ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

口之津 「からゆきさん」

2009-04-30 09:41:36 | ときのまにまに
「島原半島は、有明海に対して拳固をつきだしたようにして、海面から盛り上がっている。拳固から小指だけが離れ、関節がわずかにまがって水をたたえているのが、古代からの錨地である口之津である」(司馬遼太郎『島原・天草の諸道』)。流石に司馬さんの文章は的確である。短い文章の中に口之津の風景が凝縮されている。島原半島において天然の良港といえば、口之津しかなかった、とも言う。さらに、「この『天然性』が口之津の運命に直につながっている、とも言う。

       

わたしは島原半島に行ったらぜひ行きたいと願っていたのが、この口之津であった。1970年代の初め頃、山崎朋子さんの『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』を読んだ時の衝撃を今でも忘れることができない。「からゆきさん」の出来事は貧困ということが生み出した日本の歴史上の最暗部で、悲劇というレベルをはるかに超えている。特に、その悲劇が非力な女性たちの人生を奪い、狂わせた。その後有名になった「おしんさん」の悲しい物語の比ではない。

        
        娘を女衒に売り渡したときの「証文」

「からゆきさん」の悲劇は、熊井啓監督、田中絹代の主演で「サンダカン八番娼館 望郷」として映画化されたが、映画の方は見に行けなかった。その後、何度かマレーシアに出かける用事があったが、スケジュールの関係でどうしてもサバ州のサンダカンを訪れることができなかった。それが一つの心残りである。
口之津は「からゆきさん」が日本から外国に送り出される重要基地の一つであった。口之津港は三井三池炭坑の石炭を海外に積み出す港として栄えたが、その陰で、その石炭運搬船の船底には「からゆきさん」が乗せられていたのである。もちろんパスポートやビザのない「密航」であり、「人間としての基本的権利は完全に奪われたという。彼女たちは主に天草や島原半島の貧しい農家からあくどい女衒(ぜげん)たちの手にかかってわずかの金で「買い集められ」、マレーシアやシンガポールに連れて行かれ、現地の業者に売られていったのである。
以前に何かの本で島原半島の口之津に「からゆきさん」の記念館があると聞いていたので、ぜひ見学したいと思っていたが、それがどこにあるのか皆目見当がつかなかったが、ともかく現地に行けばなんとかなると思い、出かけた。
朝、9時に国民休暇村を出発し国道389号を南に向かった。右に左に、美しい棚田を眺めながら、ほとんどすれ違う車もないほどの田舎道を快適に走り、30分ほどで口之津に到着した。さて、右に行くべきか左に行くべきか、ともかく勘だけをたよりに左に曲がると風光明媚な港に出た。そこにはフェリーも発着するらしい。湾内をぐるっと廻って湾の鼻先に出ると、そこには瀟洒な「口之津町歴史民俗資料館海の資料館」が建っていた。要するに道路の突き当たりがその施設で、取りあえず入館料200円を払って中に入り、係員に「からゆきさん」のことを尋ねると、その資料館はこの中にあるとのことであった。
「からゆきさん」はいわば日本の歴史において裏の部分、影の部分であり、公式な資料などあるはずがない。幸いに帰国できた「からゆきさん」たちから提供のあった衣類やトランク、写真類などが展示してあったが、それらは説明がなけらば特に目を引くものではない。ただ、「からゆきさん」の中でもいわば成功者がおり、彼女たちが彼の地で手に入れた宝石類を薬罐の底に隠し、その上に大豆などを入れて持ち帰ったというようなストーリーは、心に響く。それらの資料の中でも一人の「女衒の顔」は印象的である。

       

       
       「からゆきさん」の救世主益富政助

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