* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第三十三句「信連合戦」(のぶつらがっせん)

2006-05-31 13:01:47 | Weblog
            高倉の宮・以仁王(もちひとおう)の御所に押し寄せた検非違使庁
            の下人たちに、ひとり奮戦する長谷部信連(左上隅)

        <本文の一部>

  かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもって、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国(清盛)をりふし(たまたま)福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞くもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず、高倉の宮からめ取って、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。

  上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。追立の官人には、源大夫判官兼綱、出羽の判官光長うけたまはって、宮の御所へぞむかひける。源大夫判官と申すは、三位入道(頼政)の養子なり。しかるをこの人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによってなり。

  三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ・・・・・・「君の御謀叛、すでにあらわれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺(三井寺)へ入らせ給へ。入道(頼政)も子ども引き具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。

  宮(高倉の宮・以仁王)は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける・・・・・・・

  長兵衛は、御所の御留守に侍ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも(あれほど)御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや、(これは大へん)。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず(とても)御よろこびありて、「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける・・・・・・

  ・・・・夜半ばかりに、出羽の判官(光長)、源大夫判官(兼綱)、都合二百騎ばかりにて押し寄せたり。源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかえたり・・・・・・・

  長兵衛、「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんじらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉(さひょうえのじょう)長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける・・・・・

  ・・・・信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬ってまはるに、おもてを会はする者ぞなき。信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざっとぞおりたりける・・・・

  ・・・・・太刀の切っ先五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ会うたり。「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ・・・・・

  信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり・・・・・

  ・・・・平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり・・・・

 右大将(宗盛)、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。入道(清盛)も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちのは当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆(鳥取)の日野へぞ流されける。

  そののち源氏の世となりて、鎌倉殿(頼朝)より土肥の次郎実平に仰せてたずね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、志のほどをあはれみて、能登の国(石川)の御恩ありける(領地を賜る)とぞ聞こえし。

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

       <あらすじ>

(1) 長谷部信連は、”宮”の御所の留守に留まっていたが、「役人が来るから片付けよ!」
    と指図しながら、宮の秘蔵の笛「小枝」を見つけ、門を走り出て宮に追いつきお渡し
    した。

    高倉の宮は、大そう喜ばれ「私が死んだら、この笛を何としても棺におさめよ」と仰
    った。

(2) 追捕の役人が来るというのに、宮の御所に誰一人居ないというのも悔しい!、武士
    としては役人に言葉のひとつもかけて相手をしたいものだと、信連はすぐに取っ
    て返した。

(3) 長谷部信連ただ一人御所で待つところへ、平家の侍が二百騎ほど押し寄せる。
    信連「宮はこの御所にはいらっしゃらない」という、役人「それなら御所中をお探し
    しろ」と、信連「礼儀もわきまえぬ奴らだ、噂にも聞いているだろうが、私が長谷部
    信連だ、そばへ寄って怪我をするな!」と叫び、これを合図に平家の役人たちが、
    信連めがけてどっと討ちかかる。

    しかし、信連一人に斬りたてられて逃げまどい、たちどころに拾数人を斬り伏せるが、
    太刀も折れ自害しようとしたが腰刀も落してしまい、長刀で股を突かれて遂に
    生け捕られてしまう。

(4) 信連は、六波羅へ引き立てられ、宗盛が「宣旨のお使に悪口をいい、役人を殺害し
    たことは不埒である、事情を糾した後”処刑場”で首を刎ねよ!」というが・・・・

    信連は、「高倉の宮のお出でになるところは知らないし、たとえ知っていたとして
    も申さぬ。宮の御為に命を落すのであれば武士の面目、冥途の良い土産」と延べ、
    あとは一切口を開かなかったという。

(5) 並み居る平家の面々は、信連のあまりの豪胆さに”首を切るのは惜しい”と云い、
    ある者は、御所での警護の役人が止められなかった強盗六人を、信連ただ一人
    で討ちかかって、四人を斬り二人を生け捕ったという功名話を披露したりして、
    結局は宗盛も、清盛も「気持ちが改まったたら、当家に仕えよ」と、伯耆の国(鳥取)
    へ流罪とした。

    のち源氏の世となって、頼朝から能登の国(石川)に領地を賜ったということである。

  

  

  

第三十二句「高倉の宮謀叛」

2006-05-29 12:46:08 | Weblog
    (上段)令旨を受ける伊豆の国・蛭が小島の頼朝、「何と、高倉の宮さまより、
         この頼朝に令旨を下さるとな」と急ぎ文を開けて見る。
           (下段)東国に出発する源行家の一行。

           <本文の一部>

  一院第二の皇子以仁(もちひと)の親王と申すは、御母は加賀大納言季成の卿の御むすめ。三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。御歳十五と申せし永万元年(1165)十二月十六日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず・・・・・・・

  治承四年(1180)卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道(頼政)、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の宮にてわたらせ給ふ。いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず。宮にてわたらせ給ふことを、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさま見るに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし・・・・・・」とて申しつづく。

  「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基・・・・・伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝(さきのひょうえのすけ よりとも)。・・・・・故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。・・・・君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道(頼政)こそ年寄って候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。

  熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ、「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。同じき四月二十八日、都をたって、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨を奉る。「信太の三郎先生(せんじょう)義教にとらせん」とて、常陸の国信太の浮島へ下る。「木曾の冠者義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。・・・・・・・

  さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。

  さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、たりふし(懇願)申されければ、入道相国(清盛)、やうやう思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる・・・・・・

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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      <あらすじ>

 (1) 五歳の弟宮(のちの高倉天皇)が親王宣旨を受ける直前に、十五歳の以仁王は、
     許しの無いまま勝手に元服の式を行い、皇位継承者としてはそれなりの
     立場にたったが、当然に”高倉天皇”の即位をもくろむ平家側からは厳しく警戒
     することになる。

 (2) 治承四年(1180)四月、源三位・頼政は高倉の宮・以仁王の御所に参上し、
     平家への謀叛を薦めるのであった。

 (3) そして、各地の源氏諸流の武士たちの名を挙げて、以仁王の”平家追討”の令旨
     を頂ければ、直ちに諸国へ挙兵の馬を走らせましょう・・・・と申し上げる。

      以仁王は、迷った末に結局”計画”を実行に移し始めるのであった。

 (4) 源為義の十男、十郎義盛を行家と改名し、令旨の御使いとして東国の各地に
     遣わされる。治承四年(1180)の四月二十八日のことである。

      五月十日には、伊豆の国・蛭が小島に流されていた源頼朝に対面し、更には
     木曾の義仲にも令旨を授けるのであった。

 (5) 後白河法皇は、鳥羽殿へ遷されてから早くも足掛け二年が過ぎ、平宗盛の再三
     の懇請もあって、清盛もようやく思い直して、五月十三日、法皇を、鳥羽殿から
     故美福門院の御所へお移し申し上げた。

 (6) この間に、熊野の別当・湛増(永年、平家に縁故のあった勢力)の、源平の合戦の
     途中で源氏側に寝返るというお話もある。



              (平)徳子(建礼門院)
                   |
 (平)滋子(建春門院)    |---言仁親王(安徳天皇)(1178~1185)
       |          |
       |------------憲仁親王(高倉天皇)(1161~1181)
       |     
     後白河院(1129~1192)
       |
       |------------守覚法親王(仁和寺御室)
       |      |
    (源)成子    |----以 仁 王(高倉の宮)(1151~1180)
               |
              |----亮子内親王
              |
              |----式子内親王
            
  

第三十一句「厳島御幸」

2006-05-27 12:31:34 | Weblog
                紫宸殿での即位の式(第八十一代・安徳天皇)

            <本文の一部>

  治承四年(1180)正月一日、鳥羽殿には、入道相国(清盛)もゆるされず、法皇もおそれさせましましければ、元日、元三のあひだ参入する人もなし。故少納言入道の子息、藤原の中納言成範、その弟左京大夫脩範、これ二人ばかりぞゆるされて参られける。

  同じく二十日、東宮(言仁親王・安徳)御袴着、ならびに御魚味(おんまな)初めきこしめすとて、めでたきことどもありしかども、法皇は御耳のよそにぞ聞こしめす。

  二月二十一日、主上(高倉天皇)ことなる御つつがもわたらせ給はぬを、おしおろしたてまつる。東宮踐祚あり。これは、入道相国、よろず思ふままなるがいたすところなり。「時よくなりぬ」とてひしめきあへり・・・・・・・

  新帝、今年三歳(満一年二ヶ月)。「あはれ、いつしかなる位ゆずりかな」と人々申しあはれけり。平大納言時忠の卿は、うちの御乳母帥の典侍の夫たるによって、「『今度の譲位いつしかなり』と、たれかかたぶけ申すべき。異国には、周の成王三歳・・・・・・後漢の孝殤皇帝は、生れて百日といふに踐祚ありて天子の位をふむ。先蹤、和漢かくのごとし」と申されけれど、そのときの有職の人々、「あなおそろし。ものな申されそや。さればそれはよき例どもか」とぞつぶやきあはれける・・・・・・・・・

   同じく三月に、「新院(高倉上皇)、安芸の厳島へ御幸なるべし」とぞ聞こえさせ給ひける・・・・・・
・・・・山門の大衆、憤り申しけるは、「賀茂、八幡、春日なんどへ御幸ならずは、わが山の山王へこそ御幸なるべけれ。安芸の厳島までは、いつのならひぞや。その儀ならば神輿を振り下したてまつりて、御幸をとどめたてまつれ」とぞ申しける。これによって、しばらく御延引あり・・・・・・

  あくる十九日(三月)、大宮の大納言隆季の卿、いまだ夜ふかう参りて、御幸をもよほされけり。この日ごろ聞こえさせ給ひし厳島の御幸をば、西八条の第よりとげさせおはします・・・・・・・・

  同じき二十六日、厳島へ御参着あって、太政入道(清盛)の最愛の内侍が宿所、御所になる。なか一日御逗留ありて、経会、舞楽おこなはる。導師には、三井寺の公顕僧正とぞ聞こえし・・・・・・・

  同じき二十九日、上皇(高倉)、御船かざりて還御なる。風はげしかりければ、御船漕ぎもどし、厳島のうち、有の浦にとどまり給ふ・・・・・・

  五日の日(四月)は、天晴れ、風しずかに、海上ものどけかりければ、御所の御船をはじめまゐらせて、人々の船どもみな出だしつつ、雲の波、けぶりの波をわけしのがせ給ひて、その日の酉の刻(夕方)に、播磨の国山田の浦に着かせ給ふ・・・・・七日、・・・・入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。

