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松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(05)<7:1~8:11>

2015-06-22 08:41:43 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(05)<7:1~8:11>

第7章

仮庵(かりいお)の祭が近ずいてイエスはエルサレム上りをしたものかどうかを案じていたのであるが、示しを受け巡礼の群衆とは遅れて祭の中途からエルサレムに姿を現し、急ピッチで人々に教え始めた。群衆もユダヤ人たちも意外な彼の出現に驚き、イエスについて様々な意見や評価がなされた。ユダヤ人たちは事態を放置しておけないと判断し、逮捕することを画策した。しかし、今は時ではないということで実行はされなかった。ここでは「わたし(=イエス)の時」(6,8,30節)「神の時(39節)」ということが重要な問題として読者に訴えられている。この章は4つの部分に分けることが出来よう。

1.イエスとその弟子たち (1~9)

パンの奇跡として宣伝された出来事(前章)はユダヤ人社会における群衆と指導階級の人々とに大きなセンセイションを与えたが、それはイエスの意図とは逆の方向に動いて、むしろ彼の活動が難しくなった。
イエスのこのことについての群衆への警告(6:26,27)と、それに関連する天よりのパンの教えは、彼らを失望させただけはなく、弟子たちの間にも大きな動揺を捲き起こした。このことはイエスの活動・生涯における挫折・失敗であったと近親の人々は考えた。活動の舞台を変えたら、新局面が開かれるかもしれないという意見も出て来あた。しかしイエスは人気が急激に落ちていくガリラヤの中を今まで通りに巡回し教えていた。著者はその理由として、ユダヤ人たちが彼を殺そうとしているのでユダヤには行かないのだと解説している(5:18、7:19~20)。
祭りが近ずいて多くの人々がエルサレムへの巡礼団を作る準備を始めかけても、イエスの身辺にはそれらしい気配も見えない。仮庵の祭りとはユダヤ人の3大祭りの1つで、ティシュリの月の15日から8日間にわたって(10月下旬から11月上旬に当たる)祝われる。
この期間、人々は屋外に天幕を張り、出エジプトに続く荒野の放浪した先祖たちの経験を再現し神の恵みを記念する。その規定はレビ記23:33~44に記されている。またこの祭りは秋の収穫を神に献げる感謝の祭りでもあった(出エジプト23:16)。イエスの兄弟たちは彼に祭りにでかけ、それを機会にユダヤ在住の弟子たちを励まし、新しい活動を始めることをすすめた。「弟子たち」とは、ここでは彼に興味と同情とを寄せる人々を意味する。彼らがユダヤ行きを勧めたのは新しい弟子たちを得るためというよりも、むしろガリラヤで失ったもの(6:66)をユダヤの地で回復するためであった。イエスの兄弟たちにはイエスの活動は「自分を公けにあらわす」ための者だと思っているようだ。ところがそれがガリラヤの地では失敗したと思っているようである。しかしイエス自身は決して「自分を公けにあらわそう」とは思っていない。ここにイエスと兄弟たちとの間に距離があり、この距離はユダヤ人と弟子たちとの間にも見られる距離であった。

