配所に近い熱田神宮に参詣した前太政大臣・藤原師長は、威儀を正
して琵琶の秘曲を次々に弾き詠い、明神への法楽供養を行う。
前庭には、村人や猟師など老若男女が集まり、たゞ頭を垂れて聞き
惚れている。
<本文の一部>
さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめて、みな追籠めたてまつる。なかにも摂政殿をば太宰帥にうつして、鎮西へ流したてまつる・・・・・・
また、前関白松殿(藤原基房)の侍に江の大夫の判官遠業といふ者あり。これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉家業うち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山にうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐頼朝をたのばやとは思へども、それも当時は勅勘の人の身にて、身ひとつにもかなひがたうおはすなり・・・・・六波羅より召しつかひあらば、腹かき切って死なんにはしかじ」とて、瓦坂の宿所へとって返す。
さるほどに、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂の宿所に押し寄せて、鬨をどっとぞつくりける。江の大夫判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら、六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切って、父子ともに焔のなかにて焼け死にぬ・・・・・・・・
同じき二十日、院の御所法住寺殿へは、軍兵四面をうちかこむ。「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。法皇も大きにおどろかせおはします・・・・・・・・
さて御車に召されけり。公卿、殿上人、一人も供奉せられず。北面の下臈、金行と申す力者ばかりぞ参りける。車の尻に尼御前一人参られたり。この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 治承三年(1179)十一月十六日、清盛は院側近の公卿を含め四十三人(三十九人
とも)を解官し、摂政殿基房)を鎮西(九州)へ流罪とした。 この清盛のやり方に官
職はみな呆然としたのであった。
(2) 太政大臣・師長は尾張へ流されて、近くの三ノ宮・熱田神宮に参詣し、歌舞を捧げる。
(3) 大江遠業(基房の侍)と子息・家業の父子は、平家勢の前で屋敷に火を放って壮絶
な死(切腹)を遂げる。
(4) 同年十一月二十日、院の御所・法住寺殿を平家の軍兵が取り囲み、後白河院を城
南の離宮・鳥羽殿へ幽閉してしまう。(清盛のクーデターである。)
(5) 故少納言入道・信西の子息・静憲法印は許しを得て、鳥羽殿の法皇の御前に伺候
するが、法皇は食事もとらず、夜もお寝みにならず・・・・と、お側の尼御前の話に
涙をおさえるのであった。
(6) 高倉帝は、関白を流され多くの近臣を失ったばかりか、父の法皇をも鳥羽殿に押し込
められた心痛に、これ又食事もとらず、夜もお寝みにならぬていにて、たゞ清涼殿で
伊勢の大神を参拝するばかりであった。そして密かに内裏より鳥羽殿へ御書があり、
「帝位に留まっても何もならないご時世では、隠棲したい」との高倉帝の意向に、驚い
た法皇は、「そのように思ってはなりません、帝位にあることが、私の唯一の頼りであ
り、この先を見届けて欲しい」と、急ぎ返書をおくられるのであった。
このように『巻第三』では、さすがの蜜月関係にあった後白河院 と平 清盛 との
間も、次第に対立確執が深まっていくさまを描いている。
して琵琶の秘曲を次々に弾き詠い、明神への法楽供養を行う。
前庭には、村人や猟師など老若男女が集まり、たゞ頭を垂れて聞き
惚れている。
<本文の一部>
さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめて、みな追籠めたてまつる。なかにも摂政殿をば太宰帥にうつして、鎮西へ流したてまつる・・・・・・
また、前関白松殿(藤原基房)の侍に江の大夫の判官遠業といふ者あり。これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉家業うち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山にうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐頼朝をたのばやとは思へども、それも当時は勅勘の人の身にて、身ひとつにもかなひがたうおはすなり・・・・・六波羅より召しつかひあらば、腹かき切って死なんにはしかじ」とて、瓦坂の宿所へとって返す。
さるほどに、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂の宿所に押し寄せて、鬨をどっとぞつくりける。江の大夫判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら、六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切って、父子ともに焔のなかにて焼け死にぬ・・・・・・・・
同じき二十日、院の御所法住寺殿へは、軍兵四面をうちかこむ。「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。法皇も大きにおどろかせおはします・・・・・・・・
さて御車に召されけり。公卿、殿上人、一人も供奉せられず。北面の下臈、金行と申す力者ばかりぞ参りける。車の尻に尼御前一人参られたり。この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
(1) 治承三年(1179)十一月十六日、清盛は院側近の公卿を含め四十三人(三十九人
とも)を解官し、摂政殿基房)を鎮西(九州)へ流罪とした。 この清盛のやり方に官
職はみな呆然としたのであった。
(2) 太政大臣・師長は尾張へ流されて、近くの三ノ宮・熱田神宮に参詣し、歌舞を捧げる。
(3) 大江遠業(基房の侍)と子息・家業の父子は、平家勢の前で屋敷に火を放って壮絶
な死(切腹)を遂げる。
(4) 同年十一月二十日、院の御所・法住寺殿を平家の軍兵が取り囲み、後白河院を城
南の離宮・鳥羽殿へ幽閉してしまう。(清盛のクーデターである。)
(5) 故少納言入道・信西の子息・静憲法印は許しを得て、鳥羽殿の法皇の御前に伺候
するが、法皇は食事もとらず、夜もお寝みにならず・・・・と、お側の尼御前の話に
涙をおさえるのであった。
(6) 高倉帝は、関白を流され多くの近臣を失ったばかりか、父の法皇をも鳥羽殿に押し込
められた心痛に、これ又食事もとらず、夜もお寝みにならぬていにて、たゞ清涼殿で
伊勢の大神を参拝するばかりであった。そして密かに内裏より鳥羽殿へ御書があり、
「帝位に留まっても何もならないご時世では、隠棲したい」との高倉帝の意向に、驚い
た法皇は、「そのように思ってはなりません、帝位にあることが、私の唯一の頼りであ
り、この先を見届けて欲しい」と、急ぎ返書をおくられるのであった。
このように『巻第三』では、さすがの蜜月関係にあった後白河院 と平 清盛 との
間も、次第に対立確執が深まっていくさまを描いている。