お早ようございます。主の平和。次主日の説教を発送。『J・X失われた物語』続読。アリマタヤのヨセフとマグダラのマリアとの関係がドラマテック。アリマタヤのヨセフについての福音書の叙述を調べる。スキを突いている。面白い。午後からクリニックに行く。夕食後、小池栄子主演「捜査指揮官水城さや」を見る。まさに「オヤジ殺し」小池栄子の新しい魅力100%、補佐する杉本哲太が好演。11時就寝、6時起床。体調快調、チュン、チュン。
posted at 06:08:41
今日の名言:RT @osamu_dazai:
他の生き物には絶対に無くて、 人間にだけあるもの。 それはね、ひめごと、というものよ。(斜陽)
<一言>の「ひめごと」をあっちの方だけに限定して想像してはならない。友人や相棒は勿論、親子間でも、夫婦間でも、絶対に見せられない自分自身の姿。神さまだけが知っていること。本当は神さまにも秘密にしておきたいが。
posted at 07:05:16
今日のこころ旅は、空飛ぶ正平。宮古島太平山、日本一平らな所、一面さとうきび畑、マンゴージュース、白い砂浜、平良港に到着。明日は石垣島。
posted at 08:00:22
今朝のこころ旅は、沖縄・宮古島。一度行かねばと思いつつなかなか実現してない場所。親父が太平洋戦争で徴兵され終戦まで過ごした場所。あの場所で、終戦を迎え、復員後の生き方を決意したという。家族はもう死んでいるだろうから、一生、親を失った戦争孤児のために生きようと。映像を見ながら、この島のどこで過ごしたのかと目が探す。
Hanna Bunya すごいなぁ。そんな風に思ってたんだ!だから「お袋さん」ストーリーが対であるんですね!そっちのまとめもどうぞよろしくお願い申し上げます。
糸原 由美子 お母様とご兄弟で38度線を超えられたお話はしっかり覚えていますが、そのときお父様がどこにおられたかお聞きしていたのかどうか、そうだったんですね。でも宮古島も大変だったのではないですか?
文屋 善明 その時の父の居場所はただ沖縄ということだけだったので、母はほとんど諦めていたと思いますが、私たち子供には「父は生きている」という信念を貫いていました。
Hanna Bunya わぁー。主の栄光!
Hanna Bunya なんだか、Amazing GraceのJohn Newtonのストーリーみたいです。
文屋 善明 もし、母が諦めていなければ、先に帰国した母と子とは父の実家(宮城県)で父を待つべきだったと思いますが、宮城県ではいろいろなことがあったので、あえて母の実家(大阪)で住むようになりました。その後、父も復員し、大阪で「新しい文屋家」を立ち上げたのです。
Hanna Bunya 「いろいろなこと。。。」 意味深です。 火垂るの墓の清太と節子みたいな感じでしょうか。。。それにしても、みなさん、すごい信念です。信じる人は救われる!
文屋 善明 「いろいろなこと」、それは言ってしまえば、私の兄〔健一)の遺骨の問題でした。詳しくは、また機会があれば個人的に。
Hanna Bunya そうでした。また聞かせてください。甥っ子のヒビタンが憲法改正したら自分は戦争にいかなくてはいけなくなるのか、心配しています。ちなみに、その弟の絆くんは火垂るの墓の節子と同じ4歳にもうすぐなります。政治家や武器屋、てめえらきいてんのかよ!です。
糸原 由美子 文屋さんがご長男だとばっかり思っていました。これはほんとに初耳です。
文屋 善明 兄健一は私が生まれる前に亡くなりましたので、私も会ったことがありません。私は長男として育てられました。
「昨日のツイート 01/28」をブログにアップしました。 http://t.co/0gQhKe37
posted at 09:00:32
日々の聖句2013 01月29日(火)
神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。(創21:22)
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(1テサ5:28)
私の黙想:
今日の聖句は、信仰者同士の形骸化した挨拶ではない。敵対関係にあるアビメレクがアブラハムに向かって語った挨拶である。ライバルからも認められる信仰。彼には神が着いているから敵わない。これが生きた信仰だ。これをストレートにすべての場面に適用するわけにはいかないが、身近な人間関係から国際関係に至るまで、最終的に友好関係を築く土台は誠実さである。
萩野 秀子 神様と共にいて信頼している関係。嬉しいです。
望月 克仁 アーメン
Kenichi Matsuuraに投稿しました文屋 善明
こちらこそ、宜しくお願いします。 プロテスタントの福音派の教会に通っていますが、ジョンストット、ドロテーレゼ、ヘンリーナウエンの著書に触れて、社会問題に対する教会やキリスト教徒のあり方を考えています。
最近では、小林多喜二の母親であった小林セキ氏がキリスト教徒であった事を知り、非常に良い感化を得られました。
長くなりましたが、宜しくお願いします。
文屋 善明 真面目なマルキストはほとんどキリスト者と違いがありません。私自身ははマルクのいう唯物論(つまり無神論)ということさえ、キリスト教の神論とほとんど差がないと思っています。違いはただ一点、キリスト教サークルに属しているか、属していないかという人間的な要因だけだと思っています。
