文屋知之助と岡本房子とが新京に着いたのは昭和7年11月11日ということになっている。その年の3月1日に満州国は成立し、長春という地方都市を首都と定めたのである。満州国の成立を企てた人々は当初、首都を瀋陽(奉天)にするつもりであったらしい。というよりも、それが当然の成り行きであり、ほとんどの人がそう思っていたようである。昔から瀋陽という都市は満州地方の中心地であり、当時全中国を支配していた清朝の故地であった。それだけに、歴史的にも常にこの地方の支配者たちは瀋陽に根拠地を据えていた。満州国成立の当時も最も強力な軍閥張作霖・張学良一族は瀋陽を根拠地としていた。そのため、逆に、満州国の首都とするのにはあまりにも刺激が強すぎ、それを避けたというのが真相である。そして、選ばれたのがかなり北の方に偏った、吉林省の省都長春で、その頃関東軍が守備していた南満州鉄道の北の終点が長春であった。当時の人口は約10万人と言われ、省都とはいうものの、ほとんど荒れ地のままという状況であった。それだけに、新国家の首都としての都市作りとしては非常に面白いところで、都市学者や建築家の創作意欲をかなり刺激したようである。。ここに、満洲政府は将来的には人口300万人の大都市を計画し、とりあえず、20年間で50万人規模という目標で工事は急ピッチで進められていた。
新しい首都・新京は、五族協和・王道楽土をそれ自体が示す首都でなければならない。従来の中国の北京や南京のようでもなく、日本的な東京や大阪のようでもなく、またロシア文化を体現しているようなハルビンのようでもない。新しい都市、どちらかというとフランスのパリを現代化したような、あるいは古代ローマに匹敵するような首都造りが計画された。新京の都市作りの最大の特徴は計画性ということで、住居・商業・工業地区を明確に区分し、建築物はすべて許可制とし、モニュメントを除き、高さ20メートル以下に制限された。
新京の都市作りで特徴的なことは「国際公園都市」という点で、とにかく中心部から周辺部にかけて、いくつもの公園が計画されていた。
しかし、以上に述べたことはすべてまだ計画の段階で、これを実際に作るのが、これからの課題であった。活気はあるけれども人間が少ない。計画はあるがそれを実行に移し、実現させる人材はほとんどいない。まさに、そういう状況の中に2人は飛び込んだのである。
新しい首都・新京は、五族協和・王道楽土をそれ自体が示す首都でなければならない。従来の中国の北京や南京のようでもなく、日本的な東京や大阪のようでもなく、またロシア文化を体現しているようなハルビンのようでもない。新しい都市、どちらかというとフランスのパリを現代化したような、あるいは古代ローマに匹敵するような首都造りが計画された。新京の都市作りの最大の特徴は計画性ということで、住居・商業・工業地区を明確に区分し、建築物はすべて許可制とし、モニュメントを除き、高さ20メートル以下に制限された。
新京の都市作りで特徴的なことは「国際公園都市」という点で、とにかく中心部から周辺部にかけて、いくつもの公園が計画されていた。
しかし、以上に述べたことはすべてまだ計画の段階で、これを実際に作るのが、これからの課題であった。活気はあるけれども人間が少ない。計画はあるがそれを実行に移し、実現させる人材はほとんどいない。まさに、そういう状況の中に2人は飛び込んだのである。