5節
著者の註、「こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである」。「信じない」は「知らない」とほとんど同じ意味である。彼らはイエスが「自分を公けにあらわし」、世の人々の一般的承認を得ようとしていると思っている。マルコ福音書が述べているように(3:21,31)イエスは気が狂っていると見なし取りおさえようとして出て来た姿はここではみられない。彼らはイエスの活動によって、ある程度の理解と承認とを彼に与えるようになったことがうかがわれるが、イエスに対する半信半疑の姿勢で、それを世論の動向によって自分たちの態度を決めようと考えているようである。だからイエスにユダヤ行きをすすめているのであり、いわばイエスを試験台にかけるスタンスである。ユダヤ人たちにとってエルサレムは世界の中心であり、ガリラヤの片隅で「隠れて仕事をする」ことはないだろうというのである。
これに対してイエスは「わたしの時はまだきていない」と答えた。彼は他人のすすめや強要によってことを決めない。彼は派遣した方の御心によってだけことを決する。自分自身の意志でさえない。「遣わし給いし者の御意を求むる」ことであって「己が意を求める」ことではない(5:30)「わたしの時」とはイエスにおいて「神の時」である。それは平凡な時間の一つではなく、まさに「千載一遇の時」である。この「時」を見誤ったり、見逃しすることは神の御意に従うことに失敗することを意味する。イエスの歩みの一歩一歩は祈りにおいてこの「時」を一つ一つ見出だして行くことであった。父の御意が明らかでないのに、勝手に動くことは出来ない。この神に縛せられた信仰の従順のうちに神の子の信仰の自由が、また喜びがあった。しかし「あなたがたの時はいつも備わっている」のである。彼らの時とは「世の時」である。常識と世間の動きに従って行く歩みは、何の考えるところも祈りの必要もない。彼らは思うままに自由に行動することが出来る。しかしこの自由は実は世に束縛された見せかけの自由に他ならない。世に従って歩む者は世の友であるから「世はあなたがたを憎むことが出来ない」が、世に従わずして「隠れて存在する父」に従って歩もうとする者は、世の異分子であり、世と徹底的に相容れない神の国の到来を告げて、人々に悔い改めを迫る人、世に従う生きかたは神の国に相応しくないと語る者は、当然世から憎まれる。イエスは兄弟たちのすすめをさけて「時が来る」まで、御心が示されるまで、なおガリラヤでの活動を継続する。彼らは人々と共に巡礼の歌を歌いつつ都上りをするがよい。しかしイエスがエルサレムに上るのは、メシヤとして、苦難の僕として、少なくともそれが明らかにされるときであるので、いまは行かない、という。喜びと感謝の心を主調とするこの度の祭りはイエスの心にそぐわないものを感じたのであろう(ウエストコット、マックグレゴール)。

2.イエス祭に上る (10~13)

祭りに行かないと言ったイエスは、兄弟たちが出発した後、少々遅れてエルサレムに向かった。父の御心を求めた祈りの結果、神の御心に従って押し出されるようにして出かけたのであろう。「目にたたぬように、ひそかに」という句にこの辺の事情がうかがえる。
ガリラヤからの巡礼者の一団はイエスの姿を探したが見つ出すことは出来なかった。彼らはこの祭りの時にイエスが何らかの行動を起こすのではないだろうかと、期待していたからである。イエスの姿が見えないので、群衆の間ではイエスについての相反する2つの意見が出され、対立したが、その議論は密かになされた。ユダヤ人の指導者たちに聞こえたら大変なことになると思っていたようだ。

3.真理の標識 (14~24)

マックグレゴールはこの部分を、5:47の後に置き、8:12に続けて読んでいる。群衆が諦めたかけた頃、イエスが突然姿を見せ、神殿にて祭に集う人々に向かって説教を始めた。ここでいう「ユダヤ人」とは祭司たちや指導者たちのことであろう。これらの人々がすべてイエスの敵であったのではない。彼らの中にもイエスの教えに対して素直な驚きを表明する者もいた。「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」とは、キリストの一つのしるしと考えられていた(イザヤ11:2)。彼らの言葉に促されてイエスはいつものように自分のことを弁明し、同時に論敵に対して反論する。ユダヤ人たちはイエスの教えを法と慣習とを無視した自分勝手なものであるとし、人を惑わし、民衆の無知につけ込んで、自分を神の子であると主張し、神を冒涜するものであると言う。そのために彼らはイエスを無きものにしょうと密かに企てている。これに対してイエスは自分の説くところは決して「自分勝手な教え」ではなく「わたしを遣わした方の教え」であると主張する。
その主張は自分本位の自己主張であって何の価値をないと考えられるかも知れない。そこでこのことを証明するものとして、2つの事実を挙げる(17節と18節)。証明すると言ってもそれはいわゆる客観的な証明ではない。そういう意味の証明はどこにも求めることはできない。真理の標識(しるし)として意識の中に自証という形で与えられる。これを承認する意志の有無が根本的な問題となる。「神のみこころを行おうと思う」という句は、その意味で有名な言葉である。神の意志を実行しようとする決心、つまり神を信じる意志、この前提がなければ宗教の問題はすべて空しい論議で終わる。宗教とか信仰とかいうことは、論ずること、知識の事柄ではなくして、第1には生きること、生活そのものに関わっている。この根本的な態度に立つ限り、人はイエスの教えが神よりのものか、自分勝手のものに過ぎないかについては直感的印象を自らのうちに持っている筈である。
宗教の源は神である。従ってその教えは神を目指し神の栄光を求める。もし自分自身の栄光を求めて語るものがあるとすれば、そのことによってその教えが神からのものでないことがわかる。神を指し示すことなしに自己を主張するものはすべてインチキと見て間違いはない。イエスの教えは「自分をつかわされたかたの栄光を求める」ので「真実である」。真実とはつぎはぎやごまかしのないこと、純粋であり透明であることを意味する。「それは、彼にとっても、あなたがたにとっても、真理なのである」(1ヨハネ2:8)。同じことを裏側から「その人の内には偽りがない」と言う。この偽りがないということは、他のものを自分のものとしない、言い換えると、神の領域を侵さないということである。