二上 英朗 かねがねそう思っていました。南相馬生まれのマルキスト監督亀井文夫「戦ふ兵隊」は、聖公会の信者である母親松本クマのキリスト教に感化されて、不屈の反戦精神をつらぬきました。おなじ南相馬生まれの戦後民間憲法の提唱者、憲法学者の鈴木安蔵もキリスト者の両親の感化によって東北大の暴力制裁の気風にストライキを敢行した。みな、神の愛を、実践しようといた。祈るだけのクリスチャンと違う、ということでも共通します。
Kenichi Matsuura 僕の場合は、保守的な教会内で、“マルクス主義=無神論”と教えられていたため、恥ずかしながらこの考えから脱却するのに、時間がかかってしまいました。
マルクスの生い立ちや、当時のキリスト教のあり方、そして自由主義神学者や哲学的背景を、調べて自分の論理を打ち立てて確信へと導きました。
小林セキ氏の事を知る前は、そのようにして論理的道筋をつけて、キリスト教とマルクス主義の一致を試みようとしていました。大胆な御意見有難うございます。
Kenichi Matsuura 二上 英朗さん、勉強になります。 今度、また、調べさせていただきます。
文屋 善明 いいですね。こういうことが忌憚なく、自由に話し合える環境が大切だと思っています。
金井 由嗣
大庭先生と水草先生のコメントを頭に入れながら、教文館アウグスティヌス著作集の『三位一体論』を読む。巻末の泉治典氏の解説も読む。この難解な書が、明解に解き明かされている。勉強になるなあ。
て言うか、やっぱり専門家に話してもらった方が良かったんじゃあ・・・(もう遅いぞ)
f^_^;)
Kishimoto Daiki もう遅いです(笑) 経済的な問題だけで先生にお願いしたわけでありませんので、せひとも宜しくお願い致します。楽しみにしております。
金井 由嗣 前の中澤訳も格調高い名訳でしたが、今回の泉訳も良いですね。文意が明瞭です。
Katsunori Endo ところで、なぜか くだんの学会のパネリストが 金井先生の教会の方々 VS(?) と うちの教会のもの・・・になっていますね。 共通点もあるのに・・・。
金井 由嗣 共通点があるから対話が成立する、相違点もあるから議論が面白くなる。学会とは、そういうところだと思っています。(^_-)-☆
Katsunori Endo とくに西部はそうだと思います。
Kishimoto Daiki 前回のテーマはNPPで、それに対して対極的な方々に発題をお願いしましたが、今回の三位一体論については対極的な方々からの発題ではなく、古代と現代ではそれぞれどう理解されているかを検証しようというものです。総括がルーテル派の正木先生ということもあり、バランスを考えて、今回のような顔ぶれになりました。
文屋 善明 私自身はアウグスチヌスについて専門的に研究をしたことがありませんが、恩師・松村克己は京大の哲学で田辺元および波多野精一のもとで「アウグスチヌスにおける悪の研究」(1933,「哲学研究」を書き、さらに1952年東京神学大学の「神学~石原謙博士古稀記念論文集)」に「アウグスチヌスの三一論~神学方法論についての一考察」を寄せています。おそらく神学の畑でアウグスチヌスを本格的論じた初期の業績だと思います。ぜひ、一読下さい。
金井 由嗣 文屋先生、お待ちしておりました。(^_^) 松村先生のアウグスティヌス論、読んでみます。特に2番目にあげていただいた論文が、直接今回のテーマに関わってきそうですね。
二上 英朗 そもそも三位一体の考え方にはギリシア定式とラテン定式があるのがややこしい。
ギリシア定式では、父なる神・子なる神・聖霊なる神それぞれが自存者(ヒュポスタシス)で、そのうえで一つの実体(ウーシア)として合致すると見る。ラテン定式ではちょっと違っていて、三位すなわち三つの位格(ペルソナ)それぞれに一つの本質があり、それで三位一体が成立していると見る。アウグスティヌスは後者に位置するが、まことに面倒な考え方であるというしかない。
ひるがえって旧約聖書では、キリストの「受肉」(incarnation・・・もっと見る
金井 由嗣 二上さん、そうなんです、ややこしいんですよ!f^_^;)
ただ、このややこしさ自体が神様から人間へのプレゼントなのかな、と。簡単に解けないから、考えることを学べるのだと思っています。人間の哲学は、(例えばプラトンなどは)ずっと単純ですから。あ、最近のややこしい哲学は、別ですよ。f^_^;)
文屋 善明 私は前にどこかでかきましたが、神学校に入学してキリスト教史を学び初め、1学期頃、三一論争にさしかかります。この時点で、神学って難しいものなんだぞ。あんたたちの頭で理解出来るか。これが理解出来なければ、神学は諦めなさいという警告的意味があると思います。
金井 由嗣 確かに。僕は今、神学校で教理史も担当しているのですが、キリスト論と三一論のところを教えるのは大変です。でも、そこを何とか「神学って楽しいんだぞ」に持っていけたら、とも思っています。(^_^)
文屋 善明 私は最近(つまりこの歳になって)、三一論はヘブライイズムとヘレニズムとの不幸な出会いによって生まれた子供だと思っています。ユダヤ教を背景にして生まれたキリスト教をギリシャ哲学の概念で解明しようとした議論そのものが不要なことであったと思っています。
金井 望 「無限の前に有限は消え失せ、純粋な無となる。我々の精神も正義も神の前には同様である」(パスカル『パンセ』)。
三位一体という神秘を、有限なる人間の言葉でどこまで表現できるか?
