9月26日(日)
主はわたしの岩、砦、逃れ場.(2サムエル22:2)
わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)
私の黙想
神が私の最終的安全地帯。現代的にいえば「セーフティネット」。セーフティネットを持っている人間は冒険が出来る。茂木さんの講演では「首輪」をはずせる。人間は一生に何度か首輪をはずす勇気が必要なときがある。
9月27日(月)
主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。(申命記11:7)
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。(ヨハネ14:7)
私の黙想
私たちの目の前で起こっているすべての出来事(現象)は神の業である。すべての現実が「神を示す象徴」である。私たちが神について語れるのは、そのみ業を通してのみである。
9月28日(火)
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。(イザヤ51:5)
神は、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。この方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。(使徒言行録17:31)
私の黙想
ここでの「わたし」とは神である。正義とか救いとか腕は神の属性を人格化した詩的表現。これがメシア化され、救世主信仰へと発展したのであろう。4節の「教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」は「律法化」された属性。
9月29日(水)
神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。(創世記21:22)
その夜パウロは幻を見た。マケドニア人が立って「マケドニア州に渡って来て、私達を助けて」と彼に願った。彼がこの幻を見たとき、私達はすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。彼らに福音を告げ知らせる為に神が召されている、確信するに至ったからである。(使16:9-10)
私の黙想
この言葉はアブラハムと対立関係にあったアビメレクの言葉であるが、誰の言葉かということはどうでもいい。アブラハムからそういうオーラが発せられていたのであろう。今日は「聖ミカエル及び諸天使の日」である。聖書では一人一人のその人固有の天使が伴っているという信仰。
9月30日(木)
わたしの魂を枷から引き出してください。あなたの御名に感謝することができますように。(詩編142:8)
あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)
私の黙想
ここでの「枷」とは周囲の社会からの迫害を意味するようである。私達の「枷」は自分自身で自己を縛る枠組み。学歴とか、職業とか、履歴に「穴」があかないようにだとか。人間はもっと自由であって良いはずだ。課題はその自由を何のために生かすのか。
10月1日(金)
あなたの主なる神が、旅路を導かれたとき、あなたが主を捨てたので、このことがあなたの身に及んだのではないか。(エレミヤ2:17)
御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)
私の黙想
昨日はランの環境のない場所(宗像大島)の旅館で朝を迎えたのでローズンゲンを休む。午後は疲れすぎて書けず。預言者エレミヤは民の不幸の原因を民の罪に帰さない。ヨハネの言葉はむしろその逆。
10月2日(土)
すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない。(コヘレト3:14)
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。(コロサイ1:17)
私の黙想
今日のローズンゲン。それはそうだろう。神の業(作品)の完全性。問題は神の業は完結しているのか。現在も神の業は進行中である。神の業の完全性と完結性とは矛盾対立する。例えば人間は完全か。今も進化(あるいは退化)しているのではなかろうか。
主はわたしの岩、砦、逃れ場.(2サムエル22:2)
わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)
私の黙想
神が私の最終的安全地帯。現代的にいえば「セーフティネット」。セーフティネットを持っている人間は冒険が出来る。茂木さんの講演では「首輪」をはずせる。人間は一生に何度か首輪をはずす勇気が必要なときがある。
9月27日(月)
主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。(申命記11:7)
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。(ヨハネ14:7)
私の黙想
私たちの目の前で起こっているすべての出来事(現象)は神の業である。すべての現実が「神を示す象徴」である。私たちが神について語れるのは、そのみ業を通してのみである。
9月28日(火)
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。(イザヤ51:5)
神は、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。この方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。(使徒言行録17:31)
私の黙想
ここでの「わたし」とは神である。正義とか救いとか腕は神の属性を人格化した詩的表現。これがメシア化され、救世主信仰へと発展したのであろう。4節の「教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」は「律法化」された属性。
9月29日(水)
神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。(創世記21:22)
その夜パウロは幻を見た。マケドニア人が立って「マケドニア州に渡って来て、私達を助けて」と彼に願った。彼がこの幻を見たとき、私達はすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。彼らに福音を告げ知らせる為に神が召されている、確信するに至ったからである。(使16:9-10)
私の黙想
この言葉はアブラハムと対立関係にあったアビメレクの言葉であるが、誰の言葉かということはどうでもいい。アブラハムからそういうオーラが発せられていたのであろう。今日は「聖ミカエル及び諸天使の日」である。聖書では一人一人のその人固有の天使が伴っているという信仰。
9月30日(木)
わたしの魂を枷から引き出してください。あなたの御名に感謝することができますように。(詩編142:8)
あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)
私の黙想
ここでの「枷」とは周囲の社会からの迫害を意味するようである。私達の「枷」は自分自身で自己を縛る枠組み。学歴とか、職業とか、履歴に「穴」があかないようにだとか。人間はもっと自由であって良いはずだ。課題はその自由を何のために生かすのか。
10月1日(金)
あなたの主なる神が、旅路を導かれたとき、あなたが主を捨てたので、このことがあなたの身に及んだのではないか。(エレミヤ2:17)
御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)
私の黙想
昨日はランの環境のない場所(宗像大島)の旅館で朝を迎えたのでローズンゲンを休む。午後は疲れすぎて書けず。預言者エレミヤは民の不幸の原因を民の罪に帰さない。ヨハネの言葉はむしろその逆。
10月2日(土)
すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない。(コヘレト3:14)
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。(コロサイ1:17)
私の黙想
今日のローズンゲン。それはそうだろう。神の業(作品)の完全性。問題は神の業は完結しているのか。現在も神の業は進行中である。神の業の完全性と完結性とは矛盾対立する。例えば人間は完全か。今も進化(あるいは退化)しているのではなかろうか。