* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二十五句 「少将帰洛」

2006-05-11 14:36:03 | Weblog
           父・大納言成親の墓所にぬかずく少将成経 たち、松木立の中に
           ひっそりと土を小高く盛ってある

             <本文の一部>

  さるほどに、ことしも暮れて、治承も三年(1179)になりにけり。正月下旬に、丹羽の少将成経、肥前の国桛(かせ)の荘をたって、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ(二月)十日ころにぞ備前の児島に着き給ふ。

  それより父大納言の住み給ひける所をたずね入りて見給ふに、竹の柱、古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみ(あと)を見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手をも見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年(1177)七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。

  そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし。」とも書かれたり。この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。

  その墓をたずね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ承りて候ひしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候ひしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。

  まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。苔の下にには、誰かはこととふべき。ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。

  その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫をさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒都婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり・・・・・・・・

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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     <あらすじ>
 (1) 中宮・徳子 の皇子ご誕生祈願の大赦によって、罪を免ぜられ都に召しかえされる
     途中、非業の死を遂げた、父・大納言 成親 の墓を訪れて(二月十日ころ)、墓の形
     も無いような粗末な土盛りを直して、壇を築き経を書き卒塔婆を立てて七日七晩供
     養を行ったのである。

 (2) やがて三月十六日、少将・成経康頼 入道の二人は鳥羽に帰り着き、父・大納言の
     かつての山荘をたずねる。栄華を誇った邸もいまは人影も無く、屋敷は荒れ果てゝ
     尽きせぬものは涙ばかりであった。

 (3) そうこうしている内に、都から迎えの乗り物が来て、成経 は、たまたま母が来ていた
     門脇宰相・教盛 の屋敷で再会し、母のあまりの痩せ衰えた姿に驚き悲しむのであ
     った。

 (4) 少将・成経 は、後白河院 に召し出だされて、やがて宰相(参議)の中将に昇進する
     ことになった。
     
     康頼 入道は、東山にあった自分の荒れ果てた山荘に引き籠って、苦しかった昔を
     想い、宝物集(仏教説話集)を書き綴ったということである。(康頼の墓がある。)

          ふるさとの 軒の板間の苔むして 思ひしほどは もらぬ月かな

                     "康頼"の悲しみの歌一首