「そは正当にしてなすべきことなり」
今の祈祷書の聖餐式文には、前の祈祷書にあった私の大好きな一句が無くなっています。「聖別」の部分の冒頭で、司式者と会衆は一つになって言葉を掛け合います。先ず簡単な挨拶が交わされ、司祭は「なんじら心を挙げよ」、会衆「われら心を主に挙げん」と言葉を掛け合い、続いて司祭は「主に感謝し奉るべし」と言います。その言葉に会衆は「そは正当にしてなすべきことなり」という歯切れの良い言葉で応答します。 私はこの掛け合いの部分が大好きです。そのとき、私は今ここに居ると強く感じます。この流れの中で私たちは一つのパンを共に頂くという感動が起こります。これが聖餐式のクライマックスです。
ところが、この部分が現行の祈祷書では、司祭は「主なる神に感謝しましょう」と言い、それを受けて会衆は「感謝と讃美はわたしたちの務めです」と応答します。現行の祈祷書ではここで気が抜けてしまいます。何故そうなるのか。おそらくここで「務めです」という言葉が含んでいる義務感じゃないかと、私は睨んでいます。
「正当にしてなすべきことなり」と「わたしたちの務めです」というのと、私にはどうしても同じこととは思えないのです。感謝と讃美はわたしたちにとって「正当にしてなすべきこと」つまり「当たり前のこと」「当然のこと」です。私たちは何か義務的に礼拝に参加している訳ではありません。もちろん、何らかの理由で休むことがあっても、感謝と讃美は当然のことと思っています。
一般的に言って、私たちは「当然のこと」について無頓着になりすぎているのではないかと思うことがしばしばあります。私たちは当然のことについてさえも、いろいろとその理由や根拠を求めます。例えば、「何故、人を殺してはいけないのか」とか、「何故、他人の所有物を盗んではいけないのか」などと、問い、その理由を求めます。そんなこと「当然でしょう」という言葉で満足できません。でも、世の中の最も基本的なことはほとんど「当然のこと」であり「当たり前のこと」なのです。「当然のこと」には理由や理屈は不要なのです。
社会生活を営む上で基本的人権と呼ばれる権利があります。これはすべての人間に与えられている「当然の権利」です。自由も平等もこの権利を犯してはならないということは「当然のこと」です。もし、誰かの基本的人権が侵害される恐れがあるときには、自由も平等も制限されるべきです。経済活動において誰かの基本的人権を奪い、人間として生きることが困難になる場合、その経済活動の自由は制限を受けます。
日本国憲法第11条にも「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と規定されています。つまり国政を預かる人たちはこれを実現する責任と義務があり、国民はそれを享有する権利があるというわけです。しかし、この基本的人権も協議され、決議された結果として、法的に規定されると権利と義務という関係が生じます。例えば、ここでは「国民は」という言葉が挿入されることによって、国民以外の人々への政府責任は無くなってしまいますが、本来の基本的人権とは法的な権利・義務として規定される以上のものであるはずです。基本的人権という言葉を持ち出した以上、そこには国民以外の者に対しても基本的人権は保障されるということが当然含まれています。変な言い方をすると「当然の基本的人権」がそこには含まれているということです。
以上のように、「当然のこと」を論理づけることは非常に難しいことです。神に感謝し、神を讃美することは「正当にしてなすべきこと」という場合、それはキリスト者としての「務め」ではなく、そうすることが人間としての当然のことだという告白です。
今の祈祷書の聖餐式文には、前の祈祷書にあった私の大好きな一句が無くなっています。「聖別」の部分の冒頭で、司式者と会衆は一つになって言葉を掛け合います。先ず簡単な挨拶が交わされ、司祭は「なんじら心を挙げよ」、会衆「われら心を主に挙げん」と言葉を掛け合い、続いて司祭は「主に感謝し奉るべし」と言います。その言葉に会衆は「そは正当にしてなすべきことなり」という歯切れの良い言葉で応答します。 私はこの掛け合いの部分が大好きです。そのとき、私は今ここに居ると強く感じます。この流れの中で私たちは一つのパンを共に頂くという感動が起こります。これが聖餐式のクライマックスです。
ところが、この部分が現行の祈祷書では、司祭は「主なる神に感謝しましょう」と言い、それを受けて会衆は「感謝と讃美はわたしたちの務めです」と応答します。現行の祈祷書ではここで気が抜けてしまいます。何故そうなるのか。おそらくここで「務めです」という言葉が含んでいる義務感じゃないかと、私は睨んでいます。
「正当にしてなすべきことなり」と「わたしたちの務めです」というのと、私にはどうしても同じこととは思えないのです。感謝と讃美はわたしたちにとって「正当にしてなすべきこと」つまり「当たり前のこと」「当然のこと」です。私たちは何か義務的に礼拝に参加している訳ではありません。もちろん、何らかの理由で休むことがあっても、感謝と讃美は当然のことと思っています。
一般的に言って、私たちは「当然のこと」について無頓着になりすぎているのではないかと思うことがしばしばあります。私たちは当然のことについてさえも、いろいろとその理由や根拠を求めます。例えば、「何故、人を殺してはいけないのか」とか、「何故、他人の所有物を盗んではいけないのか」などと、問い、その理由を求めます。そんなこと「当然でしょう」という言葉で満足できません。でも、世の中の最も基本的なことはほとんど「当然のこと」であり「当たり前のこと」なのです。「当然のこと」には理由や理屈は不要なのです。
社会生活を営む上で基本的人権と呼ばれる権利があります。これはすべての人間に与えられている「当然の権利」です。自由も平等もこの権利を犯してはならないということは「当然のこと」です。もし、誰かの基本的人権が侵害される恐れがあるときには、自由も平等も制限されるべきです。経済活動において誰かの基本的人権を奪い、人間として生きることが困難になる場合、その経済活動の自由は制限を受けます。
日本国憲法第11条にも「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と規定されています。つまり国政を預かる人たちはこれを実現する責任と義務があり、国民はそれを享有する権利があるというわけです。しかし、この基本的人権も協議され、決議された結果として、法的に規定されると権利と義務という関係が生じます。例えば、ここでは「国民は」という言葉が挿入されることによって、国民以外の人々への政府責任は無くなってしまいますが、本来の基本的人権とは法的な権利・義務として規定される以上のものであるはずです。基本的人権という言葉を持ち出した以上、そこには国民以外の者に対しても基本的人権は保障されるということが当然含まれています。変な言い方をすると「当然の基本的人権」がそこには含まれているということです。
以上のように、「当然のこと」を論理づけることは非常に難しいことです。神に感謝し、神を讃美することは「正当にしてなすべきこと」という場合、それはキリスト者としての「務め」ではなく、そうすることが人間としての当然のことだという告白です。