  同じく四月二十二日、新帝(安徳天皇)御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、ひととせ炎上ののちは、いまだ造り出だされず・・・・・「大極殿なからんには、紫宸殿にて御即位あるべし」と申させ給ひければ、紫宸殿にて御即位あり。・・・・・・・

  中宮(安徳母后・平徳子)、好徽殿を出でさせ給ひて仁寿殿へうつり、高御座へ参らせ給ふありさま、めでたかりけり。平家の人々みな出仕せられたりけれども、小松殿(重盛)の公達ばかり、父の大臣去年失せ給ひしあひだ、いまだ色(服喪中)にて籠居せられたり。

             (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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         <あらすじ>

(1) 治承四年(1180)二月二十一日、高倉天皇はご病気でもないのに、退位させられて、
    東宮(言仁親王・安徳)が踐祚する。清盛の独裁権力を如実に物語るくだりである。
    (踐祚:皇位を継ぐ実質的な意味)

(2) 新帝(第八十一代・安徳天皇)、わずか満一年二ヶ月という、世の人々は「まぁ何と
    あわただしい御譲位だ」と云いあう。

    平大納言・時忠(清盛の室・時子の兄)の卿は、「古代中国・後漢には、生後百日で
    踐祚の例もあり、この御譲位を誰が非難できようか・・・」と述べるが、故実典礼に詳
    しい人々は、「それは良い例なのか・・・」とつぶやいたと云う。

(3) 同年三月に、高倉上皇は父・後白河院の鳥羽幽閉の今、少しでも権力者清盛の気持
    ちを和らげたいとのお考えから、清盛が尊崇する厳島神社への参詣を願うが、これが
    比叡山の僧たちの強い反対でしばらく延期せざるを得なかったという。

(4) 三月十九日、高倉上皇は、ようやく鳥羽殿へ朝早くにお入りになり、父・法皇と涙ながら
    に語り合はれ、午後になって鳥羽殿を出て厳島へ向かはれる。右大将・宗盛、大納
    言・実房などがお供をする。

(5) 同月二十六日に厳島へ到着し、三井寺の公顕僧正を導師として、写経や舞楽を奏
    した。
    同じく二十九日には、船をととのえて都へお戻りになるが、備後の敷名(広島県)や
    備前の児島(倉敷)などを経て四月五日、福原に入り、七日に都に着く。

(6) 治承四年(1180)四月二十二日、新帝(安徳天皇)の御即位の式があり、中宮(安徳
    母后・平徳子)は、高御座(たかみくら、即位などの大礼の際の天皇の座)へ参られ、
    平家一門の人々みな出仕するが、重盛の子等(維盛、資盛、清経ら・・・)は、前年の
    父の喪で屋敷に引き籠っていたという。

         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ”高倉院厳島御幸記”には、往きにはわざわざ福原の清盛邸に寄り、こゝから清盛
    厳島行きに同行したとあり、福原でのそれを含め、途中の港々での歓待ぶりが目を
    引き、高倉上皇の微妙な心境も記している。


  

  

  

第三十句「関白流罪」

2006-05-26 11:37:38 | Weblog
             配所に近い熱田神宮に参詣した前太政大臣・藤原師長は、威儀を正
             して琵琶の秘曲を次々に弾き詠い、明神への法楽供養を行う。
             前庭には、村人や猟師など老若男女が集まり、たゞ頭を垂れて聞き
             惚れている。

             <本文の一部>

  さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめて、みな追籠めたてまつる。なかにも摂政殿をば太宰帥にうつして、鎮西へ流したてまつる・・・・・・

  また、前関白松殿(藤原基房)の侍に江の大夫の判官遠業といふ者あり。これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉家業うち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山にうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐頼朝をたのばやとは思へども、それも当時は勅勘の人の身にて、身ひとつにもかなひがたうおはすなり・・・・・六波羅より召しつかひあらば、腹かき切って死なんにはしかじ」とて、瓦坂の宿所へとって返す。

  さるほどに、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂の宿所に押し寄せて、鬨をどっとぞつくりける。江の大夫判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら、六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切って、父子ともに焔のなかにて焼け死にぬ・・・・・・・・

  同じき二十日、院の御所法住寺殿へは、軍兵四面をうちかこむ。「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。法皇も大きにおどろかせおはします・・・・・・・・

  さて御車に召されけり。公卿、殿上人、一人も供奉せられず。北面の下臈、金行と申す力者ばかりぞ参りける。車の尻に尼御前一人参られたり。この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり・・・・・・・

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    <あらすじ> 

(1) 治承三年(1179)十一月十六日、清盛は院側近の公卿を含め四十三人(三十九人
    とも)を解官し、摂政殿基房)を鎮西(九州)へ流罪とした。 この清盛のやり方に官
    職はみな呆然としたのであった。

(2) 太政大臣・師長は尾張へ流されて、近くの三ノ宮・熱田神宮に参詣し、歌舞を捧げる。

(3) 大江遠業(基房の侍)と子息・家業の父子は、平家勢の前で屋敷に火を放って壮絶
    な死(切腹)を遂げる。

(4) 同年十一月二十日、院の御所・法住寺殿を平家の軍兵が取り囲み、後白河院を城
    南の離宮・鳥羽殿へ幽閉してしまう。(清盛クーデターである。)

(5) 故少納言入道・信西の子息・静憲法印は許しを得て、鳥羽殿の法皇の御前に伺候
    するが、法皇は食事もとらず、夜もお寝みにならず・・・・と、お側の尼御前の話に
    涙をおさえるのであった。

