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八代崇『聖公会における説教』

2016-11-24 13:33:42 | 雑文
八代崇『聖公会における説教』(『説教者のための聖書講解』1996年5月3日)

はじめに
「聖公会における説教」というテーマで述べるにあたって、初めに聖公会という教会の特質について記す必要があろう。誤解されることを恐れずにあえて言えば、聖公会は特定の神学によって立ちも倒れもしない「非告白的」教会であると言える。
聖公会には教会の方向性を定める特定の神学は過去においてもなかったし、現在もない。聖公会外の人びとは三十九箇条について尋ねるが、三十九箇条は16世紀イングランドという特定の時代の特定の国の教会が特定の問題と対処するために作ったものであって、後世の英国教会系諸教会を束縛するものではない。事実日本聖公会は組織成立(1887年)にあたって、三十九箇条を公式の教義的表明とは認めなかったのである。
それでは、聖公会の信仰告白とはいかなるものであるのか。三十九箇条自体その第八条で、英国教会は各時代の教会とともにニケヤ、使徒、ア夕ナシオの三信経を告白すると表明している。言いかえると、英国教会は歴史的信条のみで充分であるとし、独自の信仰告白を作らなかったという意味で「非告白的」教会なのである。
聖公会の特質の積極的な面は祈祷書による礼拝を中心とした教会生活を通して示される。「祈祷書による」という大枠の中にとどまる限り、祈祷書中の祈りや信経の解釈は個人の自由にまかされている。ある者はローマ・カトリックの人びと以上に「カトリック的」であろうし、他の者は、プロテス夕ントの人びと以上にプロテスタント的」でありうる。カトリックであれプロテスタントであれ、神の教会の進歩発展に寄与するものであれば何でも受け容れようというのが、伝統的な聖公会の態度である。

