宮田光雄先生の『御言葉はわたしの道の光――ローズンゲン物語』(新教出版社)で紹介されている第2の神学者は先に紹介したバルト先生よりも約20歳若いディートリヒ・ボンヘッファー牧師です。彼もバルト先生と並んで告白教会の中でもっとも明確なヒトラー反対の立場に立っていました。彼について最も有名なことは、ヒットラー暗殺計画に加わり、ナチスによって逮捕され投獄されたということでしょう。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐナチスにより、フロッセンビュルクの収容所で刑死いたしました。
ディートリヒ・ボンへッファーもローズンゲンの愛用者でした。彼にとってはローズンゲンは単にデヴォーションの助けというよりも文字通り「道の光」でした。宮田先生は彼とローズンゲンとの関係について、こんなことを紹介しています。
<第2次大戦の始まる直前、1939年初夏の頃、(ナチスから追われる彼に対して)、アメリカの友人たちの好意で一度は亡命のチャンスをあたえられて渡米します。しかし、ふたたび決意してドイツに帰国し、ナチ政権をくつがえすため、抵抗運動に加わる道を選ぶのです。帰国への決意をするにあたって、彼は、アメリカ滞在中にローズンゲンと対話をくり返しています。彼がローズンゲンを知るようになったのは、すでに幼い日に、敬虔主義的だった彼の母あるいはお手伝いの女性から受けた影響によるものと思われます。アメリカにとどまるべきか、それとも帰国すべきかという厳しいディレンマの中で、日毎のローズンゲンは、彼に励ましと導きとをあたえるものでした。6月26日に、彼は、その日のローズンゲンの中に 「冬になる前に急いできてほしい」(2テモテ4:21) という言葉を発見しています。「この言葉が一日中、私の頭にこびりついて離れなかった。それは、戦場から休暇で帰ってきた兵士が、自分を待っていたすべてのものをふり棄てて、また戦場に引き戻されるときのようなものだ。……『冬になる前に急いできてほしい』……これをもし私が自分に言われたことだととらえても、それは聖書の乱用ではない」。2日前の日記にも、ローズンゲンの聖句「信ずる者は逃れることはない」(イザヤ28:16)をかかげ、「私は家郷での仕事のことを思う」と記しています。こうして帰国の決意を固めるとともに、彼は良心的葛藤から解放され、晴れやかな気持ちで、ただちにドイツに引き返すのです。それは殉教の死に通じていました(宮田光雄『ボンへッファーを読む』岩波書店)。>
宮田先生はボンヘッファーの研究者でもあり、この本でも獄中からの書簡でローズンゲンに関わる記録を残しておられます。随時、紹介いたします。
ディートリヒ・ボンへッファーもローズンゲンの愛用者でした。彼にとってはローズンゲンは単にデヴォーションの助けというよりも文字通り「道の光」でした。宮田先生は彼とローズンゲンとの関係について、こんなことを紹介しています。
<第2次大戦の始まる直前、1939年初夏の頃、(ナチスから追われる彼に対して)、アメリカの友人たちの好意で一度は亡命のチャンスをあたえられて渡米します。しかし、ふたたび決意してドイツに帰国し、ナチ政権をくつがえすため、抵抗運動に加わる道を選ぶのです。帰国への決意をするにあたって、彼は、アメリカ滞在中にローズンゲンと対話をくり返しています。彼がローズンゲンを知るようになったのは、すでに幼い日に、敬虔主義的だった彼の母あるいはお手伝いの女性から受けた影響によるものと思われます。アメリカにとどまるべきか、それとも帰国すべきかという厳しいディレンマの中で、日毎のローズンゲンは、彼に励ましと導きとをあたえるものでした。6月26日に、彼は、その日のローズンゲンの中に 「冬になる前に急いできてほしい」(2テモテ4:21) という言葉を発見しています。「この言葉が一日中、私の頭にこびりついて離れなかった。それは、戦場から休暇で帰ってきた兵士が、自分を待っていたすべてのものをふり棄てて、また戦場に引き戻されるときのようなものだ。……『冬になる前に急いできてほしい』……これをもし私が自分に言われたことだととらえても、それは聖書の乱用ではない」。2日前の日記にも、ローズンゲンの聖句「信ずる者は逃れることはない」(イザヤ28:16)をかかげ、「私は家郷での仕事のことを思う」と記しています。こうして帰国の決意を固めるとともに、彼は良心的葛藤から解放され、晴れやかな気持ちで、ただちにドイツに引き返すのです。それは殉教の死に通じていました(宮田光雄『ボンへッファーを読む』岩波書店)。>
宮田先生はボンヘッファーの研究者でもあり、この本でも獄中からの書簡でローズンゲンに関わる記録を残しておられます。随時、紹介いたします。