ギリシア、ラテンで表現されたものを、ヘブライはどのように理解し、受容するのか。ユダヤ人伝道、ユダヤ人と異邦人の和解という具体的・現実的な問題を考えるにあたっても、この三位一体論に興味があります。
ど素人ながら(^^)
金井 由嗣 >文屋先生、確かに、そうした理解の仕方もありますね。ハルナック以来の強固な伝統でもあります。
僕は、エイレナイオスやテオフィロスあたりを中心に読んでいたのですが、むしろヘブライ的伝統の神は「ギリシャ哲学の範疇では捉えきれない」と認めた結果が三位一体論ではないか、と思っています。哲学的にはプラトニズムやアリウス説の方がはるかにスッキリしているんですが、それではキリスト教の神にはならないし、救済が成立しない、というこだわりが三位一体論につながっていると思っています。
文屋 善明 歴史的にはその通りでしょう。しかし率直に見ていて、三一論は論理としては破綻したという告白、というより破綻したからあとは「政治的決着」という形で受け入れられたドグマでしょう。ヘブライズムの唯一神論とキリスト神論とをギリシャ哲学の概念を用いて論理づけようとした試みが破綻したということを明確にしておく必要があると思います。
金井 由嗣 そうですね。論理の破綻を率直に認めた上で、論理を取るか宗教性を取るかという選択において宗教性を選択した、ということだと思います。結局はイエス・キリストという人物を「受肉した神」と信じるかどうか、という宗教性の問題であり、そこを抜きにしては成立しない議論ではあります。
ただ、「政治的決着」というのはニカイア会議以降の話で、3世紀までは迫害され殺されることを前提にした上で、命を懸けるに足る真理を追求する、という問題でした。その点は尊敬に値すると思います。
金井 由嗣 例えば禅では、論理の破綻に追い込むとで宗教性に開眼させることを重視するわけですよね。キリスト教的伝統では、そこに「受肉」があり、その延長上に三位一体が論じられているのではないかと。
文屋 善明 その通りで、三一論という議論が出てくる以前は、単純にイエスはキリストだという信仰だけが生きていた。いや、という信仰だけで生きていた。もし、その信仰が否定されるなら、死んでもいいという信仰です。その信仰を貫くならイエスが信じている「父なる神」も神であり、イエスも神だ。という2神論になる。徹底的に2神論に拘るということも可能であった。これは歴史的仮説です。
文屋 善明 例えば、変な例えですが、もしキリスト教が2神論という形で日本に到達したら、私たち日本人はそれをすんなり受け入れたと思います。
金井 由嗣 そうなんですよね。ユスティノスまでは2神論として読み取ることも可能な書き方になっています。「3」が問題になるのは2世紀後半のエイレナイオスやテオフィロスからで、グノーシスとの論争の文脈で聖霊の独立性が問題になります。ということは、多神論や汎神論には解消させない、ということですね。これはこれで、またの機会に考えてみたいと思っています。
三浦 三千春 日本人は、神学が形成される時に、そこに参加しておらず、しかも、「西洋」なりの歴史の事情から出るバイアスもかかって形成されてきたものを、先ずは正統として受け入れてからでなければ、自分たちのもっと腑に落ちるような理解・表現の仕方を探ることも許されない、というのは、結構、労力のかかる作業だな、と思います(^o^)。
三浦 三千春 おそらく「学会」の目的や方向性の大きなものが、「日本人に分かるように福音を提示する」ということであれば、文屋氏と金井氏の、ここでのディスカッションみたいな内容は、本質的に意味のあることと思います。
余談ながら・・・・・塩屋の神学校に、こういうことを深く研究し、論じる論客が「いる」という状況の日が来るとは、予測しておりませんでした(^o^)。もっと忍耐してキヨメ派におれば良かったかな?と半分冗談、半分ホンネです。返答に困ることを書いてスミマセンm(_ _)m
金井 由嗣 >三千春さん
ふふふ、ノーコメントです。(^_-)-☆
金井 由嗣 少しマジレスすると、二千年かけて論じつくされてきた西洋の神学的伝統は尊敬に値するものであり、学ぶべきものですが、コンスタンティヌス以来の「多数派、支配者」であることを前提にした神学は、そのまま日本では通用しない一面もあると思うのです。多神教社会、しかも高度な教養を備えた多神教社会の中で少数者としてのキリスト教が真理性を弁証していくためには、古典古代の教養主義の中で思索を発展させた3世紀までのキリスト教思想家たちに学ぶ必要があると思って、もっぱらその時代を研究対象にしてきました。
その意味ではアウグスティヌスは興味の中心になかったのですが、ただアウグスティヌス自身が古典古代の教養を追求したのちにキリスト教に改心した人であること、それゆえに哲学的理性を尊重した上で宗教的真理を言葉に表していった人であることは、今回の学びを通じて実感していますし、やはり学んでおくべき人ではあったと思います。
三浦 三千春 「政治的決着」という側面もあるにせよ、そこに神ご自身が介入されて、三一神論が正統という流れになった、ということを、信仰を以て受け止めるしかない、ということなのかな?と私自身は思います。
先人からもたらされたものを、先ずは素直に受け止めると言うこと自体が、神が喜ばれるような「徳」を含んでもいることとも思います。
一方、そうなったいきさつであるとか、そこにまつわる当時の議論を知って、三一神論で言わんとしていることの実体は何なのか、ということを把握する作業が有益なのだと思います(それは、私の感覚から言・・・もっと見る
金井 由嗣 いや、ずれてはいないと思いますよ。二千年の風雪に耐える教えにはそれだけの重みがある、と同時に、単なる形式を継承するだけでは内実が伝わらなくなる。根底から問い直し受け取り直すことで、そこで伝えようとしている真理が時代と環境が異なっても通用する普遍性を獲得するのだと思いますし、そこまで考え抜いた事柄は自分の言葉に直して伝えることができる。つまり、わかりやすくなる。神学に限らず、学問は本来、それを目標にすべきものだと思っています。
