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松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(12)<17:1~26>

2015-06-26 08:24:41 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(12)<17:1~26>

第17章

愛する者を世に残して、しかも戦いと苦難の世に残して去るイエスの告別の言葉は、中途から祈りに変わる。この告別の祈りは同時に神への奉献の祈りでもある。自分自身を神の前に聖別し、同時に弟子たちをそのようなものとして、彼らを神に委ねる崇高な愛に支えられた祈りである。この祈りは4つの部分に分けられる。
     1.  自分自身のための祈り(1~5)
     2.  弟子たちのための執り成しの祈り(6~19)
     3.  将来の弟子たちのための祈り(20~23)
     4.  彼に属するすべての人たちの祈り(24~26)

第2の部分はさらに3つ祈りが含まれる。弟子たちとは何者であったのか(6~13)、現在どんな状態にあるのか(14~16)、彼らには何が必要なのか(17~19)である。
この章の中に展開されている思想そのものはすでに14章の中に含まれており、特に新しいものはない。イエスと神との交わり、弟子たちとの交わりを語り示すことがその目的であるが、この祈りおいて重要なことは、祈りがサクラメントであるという真理を示している点である。

1.イエス自身のための祈り(1~5)
イエスは常に「天を仰いで」祈る。膝に手を置いて首を垂れて祈るわたしたちの祈りの姿勢が必ずしも「自然な形」であるとは言えないのではなかろうか。
「父よ、時が来ました」。今までは「わたしの時はまだ来ていない」(2:4、7:6、8、8:20)と言われて来たその時が今、来た。「あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」。イエスが世を去る姿、その去り方は父と彼との交わり、その比類なき愛の関係が現されるチャンスであり、そのことが互いに相手の「栄光」(恵みと力)を現すこととなる(13:31)。互いに相手に対する愛の真実を示すことが、このような愛によって世を救おうとする神の愛の啓示となる。子が世に来たのはすべての信じる者、すなわち「あなたからゆだねられた人すべてに」、「永遠の命を与える」ためであった(6:27、47)。メシヤの支配は政治的な力による支配ではなく、その「すべての人を支配する権能」はこのようにして行使される(1:12)。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と言われる。これは著者がイエスの口に入れた信仰の告白である。イエスをわたしの救いのため父が遣わされた人と知り、彼との交わりにおいてイエスを遣わされた父なる神をいよいよ深く知り、イエスとの交わりに深められて行く経験、それが「永遠の生命」と言われる救いの体験である。遣わされたイエスは地上にあって、「わたしにさせるためにお授けになったわざ」──命じられたこと──を「なし遂げて」、「地上であなたの栄光をあらわしました」と確信をもち、思い残すところがない。彼の業は人の目には失敗と見え、あるいは未完成に見えるかもしれないが、彼の良心は成就したと見る。それだからこそ、十字架上の最後の言葉は「すべてが終わった」というのであった(19:30)。神への徹底的な信仰の服従、喜びと自発的に行う従順の告白、それが「地上に」おいて遣わされた者が示すことができる神の栄光であり、それへの指である。この指が指し示すところはやがて神そのものによって示されるであろう。その確信が「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光」をという祈りになる。地上の制限の中で父の栄光を求め、これを示した子に対して、父は子の栄光を現される。復活によって大能をもて神の子であることが確定される(ロマ1:4)。「世が造られる前に、わたしがみそばで」とのキリスト先在の思想(1:1~5,6:62、8:58)は、恐らくパウロから受けたものであろう(ピリピ2:5~11)。ヨハネの思想はパウロのそれを根底にもっている。そしてそれを発展させ、そのあるものについてはその特殊な響きを強く打ち出したものであって、ヨハネをパウロと対立的に解釈することは正しくはないであろう。

2.弟子たちのための執り成しの祈り(6~19)
この部分は、3つに区分できる。弟子たちとは何者であったのか(6~13)、現在どんな状態にあるのか(14~16)、彼らには何が必要なのか(17~19)である。