19節
イエスの弁明は一転して攻撃となる。彼を責める人々はモーセを律法の授与者とし権威とするが、イエスはこれを逆手にとって彼らを責める。ことごとにモーセを引き合いに出し律法をうんぬんする彼らは実は律法を守ってはいないではないかと。彼らがイエスに悪意を抱き、殺そうとしていることがその証拠である。イエスを律法の破壊者と見なすのは、彼らが律法を自分たちの特権を擁護する道具としてしか見ていないのであって、これを神の意志として本気で守ろうしていない。この言葉はかなり強烈な反撃である。群衆はユダヤ人指導者たちの本心を知らないために、イエスのこの言葉を常識的判断を逸脱した言い過ぎだと考え、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」とたしなめる。が、イエスは言葉を続けて、ユダヤ人指導者たちの律法の受け取り方が皮相でその精神を理解せず、「御心を行おう」としないために間違っていると批判する。
彼らがイエスを律法を破る者また冒涜者として不信の眼で見るようになったのは、「わたしが一つのわざをした」からである。それは安息日に病人を癒した(5:5以下)、あの出来事を指している。生まれて8日目に割礼を施すことはユダヤ人であるための最も大切な義務であるが、この日が安息日に当たっていても彼らはそれを律法違反だとは考えていない。割礼の義務はモーセによって与えられた律法の要求、神の意志だと考えているからである。しかし、実はこの慣習はモーセ以前の族長時代、先祖たちの時から始まったものである(創世記17:23)。そしてこの慣習は元来衛生的見地から行なわれたものと推定されるが、それが後に宗教的意義を持つようになった。それで新に生まれた子供を神に捧げ、神の祝福の下におき、身体のみならず魂をも含めて「全身を健やかに」することを願い割礼を施すようになった。モーセの割礼とはこのことを目指している。イエスが38年間、病気に悩む人を癒したのも単に肉体の癒しだけではなく、それを通して魂が救われること、全体人間(「全身」の訳は不十分)が健やかにされることを目指していた。彼らは人の眼、うわべで人を裁くので、間違うのである。「正しいさばき」は神を目指すのでただ一つである。真理は直証性をもつ。

4.キリストの出現と人々の意見の分裂 (25~53)

イエスの言葉には力があって人々の心に迫り、逆らうことが出来なかったようである。ユダヤ教の指導者たちのいらだちに反比例して群衆の心は彼に傾いていった。しかし彼をキリストであると断定するには戸惑いがあった。イエスは彼らの戸惑いに追い打ちを掛ける。群衆の中だけではなく指導者たちの間にも彼を支持するものが出て来て、判断は分裂し、イエスを逮捕しようという計画は実現しない。「彼の時」が未だ来ていないからである。