Taka Meg Oba アウグスティヌスが三位一体論を執筆している年代は400-421年であると考えられていますから、この時代からすれば325年のニカイア、381年のコンスタンティノポリスでいわゆる「正統」ということにはある程度の解決が得られていた時代であると思います。また、アウグスティヌスの他の書物を読むと、依頼されて書いているということや、説教などでも途中からその当時問題となっていたことに話が進んでいく、もしくは逸れていくということが多いと思います。けれども、三位一体論は少しこれとは異なっています。アウグスティヌスが「正統」を確立しようとしたのではなく、アウグスティヌスの言葉で言えば「カトリック(正統)」としての三位一体が果たしてどうであるのか、個人的な必要と、さらにはこの三位一体ということに対して自分の周りの人々の理解のための書物として著している点が大きいのだと思います。ですからアウグスティヌスにとっては論理的に三位一体を捉えて、神学を構築しようとしたのではなく、やはりそれまでの生き方と同じように「司牧者」としての立場から、この問題を取り扱っていかなければという思いに動かされたのだと思います(読者を気にかけるアウグスティヌスの姿が三位一体論のなかにもあります)。この点でアウグスティヌスが『キリスト論』という書物は書いていないことも興味深いと思います。おそらく、それは彼自身や彼が牧する者たちにとって、三位一体より問題とならなかったためであると思います。私たちが三位一体論を読むと、「思弁的」であるとか「わからないことを繰り返しているな」という印象を持ってしまうわけですが、アウグスティヌスはそのようなことをやりたかったわけではなかったと思います。この観点からすれば「では、今の教会に集う私たちは、本気で三位一体ということに取り組もうとしているのか」と問われると思います。ここから三位一体論を今日取り上げるということが、現代の私たちにとっても意味のあることだと思っています。
金井 由嗣 大庭先生、その通りですね。司牧者としての視点はアウグスティヌスの場合、特に重要だと思いました。「正統」についていえば、コンスタンティノポリス会議の後で一応正統教義としての三位一体が確立した時点でそれをきちんと理解する必要がある、けれどもまだ古代の諸哲学が生きて活動している時期であり、単純に教会の権威だけで通すわけにはいかず、哲学的な土台をしっかり確認する必要がある、ということでしょうね。
大頭 眞一 由嗣先生 楽しみにしています。たいへんですがよろしくお願いします。今回は西方教会ですね。東方好きの私としては、バシレイオスのペリコレーシスも捨てがたいです。ペリコレーシスは 相互浸透という通常の訳よりは、dancing among each oter と訳すのがいいんだと聞いたことがあります。ご自身愛の交わりに生きる神。ほとんど三神論みたいな感じですが、やっぱりここいらに核心がありそうな気がして。関係ない話でお邪魔しました。
金井 由嗣 大頭先生、助けてくださいね。ペリコレーシスを dancing with each other とは、メチャメチャ大胆な訳ですね。でも箴言8章を考えると、言い得て妙なのかもしれません。古代の三位一体論といえば、大頭先生にカッパドキア教父の話をしてもらうというテもあったと思うのですが、今回は西方でまとめるみたいです。東方教父の視点から、ディスカッションに参戦していただけると、楽しくなりそうですね。(^O^)/
三浦 三千春 dancing among each other 動的ですね!
大頭 眞一 私はoterと間違え、由嗣先生はwithと間違え、ついに三浦先生が正しく綴ってくださいました。はじめまして、三浦先生。
三浦 三千春 はじめまして、こんばんわです。よろしくお願い致します(^^)。
dance って表現で、連想ゲームとしては、スピリチャリティーと思ってしまいました。
金井 由嗣 もうね、学会も議論を楽しむ場になればいいと思うんですよ。一緒に踊りましょう、学会で。(^_^)
三浦 三千春 執筆の筆も踊れば言うことなし!ですね(^o^)
大頭 眞一 ダイナミックと言えば、神が人となられた、これほどダイナミックなことは他にないですよね。
三浦 三千春 私はイエスさまは人となって、人であることを、楽しんで下さったお方であると、信じております。「人っていいな~」って。そうであるからこそ、まことの「悲しみの人」であり、「真の人」であって下さったように思えてならないのです。
大頭 眞一 賛成!そしてまた痛む私たちに身を屈め、私たちを覆うために人となってくださったのだとも思います。
金井 望 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネ第一1:3)。三位一体論において、このヨハネの「交わり」の思想は、大変重要な意味を持っていると思います。
「ご自身愛の交わりに生きる神」。その交わりにあずかるべく神の像に造られ、かつ贖われた人間。その交わりの具体化である教会。アウグスティヌスの三位一体論が本来、「思弁的」というよりも「牧会的」な目的・性格を持つものだ、という見方は興味深いです。
私はアウグスティヌスの『教えの手ほどき』が好きなんですが、彼はまさに「司牧者」ですね。
大頭 眞一 そもそも西方教会でも、神が十字架に架けられたという表現は、異端とされたことはないと理解しています。ただ、父神受苦説に陥ることがないように、という警戒はありましたが。
大頭 眞一 望先生
