ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

雲仙小地獄温泉

2009-04-29 23:43:00 | ときのまにまに
国民休暇村のスタッフに紹介された温泉は、雲仙の温泉街から少し下ったところにある雲仙小地獄温泉で、現在は国民宿舎青雲荘の外湯となっている。この温泉の歴史は古く、享保14年、(1731年)に湯治場として開かれ、かつては吉田松陰も訪れたことがあると今に伝えられている。ログハウス風の木造で、八角形の浴場が特に目を引く。浴室に入ると天井が高く、丸太などの木がふんだんに使われている。そこに、石張りの浴槽が大小2つ。大きな方が熱めで、小さな方はぬるめで、一部が打たせ湯になっている。お湯は、雲仙で唯一の「にごり湯」で、まるで牛乳風呂のようである。もちろん源泉掛け流しで、贅沢に湯船から溢れる様は殿様気分になること請け合い。温泉らしい温泉というのが最も相応しい言葉であろう。表示によると、泉質は単純硫黄温泉で源泉の水温は約90度で湧き水で温度を下げているとのこと。

        
ゆったりとお湯に浸かった後は素朴な休憩室で一休み。そこにはセルフサービスでおでんが準備されている。町の共同風呂の定番である瓶入りの牛乳もあり、懐かしい気分になる。
向にある国民宿舎青雲荘には現代的なタイル張りの大浴場もあり、そこでもここの湯が引かれているらしいが、そこに入るには大人で630円、ここの温泉館なら大人で400円。断然お得。
温泉の後、しばらくドライブし、オートキャンプ場の「夕日の丘」で西の空に沈む太陽を眺めて宿に戻った。

        

夕食後、司馬遼太郎の『島原・天草の諸道』を読み、明日のスケジュールを考えた。読んでいると、長年の疑問について司馬遼太郎さんの美事は解説に出会い、興奮した。疑問は、なぜ、あの時代、日本人は短期間にあれほど強烈な信仰、キリストの十字架上での苦しみとは比較できないほどの苦しみに耐える信仰を持ったのだろうか、ということである。わたしのつまらない解説は抜きにして、司馬遼太郎さん自身の言葉を少し長いがそのままにノートしておく。

このころ、日本の種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲をつたえるのである。鉄砲ばかりは、布教と無縁でやってきた。
(中略)

ザヴィエルは鉄砲伝来より6年後の1549年8月15日(ユリウス暦)鹿児島に上陸した。戦国の諸大名のザヴィエルへの反応と関心は、鉄砲以上のいい兵器を持っているのではないか。ということと、貿易であった。対ポルトガル貿易は、大名にとって富を得る魔術のようなものであった。各地で好意をうけ、入信者がふえた。ザヴィエルの滞日は2年あまりにすぎなかったが、その後の布教のための地ならしとしては十分だったといっていい。

ザヴィエルのもつ高雅な人柄と叡智、さらには神に対する絶対の服従と規律、敬虔さは、たれの心をも打った。人は、なによりも人がわかるのである。「日本の僧侶とはまったくちがう」と、たれもがおもった。ザヴィエルの人格が、切支丹隆盛に対する決定的な出発になった。
当時、ヨーロッパでのカトリックの組織や神父たちは、自然の一部のようになっていたし、同時にそのぶんだけ堕落していた。自然界に細菌や席熟が摂理としてあるように、よく根づいた宗教は、そのぶんだけ緊張をうしなっているものであったが、誕生早々のイエズス会のみはまったくちがっていた。                        会士たちは、みな戦闘者であった。かれらはローマ法王の熱狂的兵士であり、キリストがそうであったように、霊のみで生きようとしていた。異境で死ぬことは最初から会士たちの望むところであったし、もし難に遭うとすれば、キリスト教的徳の完成としてもっともよろこぼしいこととしていた。まことに、本場のヨーロッパでもめずらしい僧侶として日本にザヴィエルが来、さらには後続するイエズス会士たちがきたのである。この強烈な人格群に、当時の日本人が驚歎してしまったのも、むりはなかった。