歴史的背景
三十九箇条を始めとする一連の文書が明らかにしているように、宗教改革以後、英国教会においても神の言の宣教が強調されるようになった。しかし、説教を礼拝の中心に据えてきた福音主義的諸教会と較ベたとき、聖公会の礼拝が説教よりも典礼に重点を置いてきたことは否定しえない。40年にすでにバルトは、ギフォード講演において、「ローマ・カトリック教会は説教抜きのサクラメントを執行している。・・・・・われわれ(プロテスタント)は説教を伴う礼拝を行っているが、サクラメントを欠いている。いずれの型の礼拝も不充分である」(The knowledge of God and the Service of God,p211)と述ベている。宗教改革以来聖公会は神の言の宣教とサクラメントの執行にともに忠実でありうる礼拝の確立を目指してきたが、現実と理想の間のくい違いは教会の歴史が明確に示している。
説教は宗教改革以前には、ある意味で、現代以上に重要なものと考えられていた。中世の教会と国家は、民衆に及ぼす説教の影響力を重視して、有資格者(体制支持者)だけに説教することを認めた。反体制派は禁を犯して教会堂内外で説教を続け、そのため多くの者が生命すらをも危険にさらしたのである。説教は、今日のマスコミ全部をまとめたほどの偉力をもった情宣手段であった。
宗教改革は説教に対する考え方を一変した。それまで政府および教会当局の意思伝達手段であった説教が、ふたたび神の言の説教という本来の霊的機能を果たすものとされたのである。聖書の各国語ヘの翻訳と国語による礼拝の確立は、説教の重要性を従来とは違った意味で高めた。説教者によって語られる神の言は、聴く者一人ひとりから信仰の応答を求めるはずであった。しかし、改革者たちが期待したような変化は一朝一夕には実現するものではなかった。
イングランドにおける実情は、大陸のそれよりもひどかったと思われる。教会の腐敗堕落を痛烈に攻撃し、改革ヘの気運をつくったといわれるコレツト(John Colet,1446~1519)の聖職会議開会説教(1512年)や、歯に衣を着せず社会正義と教会改革を叫び続けたラティマー(Hugh Latimer,1485~1555)の「すきの説教」(1548年)といった名説教が残されはしたが、全般的に見れば、この時代は説教に関しては低調であった。
低調であった主たる理由は聖職の無教養に見い出される。文盲に近かったのは平信徒だけでなく、下級聖職の多くが耳から覚えたミサを唱えるのが精一杯といった状態であった。そういった実態を熟知していたためか、1549年、クランマー大主教(Thomas Cranmer、1489~1556)は『説教集』(The book of Homilies)を刊行し、説教のできない聖職に、この『説教集』の中のいずれかの説教を読み上げるよう命じた。もちろんこの間、聖職の教育水準を高める努力がなされたが、メアリー1世の登位(1553年)によってすベての改革への試みは一時的に中断を余儀なくされてしまったのである。
1558年のエリザベス1世の登位は、それまで二転三転してきたイングランドにおける宗教問題に一応の解決を与えた。しかし、保守的なエリザベスの解決は後にピユーリタンと呼ばれるようになる急進的な改革派を満足させるものではなかった。彼らは体制に盲従する「唖の聖職」を批判し、聴衆から信仰の応答を引き出しうるような仕方で神の言を語る説教を強調したのである。しかし、「よらしむべし、知らしむべからず」の方針を取るエリザベスは、説教は庶民にとって有害であると判じ、ピューリタン聖職の説教集会を禁止し、これに反対したグリンダル大主教(Edmund Grindal,1519~83)を職務執行停止処分に付してしまったのである。
説教重視という特質からか、体制派聖職と比較したとき、ピューリタン聖職の方が説教者としては秀れていたようである。1585年、フッカー(Richard Hooker,1554=1600)が ロンドンのテンプル教会の主任司祭に就任したとき、すでに午後の説教者として、長老主義の理論的指導者であったトラヴァース(Walter Travers、1548~1643)がいた。 教会史家フラー(Thomas Fuller、1608~61)によれば、午前のフッカーの説教よりも午後のトラヴァースの説教の方が人気を博したという。なぜなら、フッカーが長ったらしい説教を、一点を凝視ししたままで、表情の変化にも乏しく、魅力に欠けたぼそぼそした声でしたのに対し、トラヴァースの説教は声の美しさ、内容の豊かさに恵まれて、人びとを魅きつけてやまなかったからである。
エリザベスの逝去とともに英国教会は新しい時代を迎える。王政と主教制の結合はピューリタンを議会とコモンロイヤーの側に追いやり、体制派と反体制派の抗争はピューリタン革命にまで至った。事態は両派にとって不幸な形で進行したが、この間ようやくアングリカニズムを定着させえた体制派はアンドルーズ(Lauclot Andrewes,1556~1626)、ダン(John Donne,1571~1631)、ティラー(Jeremy Taylor,1613~67)、といった秀れた説教者を生み出したし、ピューリタン側もバクスター(Richard Baxter,1615~91)を始めとする幾多の名説教家を輩出した。説教に関する限り、ステュァート朝の方がエリザベス朝より秀れていたと言えよう。
名誉革命以後も英国教会自体は国教会としての地位を維持していくが、同一国家内に複数の教会の存在が可能となったため、自由教会の宣教活動を禁じることはもはや不可能となった。ただ、17世紀の宗教的抗争ヘの反動からか、あるいは台頭しつつあった経験主義的、合理主義的思考の影響のためか、18世紀のイングランドでは、国教会側でも自由教会側でも、霊的に沈滞した空気が蔓延していた。 説教者としてはティットソン(John Tillotson,1630~94)、パトラー(Joseph Butler,1692~1752)らの名が記憶されているが、 全般的にはウェスレー(John Wesley,1703~91)が登場するまでの18世紀英国教会は、説教に関して言えば不毛であった。

眠れる18世紀の英国教会に信仰復興をもたらしたウェスレは、十字架上のキリストの死によって示された神の恵みのみが人間を救いうると確信し、88歳で生涯を終えるまで、4万マイルを越す説教の旅を続けた。「一書の人」(homo unius libiri)ウエスレーの説教は、それまでの道徳的で説話風の説教とは異なり、徹頭徹尾聖書的であった。彼は聴衆の一人ひとりに再発見した福音を語りかけ、信仰の応答を求めてやまなかったのである。英国教会は彼を受け容れる度量に欠けていたが、彼の始めた信仰復興を受け継ぎ、説教者として名を残したシメオン (Charles Simeon,1759~1836)のような人が現われたことは英国教会にとって幸いであったと言えよう。
18世紀にウエスレーが英国教会内にひき起こした信仰復興は、19世紀に入ると、違った方向に進みはするが、オックスフォード運動にひき継がれた。現在の聖公会にみられる主日における聖餐式の遵守、普遍的教会の肢としての自己認識、使徒継承の担い手としての主教の強調などはすべ て、『国民的背教』と題するキーブル(John Keble,1792~1866)の説教に負うところが大きい。同時に、運動の指導者のひとりであったニューマン(John Herry Newman,1801~90)も見落とすわけにはいかない。秀れた文才と深い霊性、豊かな感受性と説得力にあふれた美しい声で語られる彼の説教は多くの人びとを感銘させたのである。ただ、説教によって始められたオックスフォード運動が、一部に「説教抜きのミサ」の慣行を生み出したことは皮肉と言えるだろう。
20世紀に入ると、プロテスタント諸教会はいうに及ばず、聖公会員にも大きな影響を及ぼしたバルトを抜きにしては説教について語れない。ツァールントは言う。
「今日バルト神学なしには、これほど純粋に聖書的にまた中心を示すような仕方で説教がなされていないであろう。しかし他方では、バルト神学がなけれぱこのように恐ろしくなるほど正確に、退屈なほど正しく、またこの世に背を向けて説教がなされてはいないだろう。(『20世紀のプロテスタント神学』上、178頁)と。この引用の後半部に関しては異議はありえても、前半部に関しては大方の同意が得られるであろう。カトリックとプロテスタントを問わず、教会にとって有益なものはすべて受容するという聖公会の特質のためか、バルトによる神の言の宣教の強調もまた聖公会の多くの人びとによって受け止められた。しかし、独自の信仰告白をもたない聖公会ではバルトといえども絶対化されることはないし、ツァールントからの引用の後半部が妥当するほどバルトに心酔する人びとは聖公会にはそれほどいない。むしろ世俗化の度合いを早める現代社会において、いかにして神の言を現代人に語りうるかに腐心しているのが聖公会聖職であろう。

