父・大納言成親の墓所にぬかずく少将成経 たち、松木立の中に
ひっそりと土を小高く盛ってある
<本文の一部>
さるほどに、ことしも暮れて、治承も三年(1179)になりにけり。正月下旬に、丹羽の少将成経、肥前の国桛(かせ)の荘をたって、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ(二月)十日ころにぞ備前の児島に着き給ふ。
それより父大納言の住み給ひける所をたずね入りて見給ふに、竹の柱、古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみ(あと)を見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手をも見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年(1177)七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。
そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし。」とも書かれたり。この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。
その墓をたずね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ承りて候ひしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候ひしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。
まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。苔の下にには、誰かはこととふべき。ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。
その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫をさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒都婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 中宮・徳子 の皇子ご誕生祈願の大赦によって、罪を免ぜられ都に召しかえされる
途中、非業の死を遂げた、父・大納言 成親 の墓を訪れて(二月十日ころ)、墓の形
も無いような粗末な土盛りを直して、壇を築き経を書き卒塔婆を立てて七日七晩供
養を行ったのである。
(2) やがて三月十六日、少将・成経 と康頼 入道の二人は鳥羽に帰り着き、父・大納言の
かつての山荘をたずねる。栄華を誇った邸もいまは人影も無く、屋敷は荒れ果てゝ
尽きせぬものは涙ばかりであった。
(3) そうこうしている内に、都から迎えの乗り物が来て、成経 は、たまたま母が来ていた
門脇宰相・教盛 の屋敷で再会し、母のあまりの痩せ衰えた姿に驚き悲しむのであ
った。
(4) 少将・成経 は、後白河院 に召し出だされて、やがて宰相(参議)の中将に昇進する
ことになった。
康頼 入道は、東山にあった自分の荒れ果てた山荘に引き籠って、苦しかった昔を
想い、宝物集(仏教説話集)を書き綴ったということである。(康頼の墓がある。)
ふるさとの 軒の板間の苔むして 思ひしほどは もらぬ月かな
"康頼"の悲しみの歌一首
ひっそりと土を小高く盛ってある
<本文の一部>
さるほどに、ことしも暮れて、治承も三年(1179)になりにけり。正月下旬に、丹羽の少将成経、肥前の国桛(かせ)の荘をたって、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ(二月)十日ころにぞ備前の児島に着き給ふ。
それより父大納言の住み給ひける所をたずね入りて見給ふに、竹の柱、古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみ(あと)を見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手をも見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年(1177)七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。
そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし。」とも書かれたり。この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。
その墓をたずね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ承りて候ひしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候ひしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。
まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。苔の下にには、誰かはこととふべき。ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。
その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫をさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒都婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
(1) 中宮・徳子 の皇子ご誕生祈願の大赦によって、罪を免ぜられ都に召しかえされる
途中、非業の死を遂げた、父・大納言 成親 の墓を訪れて(二月十日ころ)、墓の形
も無いような粗末な土盛りを直して、壇を築き経を書き卒塔婆を立てて七日七晩供
養を行ったのである。
(2) やがて三月十六日、少将・成経 と康頼 入道の二人は鳥羽に帰り着き、父・大納言の
かつての山荘をたずねる。栄華を誇った邸もいまは人影も無く、屋敷は荒れ果てゝ
尽きせぬものは涙ばかりであった。
(3) そうこうしている内に、都から迎えの乗り物が来て、成経 は、たまたま母が来ていた
門脇宰相・教盛 の屋敷で再会し、母のあまりの痩せ衰えた姿に驚き悲しむのであ
った。
(4) 少将・成経 は、後白河院 に召し出だされて、やがて宰相(参議)の中将に昇進する
ことになった。
康頼 入道は、東山にあった自分の荒れ果てた山荘に引き籠って、苦しかった昔を
想い、宝物集(仏教説話集)を書き綴ったということである。(康頼の墓がある。)
ふるさとの 軒の板間の苔むして 思ひしほどは もらぬ月かな
"康頼"の悲しみの歌一首