* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十一句「高倉の院崩御(ほうぎょ)」

2006-11-19 15:52:44 | 日本の歴史

     左上に、悲しみの歌を詠む”澄憲法印”、下に見える一群の人々は
     東山々麓の「清閑寺」での葬送に連なった、白無垢の浄衣の廷臣。
     「上皇(きみ)は、まだ二十一歳とか、お若い身空(みそら)にて
       春秋を終えられるとは、あまりにもお名残惜しい・・・

  <本文の一部>
 治承五年正月一日、内裏には、東国の兵革(ひょうがく)、南都の火災によって
主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。藤氏の公卿一人も参ら
れず。氏寺(興福寺)焼失によってなり。

 二日、殿上の淵酔(歌舞・酒宴)もなし。吉野の国栖(大和国吉野郡の原住民)も
参らず。男女うちむせびて、禁中いまいましくぞ見えける。仏法、王法ともに尽
きぬることぞあさましき。

 法皇仰せなりけるは、「四代の帝王、思へば子なり、孫なり。いかなれば政務
 をとどめられて、年月をおくるらん」とぞ御嘆きありける。

 五日、南都の僧綱等解官せられ、公請停止(こうしょうちょうじ)、所職を没収
せらる。衆徒は、老いたるも、若きも、あるいは射殺され、あるいは切り殺され、
焔のうちを出でず、煙にむせび、おほく滅びしかば、わずかに残るともがらは、
山林にまじはって、跡をとどむるは一人もなし・・・・・・

 上皇(高倉)は、去々年法皇(後白河)の鳥羽殿におし籠められさせ給ひし御こと、
高倉の宮の討たれさせ給ひし御ありさま、都遷しとてあさましかりし天下の乱れ、

か様の御ことども心ぐるしうおぼしめしけるより、御脳つかせ給ひて、つねは御
わずらはしく聞こえさせ給ひしが、東大寺、興福寺の滅びぬるよし聞こしめして
よりは、御脳いよいよおもらせ給ふ・・・・・・

         (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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   <あらすじ>

(1)治承五年(1181)元旦、”源頼朝”の挙兵、富士川の合戦などの戦乱や
   戦乱による南都諸寺の焼失などによって、内裏で殿上人以上の拝賀を
   受ける”小朝拝”が取り止めになる。

(2)宮中での舞楽・酒宴もなく、うち沈み、”後白河法皇”は、”清盛
   によって、院政を執行できずにいる現状を嘆かれる。

(3)正月五日、南都の高僧たちの役職が免ぜられ、諸寺の焼失から辛うじ
   て逃れた僧たちも、山に身を隠してしまっていた。
    興福寺(摂関家・藤原氏の氏寺)の別当、永縁僧正はあまりのひどさ
   に、病につき遂に亡くなってしまった。

(4)高倉上皇は、数々の騒動など天下の乱れに、心痛のあまり病重くなり
   ついに正月十四日、崩御された。
    御年二十一歳、人々が、その優雅なお人柄をお慕いすることは、醍
   醐帝や村上帝に勝るとも劣らないだろうと、噂されたものであった 

(5)”澄憲法印”は、御葬送に参列しようと急いで山を下りたが、すでに
   むなしく煙となられるを見て、

    つねに見し 君が御幸(みゆき)を 今日とへば
             かへらぬ旅と 聞くぞかなしき

    ・・・・と、悲しみの歌を詠むのであった。