王子から吉原を抜けて隅田川まで流れていた山谷堀、
今は埋め立てられ山谷堀公園となっている。
隅田川から遡って吉原大門のあたりまでは痕跡が残っているけど
その先の痕跡は残ってない。が、飛んで三ノ輪にその切れ端があった。
大関横丁で日光街道と交差したあと向島の方へ向かう明治通り、
これから左へ曲がるけど右のほうへ、浅草方向へ向かう道があります。
これが山谷堀の土手、今でいう土手通りで
山谷堀は無くなったけど土手は残り隅田川へと続いています。
もうちょっと進んでみましょう、左へ明治通り正面が土手通りです。
そして正面のビルが並ぶあたりに山谷堀が流れていました、土手通りは文字通りその土手だったのです、
電柱の向こうに左へ入る道、この小さな道へ入ります。
突然目の前に小さな児童公園が現れます、
これが山谷堀の跡に出来た公園なんですね。
いまは改修されきれいになった山谷堀公園も前はこうした公園が続いていました。
周りを建物で囲まれパンダが遊ぶ小さな公園、
ここを江戸のころには山谷堀が吉原を横に見ながら隅田川まで流れていたのです。
向こうが根岸でその流れは王子の音無川に端を発しここを流れていました。
吉原方向です、この山谷堀を舟でまた土手通りを歩いたり、駕籠で吉原へ向かったのでしょう。
当時の王子はまだキツネがいたころ?、根岸方面からの人が多かったのかな。
この公園から歩いて1,2分のところに投げ込み寺として有名な浄閑寺があります。
吉原で亡くなった身寄りのない遊女などは山谷堀を舟で運ばれこの寺に投げ込まれたと伝わります。
これが江戸期のみならず大正の時代まで続いたというから驚きです、
まあ吉原自体は昭和の中ごろまで営業していましたけど。
浄閑寺全景。
本堂の裏に「新吉原総慰霊塔」とか永井荷風の詩碑、
花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
を彫り込んだ銘板などがあります。
根岸を歩くとかつての山谷堀の跡も見られるけど
その向こうにはもう痕跡はないのだろうか、
調べてみて何かあるようだったらまた歩いてみたいと思います。
雨がポツポツと落ちる中でのコンデジ撮影、
画質がイマイチでしたね。m(_ _)m
data: PowerShot G12。 撮影 5月23日 台東区・三ノ輪あたり
今は埋め立てられ山谷堀公園となっている。
隅田川から遡って吉原大門のあたりまでは痕跡が残っているけど
その先の痕跡は残ってない。が、飛んで三ノ輪にその切れ端があった。
大関横丁で日光街道と交差したあと向島の方へ向かう明治通り、
これから左へ曲がるけど右のほうへ、浅草方向へ向かう道があります。
これが山谷堀の土手、今でいう土手通りで
山谷堀は無くなったけど土手は残り隅田川へと続いています。
もうちょっと進んでみましょう、左へ明治通り正面が土手通りです。
そして正面のビルが並ぶあたりに山谷堀が流れていました、土手通りは文字通りその土手だったのです、
電柱の向こうに左へ入る道、この小さな道へ入ります。
突然目の前に小さな児童公園が現れます、
これが山谷堀の跡に出来た公園なんですね。
いまは改修されきれいになった山谷堀公園も前はこうした公園が続いていました。
周りを建物で囲まれパンダが遊ぶ小さな公園、
ここを江戸のころには山谷堀が吉原を横に見ながら隅田川まで流れていたのです。
向こうが根岸でその流れは王子の音無川に端を発しここを流れていました。
吉原方向です、この山谷堀を舟でまた土手通りを歩いたり、駕籠で吉原へ向かったのでしょう。
当時の王子はまだキツネがいたころ?、根岸方面からの人が多かったのかな。
この公園から歩いて1,2分のところに投げ込み寺として有名な浄閑寺があります。
吉原で亡くなった身寄りのない遊女などは山谷堀を舟で運ばれこの寺に投げ込まれたと伝わります。
これが江戸期のみならず大正の時代まで続いたというから驚きです、
まあ吉原自体は昭和の中ごろまで営業していましたけど。
浄閑寺全景。
本堂の裏に「新吉原総慰霊塔」とか永井荷風の詩碑、
花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
を彫り込んだ銘板などがあります。
根岸を歩くとかつての山谷堀の跡も見られるけど
その向こうにはもう痕跡はないのだろうか、
調べてみて何かあるようだったらまた歩いてみたいと思います。
雨がポツポツと落ちる中でのコンデジ撮影、
画質がイマイチでしたね。m(_ _)m
data: PowerShot G12。 撮影 5月23日 台東区・三ノ輪あたり