25節
「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか」。エルサレム在住の人々の間では、そのようなことが噂された。彼らはガリラヤからの巡礼団の人々と違って、役人たちのイエス殺害計画を知っていたのである。彼らの計画を無視するかのようにイエスの言葉は激しさを増す。人々の中には、実は役人たちはイエスがキリストであるということを知っているのではないか、と言い出す者もいた。キリストは「雲に乗って」(ダニエル7:13)来ると言われ、また「キリストが現れるときには、どこから来るのか知っているものは、ひとりもいない」とされているのに、わたしたちのほとんどがイエスがどこから来たのか知っている。「キリストが来ても、この人が行ったよりも多くのしるしをおこなうだろうか」。
28節の言葉にはイエスの皮肉が込められている。あなたがたはわたしのことを知っているというが、本当に知っているのだろうか。わたしの出身地は知っているかも知れないが、わたしが誰によって派遣されたのか知らない。ところが、わたしはわたしを派遣した者を知っている。イエスとイエスを派遣した方との「父子の関係」こそが、イエスの使命意識・派遣意識の源である。

32節
この状況の中で再び役人たちは不穏な動きをする。イエスが神と自分との間の特別な関係を表明したことを不当とし、神に対する冒涜としてイエスを捕らえようと下役どもを派遣する。しかし群衆の間ではイエスを信じる者が活発化して手を出せない。
そこでイエスは謎のような言葉を語る。「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く」。群衆は、イエスのこの謎のような言葉が理解出来ない。 著者は13:33から14:6でこの問題を明らかにしている。

37節
祭は8日間続く。祭の始めと終わりは「大事な日」と呼ばれていたらしい。イエスは祭の最終日に最後の訴えを行なう。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。ここの「わたしを信じる者は」という句は、これに続く文章の主語になっているが、これを前の文章の最後にひっつけて、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい、わたしを信じる者は」とするほうがスッキリする。現行訳(口語訳)では信者の腹から「生ける水が川となって流れ出ることになってしまう。この思想は4:16とも合致するが、根本的に考えて見れば、この生命はイエスが父より受けて信じる者に注ぐものであり、信者はイエスより注がれたこの生命によって他の人々を生かすと考えられる。なお他の箇所(1コリント10:4以下、出エジプト17:6、詩篇105:41、エゼキエル47:1,2、ヨエル3:18など)で、これと関連する聖句と睨み合わせて見るならば、明白にこの場所では、霊なるキリストが意味されていると言ってよい。次節の著者の註もこのことを語っている。「その腹」とは「イエスの腹」である(19:34)。註(1)
信じて聖霊を受けることなしには人々は「わたしのいる所」(34節)に行くことは出来ない。聖霊を受けるためには地上の彼、ナザレのイエスを信じなくてはならない、というのがこの訴えの主旨である。「聖書に」と書いてあるが、その箇所を明白に特定することは難しい。自由な引用かあるいは事後預言の変形だと考えられる。
ここで用いられている「渇く」という単語も含みがある。祭の期間、毎朝シロアムの池から水を汲んでこれを神殿に注ぐ習慣があった。これは出エジプト後の荒野の旅における水の恵みを記念するものであり、人々はその際にイザヤ書12:3の言葉を歌いつつこれを行なったという。申命記8:15,16には、荒野の旅における神の恵みを2つの奇跡として記録している。天よりのマナと岩よりの水である。キリストはモーセの業を繰り返しつつ、さらにこれを大規模に行なってその意図を完成すると信じられていた。モーセの行なった2つの業のうち、天よりのマナについては6章において言及した著者は、ここでは岩よりの水の奇跡に関する預言的な意味をイエスの言葉において説いているものと考えられる。イエスはまだ十字架に掛けられてはいないために栄光を受けていない。従って御霊はまだ降っていない。しかしイエスは事実に先行してこのことを教えておられるのであろう。しかし人々はその意味を悟ることは出来なかった。