聖公会の説教の性格と間題点
以上16世紀から今世紀までの教会の歩みを説教との関連で概観したわけであるが、では聖公会の説教はどのような性格と問題をかかえているのであろうか。冒頭に述ベた聖公会という教会の特質が説教を良い意味においても悪い意味においても性格づけていることは言うまでもない。
聖公会の説教の第1の特徴は、教会暦によって規定されているところに見い出せる。教会暦は降誕日と復活日を二つの中心とし、年毎に救済史を回顧記念するようにできている。主日と祝斎日のためには特祷、使徒書、福音書が定められているが、これらは救済史的出来事を説明しうるような箇所を聖書から抜粋したものである。説教者は必ずしもこれらのテキストに縛られているわけではないが、多くの場合使徒書もしくは福音書に基づいて説教することが多い。この慣行は説教を個人の気まぐれな神学的傾向から守り、リタージーが証しする教会の救済史ヘの参与を明確化するという点で秀れている。しかし、毎年同じ使徒書と福音書が用いられる以上、聴衆はまったく同じではなくとも同じような内容の説教を毎年聞かされることになり、自然に説教に新鮮さを感じなくなるという欠点が指摘されよう。説教者自身が毎年同じテキストを用いながらも、たえず新たに神の言を聴こうという真塾な姿勢をもたない限り、説教のマンネリ化をもたらしやすいのである。
聖公会の説教の第2の特徴は、聖公会が特定の神学によって立ちも倒れもしない非告白的教会であるところから生ずる。現在の聖公会における説教にはバルトばかりでなく、ブーバー、キルケゴール、ボンへッファーといった思想家の影響がうかがえる。しかしながら、いずれの思想家をも絶対化しないという聖公会の伝統は、説教が特定の神学者の託宣になり下がることを拒否する。宗教改革は教皇が神の言の託宣者であることを否定したが、代わりに自派の神学者をその地位に据えてしまったと考えられなくもない。特定の神学によて立ちも倒れもしない聖公会は、説教者を絶対化する危険からは守られているのである。
しかし、こういった聖公会の説教の特徴は、裏返しにすれば、説教者が主体的に神の言を語ることを困難にすることが多い。いくら秀れた神学者であっても結局人間だということになれば、神学者から学んで聴衆に語りかけるよりは、リタージーそのものに信徒教育をまかせようという安易な考えが生まれがちであり、神学することを止めてしまう傾向が強くなる。厳密な聖書の釈義に基づいて説教を準備ずるよりは、典礼のため装飾や動作の方に力を入れたくなるのである。
聖公会の説教の第3の特微は、聖公会が伝統的に信仰とともに理性をも神の賜物として強調してきたことと関係がある。 テイロットソンは「神が人間を理性的被造物に造りたもうた以上、ずべての宗教的行為は理性的であり、人間の本性に協うべきである」(WorksⅡ、70頁)と言う。 聖公会が北米の、リバイバ ル的なものを経験しなかったのはこういった理性の強調のためであろうか。 信徒の感情に訴える説教は劇的な回心を呼び起こしたり、急に信仰に熱心になるといった反応を引き起こすことがあろう。しかし、感情的に回心したり熱心になったりした信徒は、感情的に熱を失ったり、棄教したりすることが多いのではないだろうか。聖公会の説教は理性に語りかけることによって、このような危険性を免れていると言えよう。
しかし、ここにも問題が見い出される。人間は純粋に理性的な存在でも、純枠に感情的な存在でもない。神の言は人間の全存在に向かって語られ、人間から全存在的な応答を求める。理性に語りかけるといっても、結局のとこる神による人間救済の神秘は人間理性によっては量り知れないものである。むしろ弱い存在である人間は、神以外の何者も解決してくれない悩みをかかえて、神の言によりて強められ、慰められ、新たにされることをこい願う。理性に訴える
説教がそのような人間に何を語りうるであろうか。キルケゴールが彼の時代のデンマーク国教会の牧師たちの説教について語つたことは、今日でも多くの聖公会司祭の説教にあてはまるのではないだろうか。
聖公会の説教の第4の特徴は、少なくとも英国教会においては、説教が長い間文学の一分野として扱われてきたことと関係している。事実、英国教会の説教者列伝をひもとけば、ダン、スゥイフト(Jonathan Swift,1667~1745)、スターン(Lowrence Sterne,1713~68)、ニューマン、 キングスリー(Charles Kingsley,1819~75)といった文壇史にも名を残した説教者を見い出す。秀れた文学であるためには、説教の内容はもちろんのことながら、その内容を表現する言葉の用法が問題となる。
「牧師のシェイクスピァ」と呼ばれたティラーは巧みに直愉を使用し、秀れた文章構成法と流れるようなリズムを駆使した数々の名説教を残している。詩的な説教もあれば、説教というよりも評論もしくは雄弁と呼ぶべきものを残した説教家も多い。
過去において説教が文学の一分野として扱われたことの是非は問わない。ただ、説教者が宣ベ伝えようとする内容よりも、それをどのように表現するかという技巧メン面に力点が置かれると、おのずから説教の本来的機能が見失われるであろう。価値観の多様化とともに出現した神々が、それぞれの宣教師の説教を通して人びとの心を捕えようとしているのが現代であろう。そういう時代に、説教とは何かという本質的な問題をさておいて、ただ文学的な技巧に力を注いでも、人びとの魂に触れるような説教はできないのではないか。幸か不幸か、日本聖公会には文壇史に名を残すような説教家は出現しなかった。表現は稚拙であっても、聴く人びとの心を打つような説教こそ期待されているのである。

