* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第六十一句『平家北国下向』(へいけほくこくげかう)

2008-11-24 16:15:36 | 日本の歴史

                      源頼朝と木曾義基(義仲の嫡男)との対面(画面の左端に義基)

 <本文の一部>

  寿永二年(1183)二月二十二日、主上(安徳天皇)は朝覲のために、法住寺殿
 へ行幸なる。鳥羽の院六歳にて、朝覲の行幸あり、その例とぞ聞こえし。

  同じく二十三日、宗盛従一位し給ふ。同じく二十七日、内大臣を辞し申さる。
 これは兵乱のためなり。

  南都、北京の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮にいたるまで、一向平
 家をそむき、源氏に心を通じけり。四方へ宣旨をなしくだし、諸国へ院宣をつか
 はすも、みな平家の下知とのみ心得て、したがひつく者なかりけり。

  そのころ、木曾と兵衛佐と不快のこと出で来たる。兵衛佐、「木曾を討たん」と
 て、六万余騎をあひ具して、信濃の国へ発向す。木曾これを聞き、乳人子の今
 井の四郎兼平をもって、「なにによってか義仲を討たんとは候ふやらん。ただし、
 十郎蔵人殿こそ、それを恨むることあって、これにおはしたるを、義仲さへ情なく
 もてなし申さんこといかんぞや。されば当時はうち連れてこそ候へ。このほか意趣
 あるべしとも覚えず。なにゆゑ、今日、明日仲違はれたてまつり、合戦し、平家に
 笑はれんとは存ずべく候ふ」と言ひやりければ、兵衛佐、「今こそかくはのたまへ
 ども、頼朝討たるべきよし『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ。それ
 によるまじ」とて、討手の一陣をさし向けられければ、木曾、「真実に意趣なき」よ
 しをあらはさんがために、嫡子清水の冠者義基とて、生年十一歳になる小冠者
 に、海野、望月、諏訪、藤沢以下の兵ども、そのほかあまたつけて、兵衛佐のも
 とへつかはす。兵衛佐、「このうへは意趣なし」とて、清水の冠者あひ具して、鎌
 倉へこそ帰られけれ。

  木曾はやがて越後の国へうち越えて、城の四郎と合戦す。いかにもして討ち
 取らんとしけれども、長茂主従五騎に討ちなされ、行きがた知らずぞ落ちにける。
 越後の国をはじめて、北陸道の兵みな木曾にしたがひつく。木曾は東山・北陸、
 両道をうちしたがへて、「ただいま都へ攻め入るべし」とぞ聞こえける。  

  平家は、「今年よりも、明年は、馬の草飼ひにつけて合戦すべき」と披露せられ
 たりければ、南海、西海、山陰、山陽の兵ども、雲霞のごとく馳せ上る。東海道
 にも、遠江の国より東こそ参らざれ、相模の国の住人俣野の五郎景久、伊豆の
 国の住人伊東の九郎祐澄、武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、平家方
 にぞ侍ひける。東山道にも、近江、美濃、飛騨の者参りたり・・・・・・

  平家、まづ北国へ討手をつかはすべき評定あり。すでに討手をつかはす。
 大将軍には、小松の三位の中将維盛、副将軍には、越前の三位通盛、小松の
 少将有盛、丹後の侍従忠房、左馬頭行盛、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登
 守教経、三河守知盛。侍大将には、上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官
 景高、河内の判官季国、高橋の判官長綱、越中の前司盛俊、同じく三郎兵衛
 盛嗣、武蔵の三郎左衛門有国、俣野の五郎景久、伊東の九郎祐澄、長井の
 斎藤別当実盛、悪七兵衛景清を先として、都合その勢十万余騎、寿永二年四
 月十七日の午の刻に都をたって、北国へぞおもむきける。

  ・・・・・なかにもしろくも皇后宮亮経正は、詩歌管弦に長じ給へる人なれば、
 かかる乱れのなかにも心をすまし、湖の水際にうち出でて、漫々たる沖に小島
 の見えけるを、藤兵衛尉有範を召して、「あれはいかなる島ぞ」と問ひ給へば、
 「あれこそ聞こえ候ふ竹生島」と申す・・・・・・・

  経正、明神の御前にに、つひひざまづいて、「それ大弁功徳天は、往古の如
 来、法身の大身なり。弁才、妙音名は格別なりといへども、本地一体にして衆生
 を済度し給ふ。参詣の輩は所願成就円満すと受けたまはる。頼もしうこそ候へ」
 とて法施参らせて・・・・・・

  ・・・・・・・経正これを見てうれしさのあまりに、しばらく撥をさしおき目をふさぎ、
     “ちはやぶる神に祈りのかなへばや  しろくも色にあらはれにけり”
 されば「怨敵をまなこのまへに退け、凶徒をただいま落さんこと、疑ひなし」と、
 よろこんで、また船に乗り、竹生島を出でられたり。

            (注) カッコ内は本文ではなくて、注釈記入です。
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 <みな平家に背き、源氏に味方する

 (1) 奈良や比叡山、熊野・吉野の僧徒、伊勢の大神宮まで平家に背いて源氏
       に味方したため、諸国に院宣(上皇または法皇の命令)を出すものゝ、みな
   平家の指令にすぎないと従わなかったという。

 <義仲と頼朝の不和、嫡男を差し出す

 (1) この頃、木曾義仲と源頼朝が仲違いとなり、頼朝義仲を討とうと信濃の国
   へ向う。これを聞いた義仲は「源氏同士が争って平家の笑いものになるよう
   なことはしない」と申し出るが、頼朝はこれを信用せず、討手の一陣をさし向
   ける。(本文中の“兵衛佐”とは、頼朝をさす。)
 (2) 義仲は、恨みを含むものゝ無いことを表すために、嫡男の義基(十一歳)を
   頼朝のもとへ送る。(百二十句本=義基、絵巻=義重と表記)   
         さすがに頼朝も、これを受け入れて鎌倉へ連れて帰った。

 <平家は、北国へ討手の大軍を遣わす

 (1) 義仲は、越後の豪族・城の四郎長茂を討ち、越後をはじめ北陸道の兵達は
   みな木曾に従い、今にも都へ攻め入るのではないかとの噂が立った。
 (2) 平家は先ず、北国へ討手を向けるため、大将軍に三位中将・維盛、副将軍
   には三位・通盛、少将・有盛、皇后宮亮・経正、薩摩守・忠度など。侍大将に
   越中の前司・盛俊、俣野の景久、伊東の祐澄、斎藤別当実盛など錚々たる
   陣容をたて、寿永二年(1183)四月十七日、都をたって北国へ向かうのであ
   った。(皇后宮亮=こうごうぐうのすけ)

 <経正、竹生島で琵琶を奏す

 (1) 琵琶の名手として名高い“経正”は、竹生島の社で琵琶を奉納する。
      
     
      俣野の五郎景久:石橋山の合戦で、頼朝の従者・真田義忠を討った。
                                      (大庭景親の弟)石橋山の合戦では、頼朝側は惨
                 敗し、真鶴半島の“しとどの岩屋”に隠れ潜み命か
                 らがらこの後、上総へ落ち延びる。                     

      伊東の九郎祐澄:父の伊東祐親は、平家側の武将として石橋山に
                 頼朝を攻めて後に捕らわれ、誅殺されるところ
                 娘婿などの助命嘆願により一命は許されるものゝ、
                 これを潔良しとせず自刃する。
                  祐澄は姉八重姫との仲をとりもち、頼朝をかば
                 ったことがあり、後に頼朝に招かれたが、平家の
                 義に殉じた。

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