* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九十句「小宰相身投ぐる事」(こざいしょうみなぐること)

2011-05-16 09:11:21 | 日本の歴史

   海へ身を投げた“小宰相”を引き上げ、嘆き悲しむ平家の人々

<本文の一部>

 平家はいくさ敗れければ、先帝をはじめたてまつり、人々船にと
り乗って、海にぞ浮かび給ひける。あるいは芦屋の沖に漕ぎ出で
て波にただよふ船もあり、あるいは淡路の瀬戸を押し渡り、島がく
れゆく船もあり。いまだ一の谷の沖にただよふ船もあり。

 浦々、島々おほければ、たがひに生き死にを知りがたし。平家、
国をなびかすことも十四か国、勢のしたがふことも十万余騎、都へ
近づくことも、思へばわずかに一日の道なり。

 今度「さりとも」と思はれつる一の谷をも落されて、心細うぞなり給ふ。
海に沈み死するは知らず、陸にかかりたる首の数、「二千余人」
とぞ記されたる。一の谷の小笹原、緑の色もひきかへて、薄紅にぞ
なりにける。

 このたびの合戦に討たれ給ふ人々、越前の三位通盛、但馬守
経正、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、
若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、以上十人
のしるし、都へ入る。越前の前司盛俊が首も都へ入る。

 本三位の中将重衡は、生捕にせられて、わたされ給へり。
母二位殿、これを聞き給ひて、「弓矢取りの討死することは、つね
のならひなり。重衡は、今度生捕りにせられて、いかばかりのこと
を思ふらん」とて泣き給へば、北の方大納言の典侍も、「さまを変
へん」とのたまひけるを、「内の乳母にてまします、さればとて、」
いかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき」とて、二位殿制し給ひけれ
ば、力におよばず、明かし暮らし給ふなり。・・・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 「一の谷」の合戦に敗れた平家は、安徳帝をはじめ、皆船に乗
  り移り、瀬戸内に浮かび沖に漂う有様となった。
       討たれた主な武将達は・・・・・・・・

  越前の三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、武蔵守知章
  備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人
  大夫業盛、大夫敦盛、そして越中の前司盛俊ら・・・・・・
    これらの人々首が都に入った。

(2) 本三位の中将・平重衡は、捕えられて都大路を引き回され、
  北の方の大納言の典侍(すけ)(上級の女官)は、出家しようとす
  るが、(安徳帝)の乳母(めのと)という立場から、平時子(清盛
  夫人)に留められて泣き伏すのであった。

(3) 越前の三位通盛の配下の郡田時員(ときかず)は、通盛の最後
  の様子を北の方(藤刑部卿憲方の娘)に伝え、北の方はそれを
  聞き嘆き悲しむ。

(4) 二月十三日(寿永三(1184))の夜半のこと、乳母女房の心配を
  「いくら悲しくても、死ぬことはしません・・・」とウソを言って安心さ
  せて共に寝み、寝静まった頃を見計らって静かに起き上がり、
  絃(ふなばた)に出て天を仰ぎ、やがて手を合わせ念仏を唱え
  「亡き夫もろとも、一つの蓮の台(うてな)の上に迎え取らせ給え」
  と念じ、「南無」の声と共に“入水”を遂げたのであった。

(5) 夜半のことゝて、皆寝入っていて気付かなかったが、梶取りの
  一人が入水の様子を見つけて、大声を上げたゝめ、たくさんの
  人が水の中に潜り長い時間をかけて、ようやく引き上げたたが、
  時遅くすでに事切れていたのであった。
    今の平家は、落ち行く当てもなく止むを得ず、夫の通盛
  残した“”を絹の織物の上から着せて、再び海の中へと沈め
  たのである。

(6)  残された乳母女房は、たいそう悲しみ北の方を追って海に
  入り“殉死”しようとしたが、皆に止められて泣きながら自らの髪
  をおろし、中納言律師忠快(通盛の弟)により“戒”を授けられる
  のであった。

    句末に、上西門院(鳥羽院皇女・統子)に仕えていた小宰相
   と、通盛の“なれそめ”のエピソードが記されている。