むすび
以上、主として英国教会に例をとって聖公会における説教の歴史的背景、その性格と問題点について記してみた。日本聖公会は日本という固有の文化と慣習をもった社会の中で、日本人という独自の思考様式と精神性をもった人びとに神の言を宣ベ伝えるのであるから、いつまでも英米の母教会に依存するのではなく、説教に関しても独自の道を模索すべきであろう。しかしその道は、安易にキリスト教を日本文化 へ妥協させることによってではなく、福音の本質を究め続けることから見い出されるであろう。以下、説教とはないかという問題を、聖公会が特質とするリタジカルな礼拝との関連で考えてみよう。
教会はこの世に存在し、 この世の課すあらゆる制限の下こありながら、いま、ここで、すでに神の偉大な人類救済の業に参与を許されている。神が究極的な形でその救済の業を果たされたのは、特定の時と場所において、特定の人の生、死、甦りを通してであった。聖養式はこの特定の人の生、死、延りの記念(アナムネーシス)であるが、それはたんに過去の出来事を想起させるだけでなく、いま、ここで、生、死、甦りに礼拝参力者の一人ひとりを参与させる。
リタージーとは、「行為によって生じるケリュグマ」(Kerygma in Action)であると言ってもよい。リタージーそのものが説教であれば、「説教抜きのミサ」という表現は本来あり得ないはずである。
リタージーの文脈でなされる説教は、リタージーそのものが証しする神の偉大な人類救済の業を言葉によって宣べ伝える。説教は救済史への参与を許された説教者の全人格な表現を求める。それは知性あるいは感性だけにうったえるものでもなければ、雄弁や文学的技巧の問題でもない。神はモーセのように「口も重く、舌も重い」(出エジプト4:10)者をも用いてその偉大な人類救済の業を告げ知らせたもう。聴衆の前で、いま進行しつつある救済史を全人格的に
証しし、人びとに それへの参与を呼びかけること、それが説教である。
宣教開始後120年を経てもなお人口の1パーセントにも満たな信徒数しかないこの国での宣教は、長いキリスト教史を振り返って見ても例のないほど困難な業である。しかし、「福音を宣ヘ伝ないなら、わたしはわざわいである」(1コリント9:16)という信仰をもってひたすら説教の本質を追い求めるとき、どのように宣べ伝えるかはおのずから示されるであろう。
(立教大学教授)

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