ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「種牛」という存在の異様さ

2010-07-17 14:35:17 | ときのまにまに
<口蹄疫問題も峠を越えたようなので、ちょっと反動的な気持ちを記録しておきます。>

今回の口蹄疫問題で、美味しい牛の生産という過程における、種牛という存在の異様さが国民の前にさらけ出されました。牛にせよ、豚にせよ、鶏でも同じことだと思いますが、動物の生命は生殖という営みによって産み出されます。そこには当然雄による精子と雌の卵子との出会いがあります。そのことは動物としてのヒトにおいても同じことでせす。それは人間が立ち入ることができない生命の神秘に属することである、と思ってきました。
ところが、今回私たちの前に晒された現実は、恐ろしいほど違います。まるで植物の交配と同レベルの操作によって美味しい牛が生産されていたらしいのです。
こういう現実が連日、微に入り細にわたり、テレビや新聞で説明されますと、こちらの意識まで、それが普通のことになってしまいます。もう一度繰り返します。そこで説明されている現実は、人間における性の営みと同じ構造の話しなのです。人間だから「神秘」で牛なら「合理的」という訳にはいかないでしょう。種牛は毎日毎日ひたすら精液製造マシーンとして働かされ徹底的に精液を搾り取られます。まさに「搾取」(厳密には「搾種」です)されます。そこには動物としての「性の営み」は完全に、徹底的に否定されています。彼らにとって「発情」はどうなっているのだろうかという疑問も出てきます。人間とは恐ろしい動物です。牛たちにとってはまさに「悪魔的存在」でしょう。私はこの話しを聞く度に、ユダヤ人をガス室に送り込んだナチスを思い浮かべます。その内に、いつの日か、牛や豚からの逆襲があるのではないでしょうか。いや、今度の口蹄疫騒動はその始まりかも知れません。
その意味では、むしろ牛の飼育農家の人々が種牛に対して抱く感情に「未だ残されている人間味」を感じます。

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