ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

2019年 日々の聖句 1月1日㈫)〜1月5日㈯

2019-01-12 16:11:52 | ローズンゲン
2019年 日々の聖句 1月1日㈫)〜1月5日㈯

2019 日々の聖句 1月1日㈫
あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。(出エジプト23:6)

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、(ルカ16:19~20)

私の黙想:
元旦にこの聖句が来るなんてどういうことだろうか?ウソで固められた国会、政権、官僚、司法等の中で、一般民衆までがウソにまみれてしまったら、我が国は終わってしまう。せめて国民は正直を大切にしようよ。元旦に、そのことを心を改めて決意しようよ。


2019 日々の聖句 1月2日㈬
(いよいよ兄弟たちを送り出すとき、出発にあたって)ヨセフは、「途中で、争わないでください」と言った。(創世記45:24)

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロサイ3:13)

私の黙想:
今日の聖句の背景には長い長いドラマがあるが、ここでは省略する。
要するに事の真相が明らかになった後の起こる「責任のなすり合い」に対する警告の言葉である。
戦争責任、原発事故の責任、経済破綻の責任等々、人間の行為には必ず責任が伴う。たとえ結末が良かったとしても、そこに至る発端で起こった出来事に対する責任追及が始まり、それが新しい争いの原因となる。ヨセフはそのことを見通している。
私の黙想は飛躍する。イエスを殺したのは誰か。キリスト教における最も悪い実例はユダヤ人がイエスを殺した。ということから欧米でのキリスト教の反ユダヤ教思想が生まれた。見方によってはローマ権力(ローマ兵)イエスを殺したとも言えるが、初期の着るスと者たちはそうは考えなかった。それがまたさらに逆転してナチスによるユダヤ人迫害を反省して親ユダヤ教が生まれた。
太平洋戦争における日本の戦争責任が問われる。人間の歴史というものはケリの付かない責任追及の歴史だとさえ言える。
最後に、この問題についてのヨセフ自身の発言に耳を傾けよう。この言葉を語るヨセフの視点は50:19~20に次のようの述べられている。<ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」>。これが創世記における「ヨセフ物語」の歴史観である。

2019 日々の聖句 1月3日㈭
(主を愛する人は悪を憎む。)主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。(詩97:10)

(しかし、)あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(1ペトロ5:10)

私の黙想:
今朝は少々へそを曲げて、日々の聖句が省略した部分に焦点を合わせる。「主を愛する人は悪を憎む」当たり前いえば当たり前すぎる言葉ではあるが、単純すぎる言葉に真理がある。これを口語訳では「主は悪を憎む者を愛す」となり、新しい協会訳では「主を愛する者よ、悪を憎め」と命令文になっている。面白いことに、この訳は文語訳に通じる。「エホバを愛しむものよ、悪を憎め」。これは新改訳にも岩波訳と同じである。
さて、どちらがヘブライ語原文に近いのか。「オハヴェー アドナイ スィヌウー ラァ」、直訳すると「主を愛する者、悪を憎む者」、ここでは面白い言葉の平行現象が見られる。「主を愛する者は、悪を憎む者である」のか、「主は悪を憎む者を愛するのか」、エーイ面倒な議論を単純化して協会訳のように、「主を愛する者よ、悪を憎め」というように命令文にしてしまうべきか。

2019 日々の聖句 1月4日㈮
お前たちは多くの収穫を期待したがそれはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るときわたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのにお前たちが、それぞれ自分の家のために走り回っているからだ。(ハガイ1:9)

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(ロマ12:11)

私の黙想:
捕囚から帰還したユダヤ人たちは神殿の再建に励んでいる。しかし裸同然で故郷に帰って来た彼らは貧しく、再建途中の神殿は昔の神殿を知っている者たちにとっては、あまりに貧弱で「無に等しい」(2:3)。民族の指導者ゼルバベルも大祭司ヨシュアもまた民衆も、それを見ると意気消沈する。今日の聖句は彼らを励ます預言者ハガイの激励の言葉である。ここでの「万軍の主(ヤハウエ)」という言葉は効いている。4節から9節までの間に「万軍の主」という言葉が6回も繰り返される。この箇所を全文引用したいが8節だけをだ表的に引用する。「銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる」。この言葉は私には「あなたがたが貧しいのはあなたがたの責任ではなく、私の責任である」という万軍の主の言葉に聞こえる。貧しさは恥ではない。もし必要ならば、「天の恵み倉」(申命記28:12)を開いて与えてくださる。さらに、万軍の主は言われる「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる」(9節)と。さらに何よりも「この神殿に」万軍の主は「平和を与える」と言われる。神殿が神殿として意味があるのは「平和の礎」としてである。果たして、私たちの教会が真に神による平和の礎になっているのだろうか。


2019 日々の聖句 1月5日㈯
(わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならばその言葉は決して取り消されない。わたしの前に、)すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て恵みの御業と力は主にある、(主は)とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく、主に服し、恥を受ける。(イザヤ45:23~24)

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)

私の黙想:
日々の聖句では括弧の中は省略されています。真ん中の(主は)は新共同訳が補った言葉である。今日の聖句の趣旨は非常に独断的で「主に対して怒りを燃やした者はことごとく、主に服し、恥を受ける」ということであろうが、そうすると「主に服し」という言葉に違和感を感じる。この部分を協会訳では「主に怒りを燃やす者は皆、そのもとに来て恥じ入る」。これなら分かりやすい。口語訳も同じように「人々は主にきたり、主にむかって怒る者は皆恥を受ける」と訳している。

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