東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

6月に積み残した花

2016-06-30 | 季節の花
  今年も半分が終りましたね。
  空が梅雨空になってあまり撮ってないと思っていた花、
  振り返ってみたら結構撮っていた。
  UP出来なかった花を少しまとめて。


  

     ニワナナカマド (庭七竃)  バラ科 ホザキナナカマド属  06/01

     ナナカマドは花よりその実の美しさがウリ、
     でもなぜか私はその実を見たことがない。




  

     カワラナデシコ(河原撫子) ナデシコ科ナデシコ属  06/06

     いつもはピンクの花を見て胸キュン、今回は白い花で清純さを。
     可憐という言葉はこの花のためにあるような。
     花言葉は「可憐な純情」。




  

     ムラサキツユクサ(紫露草) ツユクサ科ムラサキツユクサ属  06/06

     今年はなぜかこれぞという花に出合わなかった、
     花弁が丸く色もちょっと紫がかっている。
     いろいろな色、形があるのでこれもアリかなと。




  

     ムラサキツユクサ白花

     矛盾を感じながら「白い紫露草」です、
     ネットで調べるとどうもオオムラサキツユクサ(白花)と呼ぶのが正確らしい。




  

     クガイソウ(九蓋草) オオバコ科クガイソウ属  06/10

     この花もず~っと撮ってるけど何年撮っていてもそれらしく撮れない、
     上手くじゃなく、それらしく撮りたいんだけどね。




  

     トケイソウ(時計草、パッションフラワー) トケイソウ科トケイソウ属  06/12

     農業公園ではトケイソウを高い所へ上げてしまった、
     これでは時計にも見えないしキリストの受難にも見えない。




  

     トモエソウ(巴草) オトギリソウ科オトギリソウ属  06/14

     巴(トモエ)、卍のような形をした渦巻き模様のこと。
     卍、ラーメンのどんぶりのふちを取り巻いている。♪




  

     シモツケ(下野) バラ科シモツケ属

     名前は下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)で初めて見つけられたところに由来します。
     シモツケ属の仲間にコデマリやユキヤナギがあるけど
     このシモツケやユキヤナギがバラ科の花とはねぇ、、、。




  

     コウホネ(河骨) スイレン科コウホネ属  06/18

     水生植物、地下茎が白くゴツゴツしているので骨みたいと。
     もうちょっと近くで咲いてくれるといいんだけどなあ・・・。

     小ぶなとる わらはべ去りて 門川の
          河骨の花に 目高群れつつ   子規




  

     スイセンノウ(酔仙翁) ナデシコ科センノウ属  06/18

     センノウの名称は、昔、京都嵯峨にあった仙翁寺(せんのうじ)にあったことによる。
     赤い花=赤い顔、とのことで酔っぱらった赤い顔から連想して名づけられたらしい。
     きれいな花なんだけどウデに問題がありまして残念です。



     6月の後半は街歩きが忙しく花を撮ってるヒマがなかった、
     街歩きって面白い、一つ謎が解けると次の謎が待っている。
     行きたい所がどんどん広がって「探偵団」の面目躍如、
     一人っきりの探偵団なので忙しいことこの上もなし、、、だね。

         

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蔵前橋から吾妻橋まで

2016-06-29 | 散歩
  ここまで来ると、痛む足を引きずって、、、ですわ、
  歩き出してから3時間半を経過、休みなしに歩いている。
  でもここまで来たら終点はもうすぐそこ、
  ひとムチくれてゴールを目指しましょう。


  

     蔵前橋(くらまえばし)
     このあたりに幕府の米蔵がたくさん並んでいた、
     その蔵の前の地というのが、地名にもなった。
     蔵前の地は札差しなど江戸商人発展の地であり、
     粋(いき)や通(つう)のあふれた土地柄となってきた。

     札差し(ふださし)とは武士は米で給料を受け取っていた、そのままでは不便なため
     武士に代わって米を受け取り現金化して武士に渡し手数料を得る商人。

     物価が上がって暮らしにくくなっても給料は上がらない、武士は前借りをして凌いだ。
     大名から下級武士まで借りまくった結果武士は札差しに頭が上がらなくなり
     見かけはともかく実質的に町人の力は武士のそれを上回っていく。
     




  

     厩橋(うまやばし)
     この橋の創架は明治7年で、 隅田川では 第6番目の橋です。
     この一帯には幕府の御米蔵があり、米の運搬のために馬もたくさん飼われ、
     お厩と言われ、橋が出来る前には「お厩の渡し」があった。
     3連アーチがいいですね。




  

     この辺は隅田川の横にもう一つの川が、、、
     隅田川テラスを行く人にとってはまさにオアシスです。




  

     駒形橋(こまがたばし)
     駒形の名は、橋のたもとに浅草寺に属する駒形堂があるから。
     土地の人々によれば、コマカタは清んで発音して、
     コマガタと濁らないと伝えている、これも粋ってことかな。
     昭和2年に竣工する前には「駒形の渡し」のあったところ。




  