(6) 高倉帝は、関白を流され多くの近臣を失ったばかりか、父の法皇をも鳥羽殿に押し込
    められた心痛に、これ又食事もとらず、夜もお寝みにならぬていにて、たゞ清涼殿で
    伊勢の大神を参拝するばかりであった。そして密かに内裏より鳥羽殿へ御書があり、
    「帝位に留まっても何もならないご時世では、隠棲したい」との高倉帝の意向に、驚い
    た法皇は、「そのように思ってはなりません、帝位にあることが、私の唯一の頼りであ
    り、この先を見届けて欲しい」と、急ぎ返書をおくられるのであった。

       このように『巻第三』では、さすがの蜜月関係にあった後白河院平 清盛 との
       間も、次第に対立確執が深まっていくさまを描いている。

第二十九句「法印問答」

2006-05-24 16:59:30 | Weblog
                西八條の清盛邸で、静憲法印(左)に意中を語る 清盛入道(右)

      『第二十八句「小督」は、巻の構成上項目のみあげて、
       内容本文は”第五十三句「葵の女御」”に記す』

               <本文の一部>

   同じき十一月七日の夜、戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いて、やや久し。陰陽頭安倍の泰親、いそぎ内裏へ馳せ参りて、奏聞しけるは、「今度の地震、天文のさすところ、そのつつしみ軽からず。当道三経のうち、坤儀経の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず、もってのほかに火急に候」とて、はらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ひ、君も叡慮をおどろかせおはします・・・・・・・・

  同じき十四日、入道相国、この日ごろ福原へおはしけるが、なにと思ひ給ひけん、数千騎の軍兵を率して都へ入り給ふよし聞こえしかば、京中の上下、なにと聞きわけたることはなけれども、騒ぎあふことなのめならず。また何者の申し出だしたりけるやらん、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべし」といふ披露をなす・・・・・・・・・・

  同じき十五日、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべきこと必定」と聞こえしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故少納言入道信西の子息、静憲法印御使にて、入道相国の西八条の第へ仰せつかはされけるは、「近年、朝廷しずかならずして、人の心もととのほらず、世間もいまだ落居せぬさまになりゆくことを、惣別(総じて)につけてなげきおぼしめせども、さてそこにあれば、万事はたのみにおぼしめしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなからめ。あまつさへ嗷々なる体にて、朝家をうらむべしなんど聞こしめすは、なにごとぞ」と仰せつかはされける。
 静憲法印、入道相国の西八条の第へむかふ。

  入道、対面もし給はず、あしたより夕べまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそ無益におぼえて、源大夫判官季貞をもって院宣のおもむきを言い入れたりければ、そのとき、入道相国、「法印呼べ」とて出でられたり。呼び返し、「やや、法印の御坊、浄海(清盛の法名)が申すところはひが事か、御辺の心にも推察し給へ。まづ内府(重盛のこと)がみまかりぬる(亡くなる)こと、当家の運命をはかるにも、入道、随分悲涙をおさへてまかり過ぎ候ひしか。保元以後は乱逆うちつづいて、君やすき御心もわたらせ給ひ候はざりしに、入道はただおほかたをとりおこなふばかりにてこそ候へ、内府こそ手をおろし、身をくだきて、度々の逆鱗をやすめまゐらせ候ひしか。そのほか臨時の御大事、朝夕の政務・・・・・」

「・・・・・・いかでか内府が労功を捨てらるべき。また重盛が奉公を捨てらるといふとも、浄海が数度の勲功をおぼしめし知らざらん。これ九つ。このほかのうらみなげき、毛挙にいとまあきあらず」

 はばかるところもなくくどきたてて、かつうは腹立し、かつうは落涙し給へば、法印は、「この条々案のうちのことなり。ことごとく院の御ひが事、禅門(清盛のこと)が道理」と聞きなして、あはれにもまたおそろしうもおぼえて、汗水にぞなられける・・・・・・・・・

  法印、御所へかへり参りて、このよしを奏せられければ、法皇も道理至極して、仰せ出だされたることもなし。

                 (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
             ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     <あらすじ>

(1)治承三年(1179)十一月七日、夜八時ころに地震がしきりと起り、参内した陰陽頭
   (天文・暦・卜占などの陰陽寮の長官)の安倍泰親が申し上げるには、「この地震、
   天文の指すところ緊急の大事が起る・・・・」と。

(2)十一月十四日、福原の清盛入道が軍兵を率いて都に入り、このため京の街中は騒
   然となる。

(3)清盛が、朝廷を恨んでいるとのもっぱらの噂に後白河法皇は驚いて、翌十五日に静憲
   法印を清盛邸に遣わして事の次第を糺す。

(3)清盛入道は、『亡き重盛に対するのなさりよう、重盛に与えていた越前の国を取りあ
   げたこと、これまで永年にわたって忠勤を励んだ平家に対して、が関わる討伐の企
   ての噂もあり、最早ご奉公の気持ちも失せた!、など等、挙げきれないほどあり、法印
   の御坊はこの清盛の云うことが間違っていると思うか・・・』と、怒り時には泣きくどいた
   のであった。

(4)静憲法印は、「考えていた通りです、それぞれ後白河院が不当で、入道殿(清盛)の云
   うことが正しい」と、少しも動ずることなく述べた上で、「言い分はもっともであるが、現
   在の地位は法皇の称賛あってのこと、法皇側近の企てを院が加わっている等と信じ、
   法皇を滅ぼそうとなさることは、君臣の道にはずれるのではないか。とに角、言い分
   の趣を私が法皇に良くお伝えしましょう」と、座を立つのであった。