(1) 弟子たちとは何者であったのか(6~13)
「あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました」とイエスは祈る。父なる神を示すためにこの世に来たイエスの使命の範囲、その射程距離は現実には非常に狭い場所に限られていた。ヨハネはこのことを繰り返して語ることを忘れない。そしてそれは初代教会以来の伝承なのである。復活によって神の子であることが明らかになったと言っても、それはすべての人々に対してではなく、特定の人々「あらかじめ選ばれた者たち」(使徒10:41)にだけであった。イエスが「神から遣わされた者」であることを知り、彼を受け入れ、彼の言葉を守ろうとする人々は少数ではあったが、イエスはこの人々は「彼らはあなたの言葉を守りました」と言い、「彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました」と言い、彼らを重んじ大切にした。弟子を愛し友を大切にすることは神に従う具体的な道である。神を愛すると言って目に見える兄弟を愛さない者は「偽り者」だというヨハネ(1ヨハネ4:20)は、神を信じると言いつつ兄弟を信じない信者、友として与えられた弟子を大切にしない牧師、牧師を重んじない信徒を何と呼ぶであろうか。師弟の関係の真実さは互いに相手を神よりのものとして受け入れ、重んじるところに生まれ、また保たれる。そして兄弟の間の真実な友情の関係も同様である。「彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました」。イエスの弟子たちに対するこの真実、父への信仰と従順とから出る彼らへのこの信頼が、弟子たちに互いに、イエスを信じるものが神から出ているという強い自覚を呼び起こし、互いに重んじるべきであることを教えた。
「わたしに賜わったものはすべて」という言葉をイエスに従う弟子たちであると考えることは、あるいは読み過ぎであるかも知れない。普通にはイエスの言葉と業というふうに解釈されるが、しかし、何度読み返してもわたしには文脈の上から、あるいは全体の雰囲気からそうとしか受けとれない。地上を去ろうとするイエスにとっての最大の関心事、その使命の成否は弟子たちが互いに相愛することにかかっている。たとえ、小さな集団であるとしても、イエスの弟子たちの交わりが、来たるべき神の国の中核体を形成することができるかどうかという点が決定的に重要であった。今はかすかにこの点に希望を見出すことができて、彼は父の許に行こうとするのである。彼らのこの交わり、イエスを中心とする結集は彼の言葉によって成り立ち支えられる。「わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです」。この信仰と知とが弟子たちの一致と交わりの基礎である。イエスは今彼らを父に委ねて「彼らのためにお願いします」と祈る。彼は「この世が救われるために」遣わされた(3:17)のではあるが、「世のために」に願うのではなく、「あなたがわたしに賜わった者たちのため」に願い祈るという。世を救うために一般的な方法、手段をとらず、極めて遠回りと思われる個別的むしろ例外的な道を辿って、世を動かす挺子となるような主体を新しく造り出すことがイエスの方法であった。そしてキリスト教はこの道を変えることが出来ない。

(2) 弟子たちは現在どんな状態にあるのか(14~16)
「彼らはあなたのもの」であったが、「わたしに賜った」のであった。神のものであった一人一人の弟子たちはいまは彼のものとなっている。このことを述べるのに、彼らだけと言わないで、「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのもの」と言う。父なる神とイエスとの共同は弟子たちを媒介(なかだち)として行われる。この共同が進められ深められることが、子が父の栄光を現すことであり、また同時に父が子の栄光を示すことである。従って「わたしは彼らによって栄光を受けました」という言葉が出てくる。イエスは弟子たちの故に栄光を受ける。ことに彼らがイエスの愛に根差して相互に愛し合うことによって、イエスの弟子であることを現すならば。その時、その背後に隠され、これを生み、これを支えていた父なる神とイエスとの交わり、愛の共同とがは明るみに出されるからである。この根本的な理解に立てば、11節の祈りは極めて自然に理解される。「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。ここでの「御名」とは神の実質であり、父の愛とその力とを意味する。イエスに注がれた神の愛とその力、彼が地上にあって知り経験したその交わりが彼らのものとなり、彼らがその交わりの中に成長し、父と彼とが一つであるように、彼らも互いに「一つとなること」を祈る。このイエスの祈りをわたしたちも今日深く思うべきである。イエスのこの祈りは無責任な祈りではなく責任を尽くし、走るべき道程を走った者がホッとする祈りである。「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました」。神の守り、イエスの保護の中にのみ彼らは互いに生ける愛によって結合され一つとなる。イエスは一人の弟子が亡び行くのを、何とかしてとどめようと渾身の力を持って努力したが及ばなかった。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)。ユダはイエスによって招かれたが救いには選ばれなかったと見るべきか、それとも、イエスの十字架はユダの罪をも赦して終わりの日に救われるとするものか、神の秘密の前にわたしたちは立ち停まるしかないが、著者は注釈を加え、「滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」と語る。
13節も前節に引き続いて、著者の心がイエスの口を通して語らせているようである。「今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります」。イエスの告別の祈りは弟子たちの見ている前でなされている。この祈りはなかったとしても、父なる神は彼らを守るであろうが、祈りとは交わりの生けるしるしであり、それによって喜びが働く。この祈りを聞く弟子たちはそれによって確信と喜びとが加えられる。彼らもまた先生の祈りに促されてその喜びを経験することであろう。