40節
十分に意味を悟ることが出来て人は初めて信じるのではない。信じた後に悟ることが出来る。ヨハネが言いたいことはその点である。「これらの言葉を聞いて」多くの人々は、戸惑いまた嘲ったが、中にはイエスを信じた人もいた。「あの預言者」とはモーセが預言した「わたしのようなひとりの預言者」である(申命記18:15)。イエスをキリストと主張する人々に対して多くの人々はイエスがガリラヤ人であるということによってそれを否定した。「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう」。もし出るとしたらダビデの子孫として、彼が少年時代を過ごしたベツレヘムでなければならない(1サムエル16:1,4、ミカ5:2、イザヤ11:1、エレミヤ23:5)というのがその理由である。このようにして「群衆の間にイエスのことで分争生じた」。キリストが世に現われる時、神の民は互いに相争うということは、ヨハネ福音書の中心思想の一つである(9:16、10:19)。

44節
このような状況でイエスを逮捕しようとして派遣された者たちも手出しが出来ない。祭司長やパリサイ派の人々のもとに手ぶらで帰ってきた下役たちは厳しく詰問されたが、彼らは「でも、今までにこの人のように語る人を見たことがありません」と答えるしかなかった。イエスの教えに驚きその姿に圧倒された素直な告白である。祭司長やパリサイ派の人々は下役たちの素直な印象・判断を押さえつけて自分たちの見解を押しつける。お前たちは民衆と同じで馬鹿だから騙されたのだ。実に本当の意味で律法を知らない人間というものはわざわいである。こうなると彼らの頑固さはどうにもならない。しかし彼らの間から反論する人が出て来た。さきに夜、秘かにイエスを来訪したニコデモ(3章)である。役人階級は律法を盾にイエスを責め、群衆に対しては無知ということで「のろわれた者」と馬鹿にしたが、彼らが頼みとしている律法はもうすこし違うことを述べているのではなかろうか。つまり律法は訴えている人の訴えをよく聞くこと(申命記1:16、17:4、出エジプト23:51以下)、言い換えると欠席裁判を禁止しているのではなかろうか。人を外見や、表向きの訴えだけで裁いてはならない。先ずその人についてその人自身が語ることに耳を傾け、他人と彼自身の言っていること、また彼が言うことと行っていることとが一致しているかどうか、よく調べなければならない。しかしニコデモのこの正当な反論も頑なな連中には馬耳東風で、むしろニコデモ自身が笑いものにされた。「お前もあのガリラヤ出身か」。よく調べてみれば、「預言者はガリラヤから出ることはない」ということが分かるであろうと罵った。ヨナを見よ、彼の出たガテヘペルはガリラヤではないか(2列王14:25)。

著者註:
(1) 当時のラビの文献では「腹」は単に「人」を意味した(ホスキンス)。すると「その腹より」は「その人より」の意となる。

第8章(1~11)

7:53~8:11の「姦淫の女とイエス」の物語は、ヨハネ的でなく、共観福音書に出て来そうな場面である。ヨハネ福音書の古い写本・翻訳・教父の証言などではこの部分が欠けており、これが出てくるのは3世紀以後のものであるが、そレガ置かれている文脈もいろいろある。7:36、21:24、ルカ21:38、マタイ12:17などの後に置かれている。多くの写本が7:52の次にこれを置いているのは、8:15の「わたしはだれも裁かない」を説明する例証としてこの場所が選ばれたのであろう。元来、外典福音書の中に記録され保存されていたこの物語は正典成立のプロセスにおいて、捨ててしまうのはもったいない物語として取り上げられたものと思われる。

1.イエスと姦淫の女 (7:53~8:11)