     駒形堂(こまがたどう)
     駒形堂は浅草寺の伽藍の一つ。
     浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された場所で、
     江戸時代は魚介殺生禁断の地でした。

     草の林もわかず 暮れそめ
         三日月低し、駒形の上に   子規




  

     吾妻橋(あづまばし)  これだけ下流側から
     浅草と本所を結ぶ橋、本所吾妻橋とも呼ばれる。
     創架は1774年10月で、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所だった。
     江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋で、
     武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。




  

     吾妻橋
     東岸にはアサヒビール本社などが入る墨田リバーサイド地区があり
     アサヒビール本社はジョッキから泡が盛り上がるというデザイン。

     屋上の個性的な形をした金のオブジェでおなじみの「スーパードライ ホール」。
     巨大モニュメントにより通称「うんこビル」などと呼ばれているが、
     アサヒビールの燃える心を象徴する「炎のオブジェ」とされている。

     「うんこビル」の別名で呼ばれてはいるけど、
     その他に「オタマジャクシ」、「練り辛子、」「クジラ」、「オバケ」などの解釈もあるみたい。

     スカイツリーの左は墨田区役所。




  

     東京メトロ銀座線浅草駅
     吾妻橋方面の4番出入口には、浅草観音に因んだ格好の屋根が設置され、通称「赤門」と呼ばれている。
     向こうに雷門、すぐそこに神谷バー、右には東武浅草駅と遊覧船乗り場。

     このほか浅草には都営地下鉄浅草線浅草駅、つくばエクスプレス線浅草駅がある、
     それぞれバラバラにあるのでちょっと辛いところだ。


     ここから右へ行って東武線で帰宅の途に、
     電車の椅子に座ったら「わ~、楽ちん。生き返ったようだ」。♪
     下車駅で降りて歩こうとしたらイテテ、歩けな~い、、、
     座ってた分痛みが倍加、たまらんち!。

     帰って靴下を脱いだら足の爪が2,,3枚紫色に、
     2ヶ月を経った今でも紫色のまま。
     新しい靴を履いて行った私がバカだった・・・。
                                                           5月8日 隅田川を歩いて帰る
                 

  
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清洲橋から両国橋まで

2016-06-28 | 散歩
  この日は日曜日だったのでちょっとだけ時間がある、
  このまま浅草・吾妻橋まで歩いちゃおうかな。
  この前は確か2時間ばかりで歩いた、
  寄り道しないで歩けば1時間半で歩けるだろう。


  

     清洲橋(きよすばし)
     清洲橋は当時ドイツのケルンにあったヒンデンブルグ橋をモデルに造られました。
     「清洲」という名称は公募で建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた名前。
     一つ下流の永代橋とはその曲線構造が対になっていて、男性的な永代橋に対して
     清洲橋は女性的なイメージが強いようです。




  

     新大橋(しんおおはし)
     新大橋は1693年12月、現在地よりやや下流に初めて木の橋が架けられた。
     両国橋が1659年に架けられて「大橋」と呼ばれていたので、
     その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と呼びました。

     清洲橋と新大橋の中間くらい、深川に芭蕉庵があります。
     新大橋の工事中に見に行った芭蕉は、
     「初雪や かけかゝりたる橋の上 有り難やいたゞいて踏む 橋の霜」と詠んだ。


     そしてそのあと清洲橋から舟で隅田川をさかのぼり千住大橋で下りたあと、
     先日歩いた日光街道、奥州街道をみちのくへと向かいました。




  

     行き交う遊覧船
     隅田川では引っきりなしに遊覧船が行き交っています、
     これは「竜馬」ですね、東京湾へ向かうところです。




  

     両国橋(りょうごくばし)
     武蔵国と下総国を繋いだことから両国橋と呼ばれた、今は京葉道路が走る。
     江戸一番の大火であった明暦の振袖火事では橋がなくて逃げられずに、
     多数の死者が出た。そのため、大火のあとこの橋が架けられた。
     橋のたもとにある回向院は、その人々を弔うために建てられた。




  

     柳橋(やなぎばし)は、神田川にかかる橋
     両国橋のすぐ上流、神田川が隅田川に流れ込みます。

     1842年江戸市中の岡場所が禁止され深川から多くの芸者が柳橋に移る、
     俗にいう辰巳芸者の気風(きっぷ)のよさをを引き継いで人気があった。
     また柳橋には舟宿が多く猪牙舟(ちょき)でここから吉原を目指した人も多かった。




  

     東京水辺ラインの「あじさい」
     いいね、のんびりと上り下りの船でも見ていたい。
     左はJR総武線鉄橋。




  

     国技館
     両国橋のちょっと上流を護岸の上に上がってみると国技館、
     ちょうど夏場所が開かれていたのでお客さんの姿もたくさん見られました。




   

     このあたりフェンスには相撲の決まり手の透かし彫りが取り付けられている、
     48手というけど見ながら歩いていると時間を忘れます。


     足が大分痛くなってきた、
     あろうことか新しいスニーカーを履いてきた。
     履いた時はわりと緩いなと感じたんだけど
     すでに3時間歩いている、もうちょっとだ頑張ろう!。
                                                               5月8日 隅田川テラス
         