(3) 弟子たちには何が必要なのか(17~19)
17節
「わたしは彼らに御言を与えました」。弟子たちはイエスにより、神の言葉を与えられることによって「世のものではない」者となった。世が「彼らを憎む」は必然であり、それは「わたしが世のものでない」のと同じである。イエスはいま父のもとに帰ろうとしているが、同じように弟子たちをも「彼らを世から取り去ること」を父に願わない。かえって彼は彼らを世に遣わす。それは「羊をおおかみの中に送る」(マタイ10:16)ような不安と悲痛の感とをぬぐいきれないが、彼ら自身には「へびのように賢く、はとのように素直であれ」(同上)と命じつつ、父には「彼らを悪しき者から守って下さい」と祈る。悪とはここでは道徳的な悪を指すのではなく、悪魔、この世の君であり、悪の力の犠牲となることがないようにとの祈りである。
決別の祈りは同時に派遣のための聖別の祈りでもある。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」。サタンの誘惑に対抗し、その犠牲にならないで、かえってこれと戦えるための唯一の武器は真理である神の言葉である。イエス自身経験した勝利の秘密はこれであった。神の御名(1節)はその言葉に隠れ、凝結している。神の言葉によって召され、世から選び別たれ、彼のものとされ、守られつつ世に遣わされるということ、それが「真理によって彼らを聖別」するという意味である。父なる神はイエスをそのようにして世に遣わされたが、「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と言う。「彼らのためわたし自身を聖別いたします」。彼らを真理によって聖なる者としてくださいと祈るイエスは、そのために、彼自身をささげる。神のものとして自分自身を全く神に献げ切る十字架こそ、彼に従う者を聖なる者とする。彼の死は真理において、神の言葉に従い仕えて行われたのである。19節の「真理によって」は17節と違って定冠詞が付いていないことを注意する必要がある。厳密に解釈すれば「真に」という副詞的用法である。彼らの聖別が本当に実現するために、イエスは父に祈るだけではなく、それに応じた道、十字架への道を歩もうとする。
 
3.将来の弟子たちのための祈り(20~23)
イエスの祈りは「彼ら」つまり今ともにいる弟子たちのためだけではなく、「彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のために」も続けられる。「彼らの言葉」とは遣わされた弟子たちの証し、宣教の言葉である。その祈り、願う内容は「みんなの者が一つとなるため」ということである。教会の拡大と発展とは一致を傷つけるところがある。その一つの原理、理想を支えているものは父との一つなる深き交わりである。そして彼らは一つとなることによって、父なる神との交わりに与り、その愛と生命とに生きることが出来る。「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」という祈りはそのことを示している。その交わりの中に居て一つとなるために。彼らがこのことを実現するならば、「それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」。しかし、このことが実現しないならば、キリストの栄光は地に墜ち、神の栄光も傷つけられる。教会の不一致は世の最大の躓きである。一致はキリストが神から遣わされた者であることを示す無言で、しかも最強の宣教である。「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」。この「栄光」は父との交わり、愛の充満を示している。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」と、執拗に一つの戒めが繰り返される。「互いに愛し合う」(15:17)という主題は、ここではさらに展開され、編曲されて「みんなの者が一つとなるために」となって繰り返される。それはキリスト者の完全であり、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」(マタイ5:48)と命じられた愛の完全を意味する。「彼らが完全に一つになるため」「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」と言われている。信徒の一致の基礎はその中にキリストが、キリストにおいて神が働かれることにほかならない。それによって、世はキリストが神から遣わされたこと、キリストを信じる人々を神がいかに愛しておられるのかということを知る。

4.彼に属するすべての人たちの祈り(24~26)
イエスの祈りは新しくされる。しかし、新しい言葉も新しい思想も現われてはいない。すでに語られたことが新しい文脈と組み合わされているだけである。「あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい」という祈りは12:26には弟子たちへの命令として語られているし、「天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」は22節の「あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」の祈りの変形であり、変奏曲である。「わたしのいる所」とは、イエスが父なる神と共に永遠より永遠の亙って持つ交わりの場所であり、彼の弟子たちはこの交わりに与っている(1ヨハネ1:3)。「わたしの栄光」もまた同じ事柄をさし、父との交わり、その愛につながっている子の姿である。これを「見る」というのはイエスと共にあり、同じ場所に立って彼の愛に与ることを言う。 信徒の地上での生の目標はイエスのこの栄光をその全き姿において見ることである。そしてそのことは復活の彼と出会うことによって実現する(2コリント4:6)。これが神の義である。「正しい父よ」との呼びかけが出てくる理由である。「この世はあなたを知っていません」。従って神の義を知らず、子の栄光を見ることが出来ない。「わたしはあなたを知り」「彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています」ので、わたしの栄光を見る筈である。「わたしは彼らに御名を知らせました」。「また、これからも知らせましょう」は、再会を期して、復活の時を望んでである。彼らが神を知るのは「あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。彼らがさらによくこれを知るようになれば、この交わりはさらに深くされ、完全なものになる。

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