(5)御所に戻った静憲法印は、このことをつぶさに申し上げると、法皇も得心して「清盛
   申し分もっともじゃ・・・・」と、重ねて仰せだされることは無かったという。


     時の最高権力者『清盛』に対しては、中々ものを云う人もいない状況で静憲法印
   の堂々とした物腰には、並み居る人々も皆”称賛”したという。






  

  

第二十七句「金渡し 医師問答」

2006-05-22 12:11:56 | Weblog
            治承三年(1179)、突如として旋風が巻き起こり公家屋敷も
            庶民の家も、轟音とともに倒壊し人々はその下敷きとなって
            助けを求める地獄絵図

         <本文の一部>

  さるほどに、同じく五月十二日の午の刻ばかりに、京中は辻風おびたたしう吹いて行くに、棟門、平門を吹き倒し、四五町、十町吹きもって行き、桁、長押、柱なんどは虚空に散在す。檜皮、葺板のたぎひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。おびたたしう鳴り、動揺すること、かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。

  舎屋破損するのみならず、命失ふ者もおほかりけり。牛馬のたぐひ、数をつくしてうち殺さる。「これただ事にあらず。御占形あるべし」とて、神祇官にして御占形あり。「いま百日のうちに、禄を重んずる大臣のつつしみ。別して天下の御大事。ならびに仏法、王法ともにかたぶきて、兵革相続すべき」とぞ神祇官、陰陽頭どもは占ひ申しける。

  小松の大臣は、か様の事どもを伝え聞き給ひて、よろず心細うや思はれけん、そのころ熊野参詣のことあり、本宮証誠殿の御前に参らせ給ひて、よもすがら敬白せられけるは、親父入道相国のふるまひを見るに、ややもんずれば、悪行無道にして、君をなやましたてまつり、重盛、嫡子として、しきりに諌めをいたすといへども、身不肖のあひだ、彼もって服膺せず。そのふるまひを見るに、一期の栄華なほあやふし。

  枝葉連続して親をあらはし、名をあげんことかたし。このときにあたって、重盛いやしくも思へり。なまじひに世につらなって浮沈せんこと、あへて良臣孝子の法にあらず。名をのがれ、身をしりぞいて、今生の名利をなげうって、来世の菩提をもとめんにはしかじ。ただし、凡夫薄地、是非に迷へるがゆゑに、心ざしをほしいままにせず。

  南無権現金剛童子、ねがはくは子孫繁栄に絶えずして、朝廷に使へてまじはるべくは、入道の悪心をやはらげて、天下の安全を得さしめ給へ。栄耀また一期をかぎって、後昆の恥におよばば、重盛が運命をつづめて、来世の苦患をたすけ給へ。両箇の求願、ひとへに冥助をあふぐ。

  と、肝胆ををくだいて祈り申されければ、大臣の御身より燈籠の火の光の様なるもの出でて、ばっと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見たてまつりけれども、恐れてこれを申さず・・・・・・・・

  盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、このよしを申したりければ、入道大きにさわいで、「これほど国を思う大臣、上古いまだなし。末代にあるべしともおぼえず。日本不相応の大臣なれば、いかさまにも今度失せなんず」とて、泣く泣くいそぎ都へ上られけり。同じく七月二十八日、小松殿出家し給う。法名をば「照空」とぞつき給ひける。

  やがて八月一日、臨終正念に住して、つひに失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとこそ見えつるに、あはれなりしことどもなり・・・・・・

  大臣は天性滅罪生善の心ざし深うおはしければ、未来のことをなげいて、「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんこともありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世をとぶらはればや」とて、安元のころほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召して、人をはるかにのけて対面あって、金を三千五百両召し寄せて、「なんじは大正直の者であるなれば、五百両をなんぢに賜ぶ。三千両をば宋朝へわたして、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、わが後世をとぶらはせよ」とぞのたまひける・・・・・・・・・

            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      <あらすじ>

(1)治承三年(1179)五月十二日正午ころに、京の街中は旋風が吹き、屋敷の門や屋根、柱などを、空中高く舞い上げて人や牛・馬も数え切れないほど命を落した。

     この頃は、鴨長明の「方丈記」にも記されているように、災害が続いてますます世相
     不安になっていたようです。治承四年(1180)春四月の辻風(強旋風)で、家・家財が
     宙に舞い、犠牲者の数知れずとあり。

     そして、安元(1177)の大火、養和(1181)の飢饉、元暦(1185)の大地震などの天
     変地異が続き、藤原兼実の”玉葉”(日記)にも、この大地震で
     「土裂けて、水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る・・・」と書
     かれているくらいで、今で云う液状化現象のことなのでしょうか。

(2)小松の大臣(重盛)は、これらの事を伝え聞き、熊野参詣で神仏に申し上げて・・
   ・曰く・・・・「父・入道相国の悪行無道の振る舞いがあり、これでは平家の安泰も
   危うい、私の名誉や命に代えて神仏のご加護を願う・・・」と、一心不乱にお祈りを
   するのであった。

(3)重盛 は、この後”病”を得て床につくが、神仏への願いが叶えられたのもだと、治療
   も祈祷もしなかった。
    その頃、宋の名医が日本に滞在していたこともあって、清盛重盛に、その名医の治
    療を受けることを薦めるのであったが重盛は、「この病は天意であり、これが運命なら
    治療を加えても意味が無い」と、治療を受けることをしなかった。