そこ、そこ、そこをもっと掻いてください。気持ちいいです。ただ、アウグスティヌスは聖霊を父と子との間の愛の絆と考えて、聖霊を非人格化したというのが、東方からの批判であろうと思います。
三浦 三千春 東方教会における聖霊理解、興味深いです。
金井 望 も少しだけ掻かせていただきますと、聖化も個人的な面だけでなく教会的・共同体的な面があると聖書に教えられており、それは重要なことだと思います。
アウグスティヌスの三位一体論が彼の他の神学的考究・論述とどのように関係しているのか、また、彼の実践にどのように関係していたのか、そこまで聴いてみたいです。欲張り過ぎか (^^;
金井 望 うちの教団は、使徒信条は信仰基準として規定していますが、ニカイア信条(NC)やアタナシオス信条など、他の信条は規定していません。そのため三位一体論が弱くなりがちかもしれません。
これは、うちだけでなく、いわゆる「福音派」(ルーテル教会、改革派長老派、聖公会、メソジストを除く)の教会・団体に広く見られる問題かもしれません。
キリスト者・教会が日本の多神教の文化に飲み込まれてしまわぬよう、この研究会議が用いられることを祈ります。
<補遺>
キリスト教とマルキシズム、アウグスチヌスと三一神論、いろいろな議論が動じ並行的に展開して、FBって楽しいですね。
今日は午後1時から、ポロの車検のためフォークワーゲンの店に出かけます。
posted at 06:08:41
今日の名言:RT @osamu_dazai:
他の生き物には絶対に無くて、 人間にだけあるもの。 それはね、ひめごと、というものよ。(斜陽)
<一言>の「ひめごと」をあっちの方だけに限定して想像してはならない。友人や相棒は勿論、親子間でも、夫婦間でも、絶対に見せられない自分自身の姿。神さまだけが知っていること。本当は神さまにも秘密にしておきたいが。
posted at 07:05:16
今日のこころ旅は、空飛ぶ正平。宮古島太平山、日本一平らな所、一面さとうきび畑、マンゴージュース、白い砂浜、平良港に到着。明日は石垣島。
posted at 08:00:22
今朝のこころ旅は、沖縄・宮古島。一度行かねばと思いつつなかなか実現してない場所。親父が太平洋戦争で徴兵され終戦まで過ごした場所。あの場所で、終戦を迎え、復員後の生き方を決意したという。家族はもう死んでいるだろうから、一生、親を失った戦争孤児のために生きようと。映像を見ながら、この島のどこで過ごしたのかと目が探す。
Hanna Bunya すごいなぁ。そんな風に思ってたんだ!だから「お袋さん」ストーリーが対であるんですね!そっちのまとめもどうぞよろしくお願い申し上げます。
糸原 由美子 お母様とご兄弟で38度線を超えられたお話はしっかり覚えていますが、そのときお父様がどこにおられたかお聞きしていたのかどうか、そうだったんですね。でも宮古島も大変だったのではないですか?
文屋 善明 その時の父の居場所はただ沖縄ということだけだったので、母はほとんど諦めていたと思いますが、私たち子供には「父は生きている」という信念を貫いていました。
Hanna Bunya わぁー。主の栄光!
Hanna Bunya なんだか、Amazing GraceのJohn Newtonのストーリーみたいです。
文屋 善明 もし、母が諦めていなければ、先に帰国した母と子とは父の実家(宮城県)で父を待つべきだったと思いますが、宮城県ではいろいろなことがあったので、あえて母の実家(大阪)で住むようになりました。その後、父も復員し、大阪で「新しい文屋家」を立ち上げたのです。
Hanna Bunya 「いろいろなこと。。。」 意味深です。 火垂るの墓の清太と節子みたいな感じでしょうか。。。それにしても、みなさん、すごい信念です。信じる人は救われる!
文屋 善明 「いろいろなこと」、それは言ってしまえば、私の兄〔健一)の遺骨の問題でした。詳しくは、また機会があれば個人的に。
Hanna Bunya そうでした。また聞かせてください。甥っ子のヒビタンが憲法改正したら自分は戦争にいかなくてはいけなくなるのか、心配しています。ちなみに、その弟の絆くんは火垂るの墓の節子と同じ4歳にもうすぐなります。政治家や武器屋、てめえらきいてんのかよ!です。
糸原 由美子 文屋さんがご長男だとばっかり思っていました。これはほんとに初耳です。
文屋 善明 兄健一は私が生まれる前に亡くなりましたので、私も会ったことがありません。私は長男として育てられました。
「昨日のツイート 01/28」をブログにアップしました。 http://t.co/0gQhKe37
posted at 09:00:32
日々の聖句2013 01月29日(火)
神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。(創21:22)
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(1テサ5:28)
私の黙想:
今日の聖句は、信仰者同士の形骸化した挨拶ではない。敵対関係にあるアビメレクがアブラハムに向かって語った挨拶である。ライバルからも認められる信仰。彼には神が着いているから敵わない。これが生きた信仰だ。これをストレートにすべての場面に適用するわけにはいかないが、身近な人間関係から国際関係に至るまで、最終的に友好関係を築く土台は誠実さである。
萩野 秀子 神様と共にいて信頼している関係。嬉しいです。
望月 克仁 アーメン
Kenichi Matsuuraに投稿しました文屋 善明
こちらこそ、宜しくお願いします。 プロテスタントの福音派の教会に通っていますが、ジョンストット、ドロテーレゼ、ヘンリーナウエンの著書に触れて、社会問題に対する教会やキリスト教徒のあり方を考えています。
最近では、小林多喜二の母親であった小林セキ氏がキリスト教徒であった事を知り、非常に良い感化を得られました。