受け入れる側の土壌として、この当時の日本はインドや中国にくらべ、はるかに一神教が根づくように適合していた。日本の場合、インド、中国から仏教が渡来したとはいえ、その教義とその言語は僧が独占し、民衆はただ僧と寺院と仏像を敬するにとどまり、たとえばインドのように輪廻が肉体化するにいたらなかった。
本来、仏教的人格が最終の目的とするのは解脱であり、キリスト教のように神に救われるという要素は、仏教において乏しい。ただ日本化した仏教には、奈良・平安期のころからたまたまキリスト教に似て救済思想の色彩が濃かった。仏教が渡来した推古朝のころから観音信仰がさかんであることは、切支丹受容の重要な素地であったかとおもわれる。
観音の別称である「観自在」とは、この神聖存在が一切諸法をよく観、衆生を救済するのに自由自在である、ということからきており、切支丹のゴッドとやや似ている。ゴッドの父性的厳格さに対し、それを極端に母性化し、甘くしたのが観世音菩薩といえるかもしれない。この観音信仰の素地の上にやがて阿弥陀如来が加わり、一向宗の隆盛になってゆく。親鸞の阿弥陀如来はすでに宇宙の絶対的存在であり、ひとがたとえその手からのがれようとしても、如来のほうから見すてることはなく、本願として救ってくれる。他仏への信仰はみとめず。一向に阿弥陀如来の救済を待つというのがその教義で、さらには現世利益を極端に否定している。そういうことから思えば、こういう思想を生みだした日本の土壌そのものが、キリスト教的土壌と類縁していたといっていい。
中国の場合、道教がある。この徹底した形而下性と体系化した現世利益の世界にキリスト教が入りこむのは容易でなかった。
キリスト教には、つよい倫理がある。むしろ倫理が基本になっている。これに対し仏教にはその要素が比較的うすい上に、その要素の次元もキリスト教とはちがう。仏教は、万有の本体をもっとも豊かなゼロと見、みずからの精神をゼロにすることをもって究極の目的とする。中世の僧侶といえども、真にゼロになりえた者はまれである。極端にいえば、あまりにも思弁的な言葉で構成された中世の仏教は、民衆に何ひとつ語りかけたことがなかった。
キリスト教の場合、もともとイエスが民衆にじかに語りかけたコトバによってなりたっている。イエスが当時の口語で語ったように、その門流の宣教師たちが十六、七世紀の日本にきても、すべてコトバにより、それも豊富に、しかも口語で語ることができた。この点、仏教と決定的に異っている。
このことは、十六、七世紀の日本人にとって驚歎すべきことであったろう。日本仏教のなかでは比較的コトバの多い一向宗でも、阿弥陀如来の本質と機能を語るのみで、他にべつだんのコトバはない。ただ如来の本願を信ぜよ、という。それに尽きてしまうのである。それに、仏教の倫理は地上のとりきめで、高度に形而上的なゼロの次元とは直接稼がないため、一向宗にあってはとくにそれをつきつめ、人間の善悪などは関係なく成仏できるのだ、とする。庶民にとって、これはなにか頼りないという気特があったであろう。
切支丹の場合、天国にゆけるための宗教的規範や倫理的規範がつよく、それはことごとく口語によって豊富に語られるのである。いったん神の真理のための規範に服すれば、自律性がつよくなればなるほど、ついには法悦に至りうるほどに精神が真の意味の単純になってゆく。さらにいえば単純であることが快感になるにちがいない。すく甘くとも中世末期、拠るべき規範なく生きていた日本人には、強い感激が持たれたのではないか。
さらに、忠誠心がある。忠誠心という、この甘美な精神は、中世のひとびとの多くに、原液として湛えられていたかと思える。ただ農民の場合、その対象がなく、武士の場合も、地上のなまの主人もさることながら、天国の支配者であるキリストに仕えることのほうに強烈な昇華を見出したのではないかと思える。こういう点でも、インドや中国の社会よりほ、当時の日本の社会のほうが、切支丹受容にむいていたであろう。すくなくとも、神への激烈な忠誠者としてやってきたイエズス会の会士の風姿に接したとき、当時の日本人はその面からもよく理解できたかのようであり、ザヴィエルが、「東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している」と、報告したのも、むりもないことかもしれない。
(司馬遼太郎『島原・天草の諸道』街道をゆく17、朝日文庫 41頁)

最新の画像もっと見る