   そして、七月二十八日、出家して「照空(証空?)」と名乗る。

(4)治承三年(1179)八月一日、重盛薨じ、享年四十三歳であったと伝える。
   清盛の強引な政治手法に、”抑え役”であった唯一の人物を失って、この後
   天下にどんなことが起きるのかと、世人は嘆きあったと言う。

(5)重盛は、罪障を断ち善根を積む、心の非常に強い人で、来世の安泰を願い、
   「わが国でどんな善根を積んでも、子孫が冥福を祈ってくれる期待はできないと、
   よその国に善根を施して後世の安泰を祈ってもらおう」と、人を介して宋の国の育王
   山(宋代五山の一つ)に寄進してもらうようにと、三千両の大金を届けさせるのであ
   った。

   清盛の頃は、宋銭を大量に輸入して流通させており、”両”とは古代中国の
   ”重量単位”でした。

   中国では「半両」という、最初の”円形方孔銭”が造られていて、今「日本銀行・貨幣博
   物館」で陳列されています。

    しかし、平安末期でも””は、依然として”砂金”のまゝ、袋に入れたり、竹筒に入れ
   たりして使われていたようです。たぶん重盛の寄進した””は、重量の金「砂金」であっ
   ただろうと思われます。


   
  



  

第二十六句「有王島下り」

2006-05-19 11:57:28 | Weblog
                俊寛に姫御前の手紙を見せる有王

           <本文の一部>

  さるほどに、鬼界が島へ三人流されたりしが、二人は召し返されて都へのぼりぬ。いまは俊寛一人のこりとまって、憂かりし島の島守りとなりにけるこそあはれなれ。
 俊寛僧都の、をさなうより不便(ふびん)にして召し使はれける童、有王、亀王とて二人あり。二人ながら、あけてもくれても主のことをのみ嘆きけるが、その思ひのつもりにや、亀王はほどなく死ににけり。
 有王いまだありけるが、「鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入る」と聞こえしかば、鳥羽まで行きむかひて見れども、わが主は見え給はず。「いかに」と問ふに、「俊寛の御坊はなほ罪ふかしとて島にのこされぬ」と聞いて、有王涙にぞしづみける。泣く泣く都へたちかへり、その夜は六波羅の辺にたたずみて、うかがひ聞きけれども、聞きだしたることもなし。

 泣く泣くわがかたに帰りて、つくづく嘆きくらせども、思い晴れたるかたもなし。「かくて思へば身も苦し。鬼界が島とかやにたづね下って、僧都の御坊のゆくへを、いま一度見たてまつらばや」とぞ思いける。

 姫御前のおはしけるところへ参りて、申しけるは、「君はこの瀬にも漏れさせ給ひて、御のぼりも候はず。いかにしても、わたらせ給ふ島に下りて、御ゆくへをたづねまゐらせばやと思ひたちて候へ。御文を賜はりて参り候はん」と申しければ、姫御前、なのめならずにとろこび給ひて、やがて書いてぞ賜びにける。

 「いとまを乞ふとも、よもゆるさじ」とて、父にも、母にも知らせず、泣く泣くたづねぞ下りける。

 唐船(もろこしぶね)のともづなは、四月(うづき)、五月(さつき)に解くなれば、夏衣たつをおそくや思ひけん、三月(やよひ)の末に都を出でて、おほくの波路をしのぎつつ、薩摩方へぞ下りける。薩摩よりかの島へわたる舟津にて、人あやしみ、着たるものをはぎ取りなんどしけれども、すこしも後悔せざりけり。姫君の御文ばかりぞ、人に見せじと、元結のうちにかくしたりける。

  さて、商人の船のたよりに、くだんの島にわたりて見るに、都にてかすかに伝へ聞きしはことの数ならず。田もなし、畑もなし、村もなし、里もなし。おのづから人はあれども、言うことばも聞き知らず。「これに都より流され給ひし、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知ったる」と言うに、「法勝寺」とも、「執行」とも、知ったらばこそ返事もせめ、頭をふって、「知らず」と言ふ。

  そのなかにある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は、三人これにありしが、二人は召し返されてのぼりぬ、いま一人のこされて、あそこ、ここにさまよひありけども、ゆくへは知らず」とぞ言いける。山のかたのおぼつかなさに、はるかにわけ入り、峰によじのぼり、谷にくだれども、白雲跡を埋んで、ゆききの道もさだかならず。

  青嵐ゆめをやぶりて、その面影も見えざりけり。山にてはたづねあはずして、海のほとりについてたづぬれば、沙頭に印をきざむ鷗、沖の白洲にすだく浜千鳥のほかは、こととふものもなかりけり。

  ある朝、磯の方より、かげろふなんどの様に痩せ衰へたる者、よろぼひ出で来たり。「もとは法師にてありける」とおぼしくて、髪はそらざまに生えあがり、よろずの藻屑とりついて、もどろをいただきたるがごとし。つぎめあらはれて皮ゆるみ、身に着たるものは、絹布の分けも見えずして・・・・・・・

  「もの申す」と言へば、「なにごと」と答ふ。「これに都より流され給ひたる、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知ったる」と問ふに、童は見わすれたれども、僧都はいかでかわすれ給ふべきなれば、「これこそよ」とのたまひもあへず、手に持ちたるものを投げ捨てて、砂の上に倒れ伏す。さてこそわが主の御ゆくへとも知りてけれ・・・・・・・・・