長くなりましたが、宜しくお願いします。
文屋 善明 真面目なマルキストはほとんどキリスト者と違いがありません。私自身ははマルクのいう唯物論(つまり無神論)ということさえ、キリスト教の神論とほとんど差がないと思っています。違いはただ一点、キリスト教サークルに属しているか、属していないかという人間的な要因だけだと思っています。
二上 英朗 かねがねそう思っていました。南相馬生まれのマルキスト監督亀井文夫「戦ふ兵隊」は、聖公会の信者である母親松本クマのキリスト教に感化されて、不屈の反戦精神をつらぬきました。おなじ南相馬生まれの戦後民間憲法の提唱者、憲法学者の鈴木安蔵もキリスト者の両親の感化によって東北大の暴力制裁の気風にストライキを敢行した。みな、神の愛を、実践しようといた。祈るだけのクリスチャンと違う、ということでも共通します。
Kenichi Matsuura 僕の場合は、保守的な教会内で、“マルクス主義=無神論”と教えられていたため、恥ずかしながらこの考えから脱却するのに、時間がかかってしまいました。
マルクスの生い立ちや、当時のキリスト教のあり方、そして自由主義神学者や哲学的背景を、調べて自分の論理を打ち立てて確信へと導きました。
小林セキ氏の事を知る前は、そのようにして論理的道筋をつけて、キリスト教とマルクス主義の一致を試みようとしていました。大胆な御意見有難うございます。
Kenichi Matsuura 二上 英朗さん、勉強になります。 今度、また、調べさせていただきます。
文屋 善明 いいですね。こういうことが忌憚なく、自由に話し合える環境が大切だと思っています。
金井 由嗣
大庭先生と水草先生のコメントを頭に入れながら、教文館アウグスティヌス著作集の『三位一体論』を読む。巻末の泉治典氏の解説も読む。この難解な書が、明解に解き明かされている。勉強になるなあ。
て言うか、やっぱり専門家に話してもらった方が良かったんじゃあ・・・(もう遅いぞ)
f^_^;)
Kishimoto Daiki もう遅いです(笑) 経済的な問題だけで先生にお願いしたわけでありませんので、せひとも宜しくお願い致します。楽しみにしております。
金井 由嗣 前の中澤訳も格調高い名訳でしたが、今回の泉訳も良いですね。文意が明瞭です。
Katsunori Endo ところで、なぜか くだんの学会のパネリストが 金井先生の教会の方々 VS(?) と うちの教会のもの・・・になっていますね。 共通点もあるのに・・・。
金井 由嗣 共通点があるから対話が成立する、相違点もあるから議論が面白くなる。学会とは、そういうところだと思っています。(^_-)-☆
Katsunori Endo とくに西部はそうだと思います。
Kishimoto Daiki 前回のテーマはNPPで、それに対して対極的な方々に発題をお願いしましたが、今回の三位一体論については対極的な方々からの発題ではなく、古代と現代ではそれぞれどう理解されているかを検証しようというものです。総括がルーテル派の正木先生ということもあり、バランスを考えて、今回のような顔ぶれになりました。
文屋 善明 私自身はアウグスチヌスについて専門的に研究をしたことがありませんが、恩師・松村克己は京大の哲学で田辺元および波多野精一のもとで「アウグスチヌスにおける悪の研究」(1933,「哲学研究」を書き、さらに1952年東京神学大学の「神学~石原謙博士古稀記念論文集)」に「アウグスチヌスの三一論~神学方法論についての一考察」を寄せています。おそらく神学の畑でアウグスチヌスを本格的論じた初期の業績だと思います。ぜひ、一読下さい。
金井 由嗣 文屋先生、お待ちしておりました。(^_^) 松村先生のアウグスティヌス論、読んでみます。特に2番目にあげていただいた論文が、直接今回のテーマに関わってきそうですね。
二上 英朗 そもそも三位一体の考え方にはギリシア定式とラテン定式があるのがややこしい。
ギリシア定式では、父なる神・子なる神・聖霊なる神それぞれが自存者(ヒュポスタシス)で、そのうえで一つの実体(ウーシア)として合致すると見る。ラテン定式ではちょっと違っていて、三位すなわち三つの位格(ペルソナ)それぞれに一つの本質があり、それで三位一体が成立していると見る。アウグスティヌスは後者に位置するが、まことに面倒な考え方であるというしかない。
ひるがえって旧約聖書では、キリストの「受肉」(incarnation・・・もっと見る
金井 由嗣 二上さん、そうなんです、ややこしいんですよ!f^_^;)
ただ、このややこしさ自体が神様から人間へのプレゼントなのかな、と。簡単に解けないから、考えることを学べるのだと思っています。人間の哲学は、(例えばプラトンなどは)ずっと単純ですから。あ、最近のややこしい哲学は、別ですよ。f^_^;)
文屋 善明 私は前にどこかでかきましたが、神学校に入学してキリスト教史を学び初め、1学期頃、三一論争にさしかかります。この時点で、神学って難しいものなんだぞ。あんたたちの頭で理解出来るか。これが理解出来なければ、神学は諦めなさいという警告的意味があると思います。
金井 由嗣 確かに。僕は今、神学校で教理史も担当しているのですが、キリスト論と三一論のところを教えるのは大変です。でも、そこを何とか「神学って楽しいんだぞ」に持っていけたら、とも思っています。(^_^)
文屋 善明 私は最近(つまりこの歳になって)、三一論はヘブライイズムとヘレニズムとの不幸な出会いによって生まれた子供だと思っています。ユダヤ教を背景にして生まれたキリスト教をギリシャ哲学の概念で解明しようとした議論そのものが不要なことであったと思っています。
金井 望 「無限の前に有限は消え失せ、純粋な無となる。我々の精神も正義も神の前には同様である」(パスカル『パンセ』)。
三位一体という神秘を、有限なる人間の言葉でどこまで表現できるか?
