙である。ある人は国政のことを思い、ある人は教団ないしは教区の現状を思い、ある人は教会政治を思うだろう。そして、納得する人もいるだろうし、失望する人もいるだろう。エレミヤは背信の民イスラエルのことを思い起こしながら、希望を将来に託している。ここで「牧者たち」という複数形が気になる。だから、これをメシア預言とは取れない。やはり現実的な組織運営の問題である。エレミヤは自分自身のことを考えては居ない。彼はエルサレムの現状を嘆き、イスラエルの将来のことをバビロン捕囚とそれ以後のことを思い描いているのであろう。

2017 日々の聖句 7月25日(火)
あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から、助け出してくださった。(詩116:8)

エパフロディトはひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。(フィリピ2:27)

私の黙想:
今日の聖句で並べられている3つの人生の危機、それぞれかなり次元が違うように見える。「魂を死から」という場合、かなりメンタル(霊的)な悩みであるし、「目を涙から」という場合、内面的な問題というよりも、泣きたくなるような具体的な苦しみ、最後の「わたしの足を突き落とそうとする者から」という場合どろどろした人間関係を想像する。面白いことに、第3番目の悩みを口語訳では「わたしの足をつまずきから」と訳し、問題を人間関係と言うよりも自分自身の問題としている。他の邦訳は全て口語訳と同じである。
これらを三つ並べて「詩」とする場合、詩人はかなり問題を一般化(抽象化)しているように思われる。つまり、非常に個人的な装いをしながら、人間なら誰でも抱えている問題で、神殿での「嘆願と感謝」の祭儀を想定させている。
この詩について、米田豊は面白い解説をしている。「神の民が捕囚より帰国後、祭壇を築いたときの国民的感謝の最初の詩であろう」という。関根正雄も「「一応感謝の歌だが、嘆き、願い、信頼の要素を含む混合型。思想のつながりもルーズである」と解説している。祈祷書の「嘆願」(98頁)あるいは「共同懺悔」(295頁)を思わせる。

2017 日々の聖句 7月26日(水)
聖歌隊によって神をたたえよ。(詩68:27)

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(ロマ15:5~6)

私の黙想:
上手な合唱団が美しいハーモニーを奏でるとき、不思議に、会衆まで共鳴する。そこでは歌う人と聴く人とが完全に一体化する。これが合唱というものの魔力であろう。これを一度でも経験すると、もう合唱団から離れなくなる。
それが聖堂で聖歌隊が歌うとき、これは滅多に実現しないが、本当に美しい讃美は、聖歌隊と会衆との境目がなくなり、全体が一つになって神に向かう。

2017 日々の聖句 7月27日(木)
聞き従うことはいけにえにまさる。(サムエル上15:22)

幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

私の黙想:
信仰(宗教)の内面化。信仰における儀礼と良心の問題。イスラエル宗教では、儀礼的側面を祭司集団が担当し、良心の問題を預言者たちが担当した。これら二つが健全に機能するときに宗教は生きたものとなる。サムエルはイスラエル史において最初に現れた預言者である。
「聞き従う」ということがあって、「いけにえ」が生きてくる。「聞き従う」だけでは、人間の感情、人間の心の状態に従って神との関係が揺れ動く。それを外側からさっさ得ているのが儀礼である。また、「聞き従う」という内面的生活が、その儀礼を単なる形式・外観を越えて有意なものにする。個人の信仰の問題は個人の良心の問題であるが、儀礼を通してその信仰が共同体のものになり、「共に生きる」という現実が実現する。

2017 日々の聖句 7月28日(金)
誰が烏のために餌を置いてやるのか。その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき。(ヨブ38:41)

主は、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになります。(ロマ10:12)

私の黙想:
要するに、今日の聖句はヨブの問いに答える神の言葉。だからこれは疑問文ではなく。現実を強調する言葉。この被造物界で起こっている全てのことは神がしていることだ、ということの一つの実例。これがヨブの根源的な疑問に対する神の答えだという。人間に分かることもあれば、人間には分からないこともある。だから、人間にとって分かっていることと分からないことの違いは神の前では無意味だという。人間以外の被造物は、そういうことは問わない。それを問うのは人間だけである。人間は分からないということに耐えられない唯一の被造物である。だから、問うこと自体は罪ではない。しかし、全ての問いを分かるようになると思うのは人間の傲慢さである。ガーン。これ以上、言葉を加えるとよけい混乱するから、ここで止めておく。

2017 日々の聖句 7月29日(土)
御覧ください、与えられたこの生涯は僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。(詩39:6)

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

私の黙想:
今日の聖句は口語訳と対応するのが難しいほど、口語訳とはことなる。フランシスコ会訳、新改訳、関根訳はほぼ新共同訳と同じ。岩波訳はユニーク。最初の「ご覧ください」を岩波訳は「どうでしょう」と訳している。岩波訳の解説によると、「手の幅ほどのもの」という訳語が、ここにだけ出る語で、正確な意味は不明とし一応「束の間」と訳している。考えて見ると、この「束の間」も、もともとの意味は刀の「束」で、「握ったときの4本の指の幅ほどの長さ」とされている。いずれにせよ人生の長さを表現する比喩的な表現である。面白いのは「人は確かに立っているようでも」という表現で、口語訳では「その盛んなときでも」、フランシスコ会訳、関根訳では「人は立っている時でも」、岩波訳は、そのものずばり「わが寿命」と訳している。
要するに、どのように訳そうが、この聖句によって語られていることは明白なので訳語を楽しめる。
実はこの句の重要ポイントは、前節にある。「教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように」。この句が今日の聖句の鍵である。ここまで来ると、訳語などどうでもいい。本当に知りたいのであり、知りたいことははっきりしている。特に、高齢になると、人生の残りのことが気になる。惚けてボヤッと過ごしてもいい。我が儘に生きることも許されるであろう。「一生懸命に生きる」といっても、それは若い頃とは異なり知れている。人は「終活」という。じゃ、その終活とは何か。身辺整理することか。ばからしい。死んだら「私物」など何もない。後の人が好きなようの処分したらいいだろう。でも、迷惑を掛けるのはイヤだ。じゃ、どうする。「主よ、あなたは私のこれまでの全生活をご存じです。だから最後だけはきちんとしたいのです」という気持ちが、今日の聖句である。

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