  「北の方は、その御思ひと申し、またこれの御ことと申し、ひとかたならぬ思ひに、同じく三月二日に、はかなくならせおはしまし候ひぬ。いまは姫御前ばかりこそ、奈良のをば御前のもとにしのびてわたらせ給ひ候ふが、その御文は賜はりて参りて候」とて、取り出して奉る。

          たなばたの 海士のつりぶねわれに貸せ 八重の潮路の 父をむかへん

  おのづから食事をとどめて、ひとへに弥陀の名号をとなへて、臨終正念をぞ祈られける。有王島へわたりて三十三日と申すに、つひにその庵のうちにてをはり給ひぬ。年三十七とぞ聞こえし。

                (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     <あらすじ>

(1)鬼界が島へ流された三人の内、ご赦免に漏れて一人島に残された俊寛僧都。この
   俊寛が可愛がって召し使っていた有王亀王の二人は、明け暮れご主人の境遇を
   悲しみ沈んでいたが、遂に”亀王”は死んでしまう。

(2)有王は、俊寛僧都の残された姫御前のもとへ行き、島へ渡ってご主人の行方を尋ね
   たい、ついては”姫”の手紙を頂きたいと申し出で、手紙を預かって薩摩から更に鬼
   界が島に渡る船に乗り換えて、島へ向かうのであった。
   
   その間に、薩摩の港では着物を剥ぎ取られる等の難儀を重ねながら、”文”は束ねて
   まげにした髪の中へ隠し持って、やっとの思いで島に着く。

(3)島には、田も畑も無く、里もなければ、たまに人がいても言葉も通じない有様で、よう
   ようの思いでボロボロの老人を見つけて尋ね、何とその人こそがご主人の俊寛僧都
   であったのである。

(4)身内の一族がみな殺され、奥方も幼い姫も亡くなったことを聞かされた俊寛は、遂に断
   食をし自らの命を絶つのであった。享年三十七歳であったという。

(5)有王は、亡骸にとりすがり泣き続けたが、やがて火葬に付して遺骨を首にかけ、再び商
   人舟を待って九州に渡り都へと帰りつくのであった。

(6)親元にも寄らず、姫御前のもとへすぐに参り、島での様子をこまごまと語り、これを聞い
   た姫御前は泣き叫び、尼となって奈良・法華寺に入り父母の後世を弔うのであった。

   有王は、師の僧都の遺骨を高野の奥の院に納めたのち、法師となって諸国を巡って
   師の後世を弔い歩いたということである。



 

  

第二十五句 「少将帰洛」

2006-05-11 14:36:03 | Weblog
           父・大納言成親の墓所にぬかずく少将成経 たち、松木立の中に
           ひっそりと土を小高く盛ってある

             <本文の一部>

  さるほどに、ことしも暮れて、治承も三年(1179)になりにけり。正月下旬に、丹羽の少将成経、肥前の国桛(かせ)の荘をたって、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ(二月)十日ころにぞ備前の児島に着き給ふ。

  それより父大納言の住み給ひける所をたずね入りて見給ふに、竹の柱、古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみ(あと)を見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手をも見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年(1177)七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。

  そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし。」とも書かれたり。この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。

  その墓をたずね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ承りて候ひしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候ひしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。

  まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。苔の下にには、誰かはこととふべき。ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。

  その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫をさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒都婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり・・・・・・・・

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     <あらすじ>
 (1) 中宮・徳子 の皇子ご誕生祈願の大赦によって、罪を免ぜられ都に召しかえされる
     途中、非業の死を遂げた、父・大納言 成親 の墓を訪れて(二月十日ころ)、墓の形
     も無いような粗末な土盛りを直して、壇を築き経を書き卒塔婆を立てて七日七晩供
     養を行ったのである。

 (2) やがて三月十六日、少将・成経康頼 入道の二人は鳥羽に帰り着き、父・大納言の
     かつての山荘をたずねる。栄華を誇った邸もいまは人影も無く、屋敷は荒れ果てゝ
     尽きせぬものは涙ばかりであった。

 (3) そうこうしている内に、都から迎えの乗り物が来て、成経 は、たまたま母が来ていた
     門脇宰相・教盛 の屋敷で再会し、母のあまりの痩せ衰えた姿に驚き悲しむのであ
     った。

 (4) 少将・成経 は、後白河院 に召し出だされて、やがて宰相(参議)の中将に昇進する
     ことになった。
     
     康頼 入道は、東山にあった自分の荒れ果てた山荘に引き籠って、苦しかった昔を
     想い、宝物集(仏教説話集)を書き綴ったということである。(康頼の墓がある。)

          ふるさとの 軒の板間の苔むして 思ひしほどは もらぬ月かな

                     "康頼"の悲しみの歌一首

第二十四句 「大塔修理」(だいたふしゅり)

2006-05-09 11:51:05 | Weblog
                老僧の告げを聞く<清盛> 奥の院の辺り

        <本文の一部>
  そもそも、平家の厳島を信じはじめられけることは、何といふに、鳥羽の院の時、太政入道(清盛)、いまだ安芸守におはしけるが、「安芸の国をもって、高野の大塔を修理せよ」とて、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌につけて、七年に修理をはんぬ。(七年を要して)

  修理をはりてのち、清盛、高野へ参り、大塔ををがみ、奥の院へ参られたりければ、いづくともなき老僧の、まゆには霜をたれ、ひたひに波をたたみ、鹿杖(かせづゑ)にすがりて出で来給へり。ややひさしう御ものがたりせさせおはします。

