ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原城址に立って

2009-04-30 10:57:18 | ときのまにまに
口之津を後にして国道251号で東に向かった。この後のスケジュールは原城跡に立ち寄り、普賢岳の噴火による土石流による被災地を経過して、島原市に入り、島原城のキリシタン資料館を見学し、島原市内で昼食を取り、国道58号を通って諫早に至り、長崎道に乗って夕方には自宅に戻る。かなり強行軍なので、途中寄りたいセミナリオ跡やキリシタンの墓などがたくさんあるが、それらは今回は素通りすることとした。
有明海に張り出した丘陵の上に建つ原城は、籠城するのには恵まれた地形であったが、何しろ当時としては不便なところにあり、名君有馬氏が延岡城に転勤になってからは廃城となっていた。当時に藩主松倉家の無謀な藩政により、財政が逼迫し、そのしわ寄せを農民に押しつけたため、かなり過酷な年貢の取り立てが行われた。年貢を完納できない農民には見せしめのため、ひどい刑罰が加えた。有名な「蓑踊り」とは、年貢を納められなかった百姓を蓑(みの)でしばりあげ、生きたまま火を付けるというものである。熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えるということでこの名前が付いた。

寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村の農民(主にキリシタン)が中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。それは必ずしもキリシタン迫害に対する一揆とは言い切れないものがある。これに呼応して数日後に肥後天草でも天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)をリーダーとする一揆が起こり、本渡城などの天草支配の拠点を攻撃し、続いて島原半島に移り一揆軍は統一行動を取り、原城に立てこもることとなった。一揆の群衆は約3万7千人といわれている。
これを知った幕府は島原藩を支援するため九州諸藩から討伐軍を編成し、原城を包囲して再三攻めたが成功しなかった。一揆軍の結束は堅く、戦意が旺盛であったのに対して、討伐軍は諸藩の寄せ集めであったため統率がとれておらず、戦意も低かったといわれている。 というよりも、この戦いについてのモチベーションが必ずしもはっきりしていなかったためであろう。討伐軍の死傷者は4千人以上であったという。そこで、幕府側は討伐軍を再編成し、12万人以上の軍勢により、陸と海との両面から原城を包囲し、攻撃を加える前に、甲賀忍者を場内に潜入させ、兵量が残り少ないことを確認した上、兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

        

続けて、討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたり、天草四郎の母と姉妹を捕らえて投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったりしたが、一揆軍はこれを拒否している。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海草を兵糧の足しにした、といわれている。これ以上鎮圧が遅れる幕府の威信にも関わるため、討伐軍は2月27日に総攻撃が始まり、一揆軍は全滅し、原城は落城した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であったといわれる。討伐軍側は13万ちかくの軍勢を動員、その死者は8,135人という説もある。
現在の原城はところどころ石垣が残り、ここに昔は城があったのだろうという雰囲気を残しているのみである。丘の上には大きな十字架が立てられ、天草四郎の銅像が輝いていた。

        
        原城址に立つ天草四郎像、顔は天草の方を向いている

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