ギリシア、ラテンで表現されたものを、ヘブライはどのように理解し、受容するのか。ユダヤ人伝道、ユダヤ人と異邦人の和解という具体的・現実的な問題を考えるにあたっても、この三位一体論に興味があります。
ど素人ながら(^^)
金井 由嗣 >文屋先生、確かに、そうした理解の仕方もありますね。ハルナック以来の強固な伝統でもあります。
僕は、エイレナイオスやテオフィロスあたりを中心に読んでいたのですが、むしろヘブライ的伝統の神は「ギリシャ哲学の範疇では捉えきれない」と認めた結果が三位一体論ではないか、と思っています。哲学的にはプラトニズムやアリウス説の方がはるかにスッキリしているんですが、それではキリスト教の神にはならないし、救済が成立しない、というこだわりが三位一体論につながっていると思っています。
文屋 善明 歴史的にはその通りでしょう。しかし率直に見ていて、三一論は論理としては破綻したという告白、というより破綻したからあとは「政治的決着」という形で受け入れられたドグマでしょう。ヘブライズムの唯一神論とキリスト神論とをギリシャ哲学の概念を用いて論理づけようとした試みが破綻したということを明確にしておく必要があると思います。
金井 由嗣 そうですね。論理の破綻を率直に認めた上で、論理を取るか宗教性を取るかという選択において宗教性を選択した、ということだと思います。結局はイエス・キリストという人物を「受肉した神」と信じるかどうか、という宗教性の問題であり、そこを抜きにしては成立しない議論ではあります。
ただ、「政治的決着」というのはニカイア会議以降の話で、3世紀までは迫害され殺されることを前提にした上で、命を懸けるに足る真理を追求する、という問題でした。その点は尊敬に値すると思います。
金井 由嗣 例えば禅では、論理の破綻に追い込むとで宗教性に開眼させることを重視するわけですよね。キリスト教的伝統では、そこに「受肉」があり、その延長上に三位一体が論じられているのではないかと。
文屋 善明 その通りで、三一論という議論が出てくる以前は、単純にイエスはキリストだという信仰だけが生きていた。いや、という信仰だけで生きていた。もし、その信仰が否定されるなら、死んでもいいという信仰です。その信仰を貫くならイエスが信じている「父なる神」も神であり、イエスも神だ。という2神論になる。徹底的に2神論に拘るということも可能であった。これは歴史的仮説です。
文屋 善明 例えば、変な例えですが、もしキリスト教が2神論という形で日本に到達したら、私たち日本人はそれをすんなり受け入れたと思います。
金井 由嗣 そうなんですよね。ユスティノスまでは2神論として読み取ることも可能な書き方になっています。「3」が問題になるのは2世紀後半のエイレナイオスやテオフィロスからで、グノーシスとの論争の文脈で聖霊の独立性が問題になります。ということは、多神論や汎神論には解消させない、ということですね。これはこれで、またの機会に考えてみたいと思っています。
三浦 三千春 日本人は、神学が形成される時に、そこに参加しておらず、しかも、「西洋」なりの歴史の事情から出るバイアスもかかって形成されてきたものを、先ずは正統として受け入れてからでなければ、自分たちのもっと腑に落ちるような理解・表現の仕方を探ることも許されない、というのは、結構、労力のかかる作業だな、と思います(^o^)。
三浦 三千春 おそらく「学会」の目的や方向性の大きなものが、「日本人に分かるように福音を提示する」ということであれば、文屋氏と金井氏の、ここでのディスカッションみたいな内容は、本質的に意味のあることと思います。
余談ながら・・・・・塩屋の神学校に、こういうことを深く研究し、論じる論客が「いる」という状況の日が来るとは、予測しておりませんでした(^o^)。もっと忍耐してキヨメ派におれば良かったかな?と半分冗談、半分ホンネです。返答に困ることを書いてスミマセンm(_ _)m
金井 由嗣 >三千春さん
ふふふ、ノーコメントです。(^_-)-☆
金井 由嗣 少しマジレスすると、二千年かけて論じつくされてきた西洋の神学的伝統は尊敬に値するものであり、学ぶべきものですが、コンスタンティヌス以来の「多数派、支配者」であることを前提にした神学は、そのまま日本では通用しない一面もあると思うのです。多神教社会、しかも高度な教養を備えた多神教社会の中で少数者としてのキリスト教が真理性を弁証していくためには、古典古代の教養主義の中で思索を発展させた3世紀までのキリスト教思想家たちに学ぶ必要があると思って、もっぱらその時代を研究対象にしてきました。
その意味ではアウグスティヌスは興味の中心になかったのですが、ただアウグスティヌス自身が古典古代の教養を追求したのちにキリスト教に改心した人であること、それゆえに哲学的理性を尊重した上で宗教的真理を言葉に表していった人であることは、今回の学びを通じて実感していますし、やはり学んでおくべき人ではあったと思います。
三浦 三千春 「政治的決着」という側面もあるにせよ、そこに神ご自身が介入されて、三一神論が正統という流れになった、ということを、信仰を以て受け止めるしかない、ということなのかな?と私自身は思います。
先人からもたらされたものを、先ずは素直に受け止めると言うこと自体が、神が喜ばれるような「徳」を含んでもいることとも思います。
一方、そうなったいきさつであるとか、そこにまつわる当時の議論を知って、三一神論で言わんとしていることの実体は何なのか、ということを把握する作業が有益なのだと思います(それは、私の感覚から言・・・もっと見る
金井 由嗣 いや、ずれてはいないと思いますよ。二千年の風雪に耐える教えにはそれだけの重みがある、と同時に、単なる形式を継承するだけでは内実が伝わらなくなる。根底から問い直し受け取り直すことで、そこで伝えようとしている真理が時代と環境が異なっても通用する普遍性を獲得するのだと思いますし、そこまで考え抜いた事柄は自分の言葉に直して伝えることができる。つまり、わかりやすくなる。神学に限らず、学問は本来、それを目標にすべきものだと思っています。