夜はオリブ山で宿り、夜が明けると神殿に入って教えるという情景は共観福音書の苦難史のものである(ルカ21:37、22:39)。教えを説いた場所は恐らくソロモンの廊と呼ばれた辺りであろう(10:23、使徒5:12)。新鮮な朝の空気に包まれて、神の国の福音が人々の心に沁み入るように語られている静けさを破って、一団の闖入者が現われた。姦淫の現行犯を押さえられた1人の女を律法学者やパリサイ派一団が群衆を押しのけてイエスの前に突き出す。赦しと愛とを看板にして、いかがわしい人々と交流するイエスに、この女性をどう裁くかを興味を持って迫ろうというのである。律法は犯行者を目撃した者は、これに最初に罰を加えるという責任を命じている(申命記22:22以下、17:7、使徒7:58、レビ20:10)。今、この律法に従ってこの女性を石打ちにして殺すが文句はないかというのである。もしイエスがこれに反対をするならば律法無視・違反の事実を押さえたことになる。人の愛情を利用し、もしくはこれを押さえて相手を苦しめようとするとは、なんと罪深いことであろう。
罪人への愛を語るイエスを律法における主なる神への忠誠心とのジレンマに追い込むという作戦である。しかし自己に固執せず、自己の栄誉を求めす、ただひたすらに彼自身を遣わした父の御心に従って生きようとするイエスにとっては、どんな作戦も歯が立たなかった。事態はいかに行き詰まったかのように見えても、イエスはまったく自由であった。事柄は議論するまでもなく、はっきりしていた。カッカとする敵を前にして、イエスはただ父なる神と罪ある女性とだけを思い、顔を伏せ、地面に何かを書いている。女性の行為が律法違反であることは明白であるが、彼女を群衆の面前に引き出し、自分たちの勝利の快感を味わう手段にしょうとするパリサイ派の人々の無恥には押さえがたい憤りを感じる。彼らの顔を見て、口を開けばこの怒りが爆発するであろう。また女の怯えきっている顔を見るのも忍びない。目のやり場がなくて黙々と指で「地面に何か書いている」イエスの後ろ姿は激情をかろうじて抑えているようである。ますます激しく追求する人々の声にようやく身を起こした彼は、静かに答えた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と。イエスは律法の規定を変更しようとは思わない。それをそのまま承認しその権威を認め、彼女の罪が罰せらるべきであることは否定しない。しかし、このようにして彼女を連行し、罰を加えようとする連中には憤りを感ずる。同じ穴のむじなではないか。そのような仕方で神の前に悪と罪とがなくなるのか。残るはただ恨みだけである。律法学者・パリサイ派の人々は審判者ではあり得ない、それは神の他にはない。ただ神の罰を行なう者として立ちうるだけである。果たして彼らはそのような資格があるのだろうか。イエスは罪を無視しない。むしろその現実を心痛むまでに感じるからこそ、悔改めよと呼びかけ、罪の赦しの言葉によって罪を克服し、罪人に新しい生への希望を示して、そこへの歩みを助けようとする。そしてまたそれは可能であり、事実行なわれもした。しかし律法によって加えられた罰はこのことを実現しているだろうか。それでは問題を見る方向が違いピントが外れている。イエスの言葉は事件を法的領域から道徳的領域へと移すべきことを教える(ゴデー)。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」、そう言って再び「身をかがめて、地面にものを書き続けられた」。なんという権威に満ちた姿であろう。「これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出ていった」。文語訳ではここで「彼らこれを聞き手、良心に攻められ」という言葉が挿入されているが、これは著者による解説であろう。「ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」。彼女は茫然としてことの成り行きを他人事のように見ていたのかもしれない。イエスは身を起こして「みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」と問いかけて彼女に厳粛な事態をはっきりと認識することを促す。訴える者が罪を犯した者を罰するのではない。罰するのは隠れて見ておられる神のみである。「誰もございません」と答える女性に対してイエスは「わたしもあなたを罰しない」と宣言する。よく考えてみると、この言葉には厳しさが含まれている。イエスは女性が有罪であることを宣言し、しかし罰しないという。それはまさに神の業である。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という命令の言葉には彼女が有罪であるという確認が含まれている。女はまだ義とされはしなかったが、イエスの愛と忍耐とによってその罪は見逃された(ロマ3:24,25)。この配慮の恵みが悔改めへと導く。イエスは十字架を予見しているので、女の罪を見逃すことが出来た。

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