  「むかしよりわが山は、密宗をひかへて、いまにいたるまで退転なし。天下にまたも候はず。越前の気比の社と安芸の厳島は両界の垂迹にて候ふが、気比の社はさかえたれども、厳島はなきがごとくに荒れはてて候。大塔すでに修理をはんぬ。同じくは、このついでに奏聞して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、御辺は官加階肩を並ぶる者もあるまじきぞ」とて立て給ふ。

  この老僧のゐ給へるところに、異香薫じたり。人をつけて見給へば、三町ばかりは見え給ひて、そののちは、かき消すごとくに失せ給ひぬ・・・・・・・・・

  修理をはりてのち、清盛、厳島へ参り、通夜せられける夜の夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、「これは大明神のお使なり。なんぢ、この剣をもちて、一天四海をしづめて、朝家のまぼりたるべし」とて、銀の蛭巻したる小長刀を賜はると、夢を見て、さめてのち見給へば、うつつに枕上にぞ立ちたりける。

  さて、大明神御託宣ありて、「なんぢ知れりや。忘れりや。弘法をもって言わせしこと。ただし悪行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神はあがらせおはします。めでたかりしことどもなり・・・・・・・・・

  今度さしもめでたき御産に、大赦おこなはれたりといへども、俊寛僧都一人赦免なかりけるこそうたてけれ。(悲惨なことだ・・・)

  同じく(治承二年(1178))十二月二十四日、皇子(言仁親王)、東宮(のちの安徳帝)に立たせ給ふ。傅(すけ)には小松の大臣(おとど)、大夫には池の中納言頼盛の卿とぞ聞こえし。

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    <あらすじ>
  (1) 平家の”厳島”信奉のそもそものお話しから始まる。

      雷火により炎上した”高野山根本大塔”を修理し、この後に 清盛
     後白河院 に 奏聞して,荒れ果てた”厳島神社”の大修理を行う。

          しかし、厳島の参籠の折に、夢の中で平家滅亡を予見するような
          大明神のご託宣が語られている。

  (2) 本文中(記載を略す)には、三井寺(園城寺)の阿闍梨・頼豪の怨霊説話
      が語られる。

  (3) 治承二年(1178)、高倉帝の皇子(言仁親王)は東宮に立ち、東宮坊の東宮傅
      (東宮坊の最高官)には、重盛 が任ぜられ、東宮大夫(東宮坊の長官)には
      中納言・頼盛 が任ぜられたと、「平家物語」では伝えている。

         <史実は>東宮傅(すけ)・・・・左大臣・藤原経宗
                  東宮大夫・・・・・・・平 宗盛            とされる。                        

         

      

 

第二十三句 「御産の巻」(ごさんのまき)

2006-05-07 12:35:52 | Weblog
                   皇子ご誕生に、声を上げて泣く清盛 入道

          <本文の一部>
  同じき十一月十二日(治承二年(1178))の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿(藤原基房)をはじめたてまつりて、太政大臣(師長)以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。

 「大治二年(1127)九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。(むごいことだ)「御産平安、皇子御誕生あるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。

 全玄法印、これを承りて、敬白す。(謹んで読み上げる)
神社は大神宮をはじめたてまつりて二十余箇所、仏所は、東大寺、興福寺以下十六箇所へ御誦経あり。御誦経のお使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より東南庭をわたり、西の中門に出づ。めずらかりし見物なり・・・・・・・・

  かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ(陣痛)給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。入道相国も二位殿も胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。(呆然としていた)・・・・・・・・

  重衡の卿、そのときは、中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子御誕生候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇をはじめたてまつり、太政大臣以下の卿相すべて堂上、堂下おのおの、助修(験者の助手)、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしずまりやらざりけり。

  入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。よろこび泣きとはこれをいふべきにや・・・・・・・・・

             (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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    <あらすじ>
  第八十代・高倉帝と中宮・平徳子に皇子ご誕生のくだりです。

 (1)池殿(清森の弟・頼盛の邸)にて、中宮・徳子 の産みの苦しみの中、後白河法皇
    をはじめ関白(基房)、太政大臣(師長)などの大勢の公卿のひしめく有様が描か
    れている。

 (2)御産の平安と皇子ご誕生を願い、高僧、貴僧がうち並び各種のご祈祷を修し、
    なかんづく後白河法皇 は、中宮の錦のとばり近くに御座あって千手経を声高
    に唱えられる。

 (3)皇子ご誕生(言仁親王、のちの八十一代・安徳天皇)で、清盛 は嬉しさのあまり声を
    あげて泣き、重盛 は御産行事の祝詞とともに、”金銭”を献じ、魔除けの法などを
    行う。(”金”で鋳造した銭)

 (4)御産に六波羅に参集した人々の名が列挙されていて、関白、太政大臣、左右大臣、
    内大臣などその数三十三人であった。

 (5)清盛 は、娘・徳子 が高倉帝の中宮になられた折に、皇子に恵まれること、そして皇位
    にたてて、自らは外戚とならんことを願い、厳島の神に祈ったが遂にこれが叶うこと
    になったのである。

        ”徳子”十五歳で入内し、七年のあと二十二歳にして、当時としては遅い
         お産であり、すでに高倉帝は他の女性との間に二人の姫宮があり、
         焦りもあったであろう清盛としては本音で嬉しかったのである。