Taka Meg Oba アウグスティヌスが三位一体論を執筆している年代は400-421年であると考えられていますから、この時代からすれば325年のニカイア、381年のコンスタンティノポリスでいわゆる「正統」ということにはある程度の解決が得られていた時代であると思います。また、アウグスティヌスの他の書物を読むと、依頼されて書いているということや、説教などでも途中からその当時問題となっていたことに話が進んでいく、もしくは逸れていくということが多いと思います。けれども、三位一体論は少しこれとは異なっています。アウグスティヌスが「正統」を確立しようとしたのではなく、アウグスティヌスの言葉で言えば「カトリック(正統)」としての三位一体が果たしてどうであるのか、個人的な必要と、さらにはこの三位一体ということに対して自分の周りの人々の理解のための書物として著している点が大きいのだと思います。ですからアウグスティヌスにとっては論理的に三位一体を捉えて、神学を構築しようとしたのではなく、やはりそれまでの生き方と同じように「司牧者」としての立場から、この問題を取り扱っていかなければという思いに動かされたのだと思います(読者を気にかけるアウグスティヌスの姿が三位一体論のなかにもあります)。この点でアウグスティヌスが『キリスト論』という書物は書いていないことも興味深いと思います。おそらく、それは彼自身や彼が牧する者たちにとって、三位一体より問題とならなかったためであると思います。私たちが三位一体論を読むと、「思弁的」であるとか「わからないことを繰り返しているな」という印象を持ってしまうわけですが、アウグスティヌスはそのようなことをやりたかったわけではなかったと思います。この観点からすれば「では、今の教会に集う私たちは、本気で三位一体ということに取り組もうとしているのか」と問われると思います。ここから三位一体論を今日取り上げるということが、現代の私たちにとっても意味のあることだと思っています。
金井 由嗣 大庭先生、その通りですね。司牧者としての視点はアウグスティヌスの場合、特に重要だと思いました。「正統」についていえば、コンスタンティノポリス会議の後で一応正統教義としての三位一体が確立した時点でそれをきちんと理解する必要がある、けれどもまだ古代の諸哲学が生きて活動している時期であり、単純に教会の権威だけで通すわけにはいかず、哲学的な土台をしっかり確認する必要がある、ということでしょうね。
大頭 眞一 由嗣先生 楽しみにしています。たいへんですがよろしくお願いします。今回は西方教会ですね。東方好きの私としては、バシレイオスのペリコレーシスも捨てがたいです。ペリコレーシスは 相互浸透という通常の訳よりは、dancing among each oter と訳すのがいいんだと聞いたことがあります。ご自身愛の交わりに生きる神。ほとんど三神論みたいな感じですが、やっぱりここいらに核心がありそうな気がして。関係ない話でお邪魔しました。
金井 由嗣 大頭先生、助けてくださいね。ペリコレーシスを dancing with each other とは、メチャメチャ大胆な訳ですね。でも箴言8章を考えると、言い得て妙なのかもしれません。古代の三位一体論といえば、大頭先生にカッパドキア教父の話をしてもらうというテもあったと思うのですが、今回は西方でまとめるみたいです。東方教父の視点から、ディスカッションに参戦していただけると、楽しくなりそうですね。(^O^)/
三浦 三千春 dancing among each other 動的ですね!
大頭 眞一 私はoterと間違え、由嗣先生はwithと間違え、ついに三浦先生が正しく綴ってくださいました。はじめまして、三浦先生。
三浦 三千春 はじめまして、こんばんわです。よろしくお願い致します(^^)。
dance って表現で、連想ゲームとしては、スピリチャリティーと思ってしまいました。
金井 由嗣 もうね、学会も議論を楽しむ場になればいいと思うんですよ。一緒に踊りましょう、学会で。(^_^)
三浦 三千春 執筆の筆も踊れば言うことなし!ですね(^o^)
大頭 眞一 ダイナミックと言えば、神が人となられた、これほどダイナミックなことは他にないですよね。
三浦 三千春 私はイエスさまは人となって、人であることを、楽しんで下さったお方であると、信じております。「人っていいな~」って。そうであるからこそ、まことの「悲しみの人」であり、「真の人」であって下さったように思えてならないのです。
大頭 眞一 賛成!そしてまた痛む私たちに身を屈め、私たちを覆うために人となってくださったのだとも思います。
金井 望 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネ第一1:3)。三位一体論において、このヨハネの「交わり」の思想は、大変重要な意味を持っていると思います。
「ご自身愛の交わりに生きる神」。その交わりにあずかるべく神の像に造られ、かつ贖われた人間。その交わりの具体化である教会。アウグスティヌスの三位一体論が本来、「思弁的」というよりも「牧会的」な目的・性格を持つものだ、という見方は興味深いです。
私はアウグスティヌスの『教えの手ほどき』が好きなんですが、彼はまさに「司牧者」ですね。
大頭 眞一 そもそも西方教会でも、神が十字架に架けられたという表現は、異端とされたことはないと理解しています。ただ、父神受苦説に陥ることがないように、という警戒はありましたが。
大頭 眞一 望先生
そこ、そこ、そこをもっと掻いてください。気持ちいいです。ただ、アウグスティヌスは聖霊を父と子との間の愛の絆と考えて、聖霊を非人格化したというのが、東方からの批判であろうと思います。
三浦 三千春 東方教会における聖霊理解、興味深いです。
金井 望 も少しだけ掻かせていただきますと、聖化も個人的な面だけでなく教会的・共同体的な面があると聖書に教えられており、それは重要なことだと思います。
アウグスティヌスの三位一体論が彼の他の神学的考究・論述とどのように関係しているのか、また、彼の実践にどのように関係していたのか、そこまで聴いてみたいです。欲張り過ぎか (^^;
金井 望 うちの教団は、使徒信条は信仰基準として規定していますが、ニカイア信条(NC)やアタナシオス信条など、他の信条は規定していません。そのため三位一体論が弱くなりがちかもしれません。
これは、うちだけでなく、いわゆる「福音派」(ルーテル教会、改革派長老派、聖公会、メソジストを除く)の教会・団体に広く見られる問題かもしれません。
キリスト者・教会が日本の多神教の文化に飲み込まれてしまわぬよう、この研究会議が用いられることを祈ります。
<補遺>
キリスト教とマルキシズム、アウグスチヌスと三一神論、いろいろな議論が動じ並行的に展開して、FBって楽しいですね。
今日は午後1時から、ポロの車検のためフォークワーゲンの店に出かけます。