前(さきの)能登守・教経(画面左)に射落とされる佐藤三郎兵衛嗣信(画面中央右)。
(右下)の忠信に射抜かれる(下段左)の菊王丸(教経の従者)
(本文の一部)
元暦二年(1185)正月十日、九郎大夫の判官、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもって申されけ
るは、「平家は宿報つきて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落
人となれり。しかるをこの二三箇年、攻め落とさずして、おほくの国国をふさげつるこそ口惜しう候へ。
今度義経においては、鬼界、高麗、天竺,震旦までも、平家のあらんかぎりは攻むべき」よしをぞ申され
ける。
院の御所を出で、国々の兵に向かって、「鎌倉殿の御代官として、勅宣をうけたまはって、平家追討に
まかり向かふ。陸は駒の足の通はんほど、海は櫓櫂のたたんかぎりは攻むべきなり。命を惜しみ、妻子を
かなしまん人は、これより鎌倉へ下らるべし」とぞのたまひける。
屋島には、ひまゆく駒の足早め、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草暮れては、秋の風におどろき、秋の
風やんでは、春の草になれり。送り迎へて三年にもなりぬ。しかるを、「東国の兵ども攻め来たる」と聞こえ
しかば、男女の公達さし集まって泣くよりほかのことぞなき。
同じく二月十三日、都には二十二社の官幣あり。これは「三種の神器、事ゆゑなく都へ返し入れ給へ」との
御祈念のためとぞおぼえたる。同じく十四日、三河守範頼、平家追討のために七百余艘の船に乗って、摂津
の国神崎より山陽道を発向す。九郎大夫判官、二百余艘の船に乗りて、当国渡辺より南海道へおもむく。
同じく十六日卯の刻、渡辺、神崎にて日ごろそろへたる船のともづな今日ぞ解く。風枯木を折って吹くあひだ、
波蓬莱のごとく吹きたて、船を出だすにおよばず。あまつさへ大船どもたたき破られて、修理のためにその日
はとどまる。
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<あらすじ>
(1) 平家攻略に手をこまねく兄・源範頼の遠征を“手ぬるい”と批判した弟・義経は、元暦二年(1185)二月、
摂津国渡辺からニ百余艘の船で南海道(紀伊~四国)へ向かった。
(2) 船戦(ふないくさ)の戦法で“逆櫓”を進言する梶原景時と、これに反対する源義経は対立し、「他の船は
知らず、自分の船には“そんなもの”を付けてはならぬ!」と言い放つ。
(3) 強風で荒れる海の中、義経は船を出すことを命じ、結局二百余艘の船のうち五艘のみが進発し、僅か
四~五時間で阿波(徳島)の勝浦に着くという強行ぶりであった。
夜が明け、敵の襲来を察したか平家側では赤旗の“のぼり”を上げるが、義経たちを見て五十騎ばかり
が退却する。この中の阿波(徳島)の板西(ばんざい)の武者一人を降参させて、土地の状況や平家側の
様子を聞き出した上で、平家に組する桜間(さくらば)の能遠(よしとう)を討ち取り軍神に備えるのであった。
(4) 二月十八日、源義経勢は一斉に白旗の“のぼり”を上げて岸辺に寄せる、これを見た平家側は慌てて
船を海に下し、安徳帝や女院、女房などそして宗盛や武将たちが乗り移り漕ぎ出した。
義経は真っ先に進んで名乗りを上げ、平家側は大将(義経)を射倒そうと一斉に弓を射る。
(5) 激しい合戦のさ中、前(さきの)能登守・教経の従者である“菊王丸”(18歳)の討死。さらには源義経の
従者“佐藤三郎兵衛嗣信”(28歳)の討死があり、親しく仕えた家来の死によって、その主はいずれも最前
線から身を退くと云うエピソードが挟まれ、武家社会の歴史の中で主従の“一心同体”の人間関係をあら
わす逸話として語られている。
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こちらのエントリでは説明が割愛となっていますが義経の兵力は最小限、彼はここでも大松明…三草山夜討ちと同じ戦術をとります。「在家に火をかけて」平家を威嚇するのです。