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とと姉ちゃんの深川を歩く

2016-06-27 | 散歩
  とと姉ちゃんは始まってから視聴率が20%を割ったことがないとか。
  深川にはかつての面影が残っているかな?と
  深川を歩いてみましたがさすがにというか、歩く場所が悪かったのか
  当時の面影はうかがえなかったけど今の深川を・・・。


  

     地下鉄茅場町駅から永代橋に向かいます、
     これは通り過ぎてから振り返った霊岸橋。
     下は亀島川、右に見える大きな建物は日本橋川と合流する水門です。




  

     永代橋。これも渡ってから振り返った姿、左が東京湾。
     永代橋が架橋されたのは、1698年8月、
     徳川幕府の永遠を祈って永代橋とした。

     今回この後浅草まで隅田河畔を歩くことになるけど、
     敢えて橋は上流側から逆光気味で撮ってみました。




  

     永代橋を渡ったらまっすぐ進んで富岡八幡宮。
     1624年、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓し、
     永代島に八幡宮を建立したことが創建とされる。

     一の宮神輿は日本最大の神輿とされ、あまりの大きさに1991年に
     初渡御が行われただけで以後は神輿倉の展示品として扱われている。




  

     境内には伊能忠敬の像。

     伊能 忠敬(いのう ただたか) 1745年~1818年
     1800年、55歳のときこの地から全国測量の旅に出立した。

     奇しくも芭蕉もここ深川からみちのくへ旅立っていますね。




  

     辰巳新道。
     江戸城から見て富岡八幡の門前町は南西の方角にあったので辰巳の名が。
     50mほどの路地に32軒もの飲食店がひしめく飲み屋横丁、それが辰巳新道です。
     闇市を起源とするそのノスタルジックな路地、時間が止まったよう。




  

     盛り場には芸者がつきもの、江戸時代この辺の芸者は辰巳芸者と呼ばれた。
     深川八幡宮・永代寺の門前町は岡場所であり、遊女(私娼)と並んで
     「意気」と「張り」を看板にした芸者が評判となった。
     羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれ、
     舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋(いき)」の象徴とたたえられた。

     これから清洲橋を目指して紆余曲折します。




  

     とと姉ちゃんの舞台は深川木場、その木場の跡は
     広域避難所となり木場公園として都民の憩いの場に。
     総面積は24.2ha、1992年6月1日 開園。

     広大な敷地は3個所に分かれこれを繋ぐのは木場公園大橋、
     下を流れるは仙台掘川、近くに仙台藩の屋敷があったのでこの名が。




  

     深川江戸資料館
     地下1階から地上2階・3層にわたる高い吹き抜け大空間に、
     約150年ほど前の江戸深川の町並みを再現している。
     各家の中には生活道具類が配置され、
     実際に家に上がりこみそれらの道具類に触れることもできる。




  

     霊巌寺(れいがんじ)
     1624年、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島に創建された。
     1657年、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼、
     1658年に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環としてここに移転した。




  

     深川は東京湾に面していたため海産物が豊富、
     アサリ飯、海苔、佃煮などお店がいっぱい。
     そんな中に江戸時代からワープして来たおじさんが一人、
     思わず転けそうになりましたが・・・。


     このあと清洲橋に出て隅田川をさかのぼります。
     永代橋は通りました、清洲橋から浅草の吾妻橋まで
     いくつの橋があるのかな?。
                                                                 5月8日 深川散歩
         
   
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おいしそう、ヤマモモ

2016-06-26 | 季節の花
  ハスが咲いてくるとヤマモモが実る、、、
  なんとか頭に定着したようでハスを撮りながら
  あ、ヤマモモが実ってるかもしれない。
  農業公園まで足を延ばしました。


  

     ヤマモモ(山桃) ヤマモモ科ヤマモモ属

     山に生える木で実の味が桃に似ているところから「山+桃」。
     関東以南の本州と四国や九州、沖縄の低地や山地に自生しています。




  

     樹勢が落ち着いていて常緑樹であることなどから、街路樹や公園などにもよく植樹されています。
     街路樹には雄木がいい、落ちたヤマモモが踏み潰されて道路が真っ赤に汚れている。

     ヤマモモの花言葉は「教訓」「ただひとりを愛する」




  

     モモみたいに実の横に割れ目がある、、、     
     もうちょっと黒っぽく熟れたら食べごろ。

     見た目は可愛くて綺麗ですが、食べるとなると芯に大きな種があり、
     果肉部分だけをうまく食べるのが難しいのが欠点。

     シロップ漬け、果実酒、ジャムなどでお召し上がりください。


     ヤマモモは雌雄異木、両方が無いと受粉出来ず実がなりません。
     けど、ヤマモモの花粉は非常に遠くまで飛び、いたるところに街路樹や
     自生している木があるので意外と雌だけでも結実する事も多いようです。
     「ヤマモモの花粉は中国から飛んでくる」とまで言われているそうですが・・・。
                                                              6月12日 都市農業公園
         

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