ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

エドガー・スノーが見た「日中関係」

2016-07-13 10:01:53 | 雑文
エドガー・スノーが見た「日中関係」(122〜124頁)

「三民主義」を掲げて中国の統一という理想を掲げて立ち上がった、孫逸仙はその理想の実現を見ないままで、1925年に死んだ。死後は英雄となり、一種の神として崇められた。彼の理想を受け継ぎ、1926年、中国統一を果たしたのが、蒋介石率いる国民政府であった。しばらくは孫逸仙の影響により、ソ連の援助の元、中国全体はかなり共産化した。ところが1927年、それまで革命軍を指揮していた蒋介石が変節して、国民党の極右派を率いて、反革命の先頭に立ち、赤軍分子を党から追放する運動を始めた。蒋介石はハーバード大学出の宋子文の妹で裕福なキリスト教徒の宋美齢と結婚し、宋子文は大蔵大臣になった。蒋介石の国民党(南京政府)を外国列強が支援をし、中国共産党との激しい闘いが始まった。その結果、中国は革命以前の「軍閥」が相互に争う混乱期に戻ってしまったのである。この頃中国共産党は、毛沢東、賀龍、葉挺、朱徳、彪徳懐の5人若い指導者たちであった。1927年の反革命後、彼らは江西省(揚子江の南側)に「臨時ソヴェト政権」を樹立した。
当時の中国共産党は実力もなく、「地力の地主階級を倒す程度で終わってしまうかもしれない程度であった。外国帝国主義と連合した南京政府は、産業地帯で強力に共産党を弾圧していたので、都市の共産勢力はまだ徴弱だった。これまでのところ、農民連動がやったことは主として破壊的な面だった。共産主義者は、数知れない生命と財童を減ぼし、また絶望的なまでに腐敗し、退廃した旧制度の痘跡を一掃した。しかし彼らは 、アメリカの極東問題研究家・ナザニエル・ペッファーが名づけた「文明の崩壊」の雑りかすを一掃したという意味で建設的なことをやったともいえる。
1930年12月、南京政府は江西省の紅軍討伐のために6個師団の遠征軍を送ったが、敗北し、士気沮喪し、残存部隊は全滅した。その後、何度か戦闘が繰り返されたが、紅軍が常に勝利をした。
大地は何か新しいものを迎える準備をしていた。共産主義が浸透していた地域の住民の間には、もはや古い価値観が復活しないことは明らかだった。だが農民運動が、それに代わる何かよりよいものを生み出せるかどうかは今後にかかっている。根本的な経済、農業、社会上の改革がとりあげられない限り、中国に平和が来ないことも明らかだった。共産主義が彼らを呑みこんでしまう前に、国民党と地方軍閥が危機を自覚して、封建時代さながらの戦争をやめ、農民たちがちゃんと生きていけるような経済改革を通して彼らの支持を求めるだけの洞察力を持っているかどうか、それも今接にかかっている」(122頁)。

「日本からの圧力」(122〜123頁)
(日本による)満州の危機が国民の上にのしかかってきたのは、このような国内の変動が進行していた真最中だった。南京政府は虚をつかれ、なんら決定的な政策を遊行しえなかった。国有財産を抵当にしてやっと手にした資金を使って、なんの役にも立たぬ内戦をやっていたために、国の富は枯渇していた。華南は独立を宜言し、北力では戦雲が晴れたばかりだった。蒋介石は江西前線で共産党と戦っていた。だが蒋は当時北京にいた張学良に命じて、彼の部隊を満州へ動かそうとはしなかった。もし満州軍が長城の北で戦うようなことになれば、華北における軍事均衡がくずれるだろう。互いに競いあっている将軍たちは、北京支配を目ざしてまた新しい抗争をはじめるかもしれない。
だがある時期、中国の民衆は彼らなりの抵抗手段を見出した。日本との経済関係の断絶である。実はこのような抵抗は日本軍が奉天に侵略する前の1931年夏、日本籍の朝鮮人が中国人を虐殺したときにはじまったのである。
当時朝鮮では反中国運動が燃えあがっていた。在鮮華僑は皆生命の安全を脅やかされ、数千人が国外へ逃げた。いつもはテキパキやる日本の警察が奇妙なことに目が悪くなったらしく、暴動の指導者を取り逃がしてしまった。殺された中国人119人、負傷者343人、行方不明7人に達した。有名な日本の「法と秩序」はどこへ消え去ったのか。この暴動が起こった7月のわずか1週間に殺された中国人の数は、匪賊が出没し、内戦に引き裂かれた中国の20年問に、無責任な中国人の手で殺された日本人の総計よりも多かった。のちにひとりの僧が殺されたことを口実に日本が上海で戦争をはじめたとき、この事件を思い出してみると興味探い。
この暴動は南満州で7月はじめに起こったいわゆる「万宝山事件」につづいて起こったものである。朝鮮人農民が中国人地主の土地を通って用水路と堰をつくろうとしたことから争いが生じた。日本の警察が介入し、中国農民との間に発砲さわぎがあって、 紛争は頂点に達した。中国部隊も事件にまきこまれた。事件の解釈はいろいろくいちがっている。中国側と日本側の正式報告を読むと、とても同じ事件のことをいっているように思われない。それは「人は真実を追求することを諦める傾向がある。それは真実の周囲にはあまりにも多くの異論があるからだ」というフラン
シス・ベ ーコンの言葉を思い出させる。事件そのものはそれほど重大ではなかった。双方とも死者を出さなかったことを認めている。だが誇張された話が朝鮮へ伝わった。満州にいる朝鮮人記者が、中国人によって数十人の朝鮮人が殺され、女、子どもはひどい暴行を受けたあげくバラバラに惨殺されたと報道した。いつもは冷静な朝鮮人がこの記事に激昂し、その結果上記の事件が起こったのである。
朝鮮暴動のすぐあとで行われた奉天侵攻は、多くの中国人を憤激させて、経済報復がはじまった。どこまでもやり通す勇気ある指導を必要とする状況になった。一時は国民党と南京政府が生気を取り戻し、希望を失った国民を抗日運動の中で結集し、組織し、統一することによって、大衆の信頼を回復しそうにみえた。もしその機をとらえて大衆の統一された意志を原勤力となしうるならば、国民はみずからを国民として自覚するのだ。それができるのはこのような共通の危機に直面したときである。だが指導力らしい指導力はついに現われなかつた。南京政府は依然として背骨がなかった。
だが数千の愛国学生と、商人、知識人たちは各都市で起ちあがり、反日デモの先頭に立った~。「天は高く、天子は遠くにいます」とはいうものの、花火のように派手な政治には無関心な中国人が、ひとつの民族連帯意識を持っていることを示しはじめた。日貨排斥運動もまた銃剣でつぶせるだろうか。日本は間もなくそれを上海で試してみたのである。

最新の画像もっと見る