* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第四十八句「富士川」

2006-08-12 15:17:15 | 日本の歴史

      富士川で、水鳥の羽音に驚き逃げまどう”平家の軍勢”

  <本文の一部>

  さるほどに、平家の人々は、九重の都をたって、千里の東海におもむき給ふ。
たひらかに帰りのぼらんこともあやふきありさまどもにて、あるいは野原の露に
宿をかり、あるいは高嶺の苔に旅寝して、山を越え、川をかさね、日数を経れば、
 十月十六日には、平家駿河の国清美が関にぞ着き給ふ。

 都を三万余騎にて出でしかども、路次の兵ども召し具して、七万余騎とぞ聞こ
えし。先陣はすでに蒲原、富士川にすすめども、後陣はいまだ手越、宇津の谷に
ささへたり・・・・・・

 かかつしほどに(一方では)、兵衛佐(頼朝)、足柄山をうち越えて、駿河の国
木瀬川(黄瀬川)にこそ着き給へ。信濃の源氏ども馳せ来りて一つになる。
浮島が原にて瀬ぞろひあり。二十万騎とぞ注されたる・・・・

 大将軍小松の権亮少将(維盛)、東国の案内者とて、長井の斉藤別当を召し、
「やや、実盛。なんぢほどの強弓精兵、坂東にはいかほどあるぞ」とのたまへば、
実盛あざ笑ひて申しけるは、「さては、それがしを大矢とおぼしめし候ふか。わ
づかに十三束こそつかまつり候へ。実盛ほど射候ふ者は、坂東にはいくらも候。

 大矢と申す定の者、十五束に劣って引くは候はず。弓の強さも、したたかなる者
五六人して張り候。かかる精兵どもが射候へば、鎧二三領もかさねて、やすう射と
ほし候ふなり。大名一人には、勢の少なき定、5百騎には劣り候はず。馬に乗りつ
れば、落つる通を知らず。悪所を馳すれども、馬を倒さず。いくさはまた、親も討
たれよ、子も討たれよ。死すれば、乗りこえ、乗りこえ戦ひ候。西国の戦と申すは、
親討たれぬれば、孝養し、忌はれて寄せ、子討たれぬれば、その思ひ嘆きに寄せず
候。夏は暑しといとひ、冬は寒しときらひ候。東国にはすべてその儀候はず云々

と申しければ、兵どもこれを聞いて、みなふるひわななきあへり。

 さるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日源平富士川にて矢合せとぞ定めける。
夜に入って平家方より源氏の陣を見わたせば、伊豆、駿河の人民どもが、いくさに
おそれて、あるいは野に入り、あるいは山にかくれ、あるいは船に乗り、海川に浮
かび、いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、「あな、おびたたしの源氏の陣
のかがり火や。げに、野も、山も、海も、川も敵にてありけり。いかにせん」とぞ
さわぎける。

 その夜の夜半ばかりに、富士の沼にいくらも群れゐたりける水鳥どもが、なにに
かおどろきたりけん、ただ一度にばっと立ちたる羽音の、大風いかづちなんどのや
うに聞こえけるを、「すはや、源氏の大勢、実盛が申しつるにたがはず、さだめて
搦手にもやまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張の須
俣をふせげや」とて、取る物も取りあへず、「われさきに」とぞ落ちゆきける。

 あまりにあわてさわぎ、弓取る者は矢を知らず(矢の在りかが判らない)、人の馬
にはわれ乗り、わが馬をば人に乗られ、あるいはつなぎたる馬に乗りて走れども、
くひぜをめぐる(杭の周りをぐるぐる回る)ことかぎりなし。

 宿々より迎へとりて遊びける遊君、遊女ども、あるいは頭をふみ割られ、あるいは腰をふみ折られ
さけびおめく者もあり。

 二十四日の卯の刻(午前六時ころ)に、源氏の大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天もひびき
大地もうごくほど、鬨を三度つくりけれども、平家の方には音もせず・・・・・・

 海道、宿々・・・・落書どもおほかりけり。

   ひらやなる むねもりいかに さわぐらん 柱とたのむ すけをおとして
    (平家)     (宗盛)                          (維盛)

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   <あらすじ>

(1) 都を立った平家軍勢の人々は、野山に伏し、幾つもの川を渡って十月十六日、駿河国
   清見が関に着く。(静岡県・清水)
    途中で参加の軍兵を合わせて七万余騎の大軍に膨れ上がっていた。

(2) 坂東八箇国の兵は、みな 頼朝 に従っているとの話で、何十万騎か判らない。当平家の
   の軍勢は諸国からかり集めた武者であり、しかも皆疲れ果てているので、富士川で見方の
   軍勢の到着を待つこととなった。

(3) 一方、頼朝 勢は、足柄山を越えて駿河国・黄瀬川に着き、信濃の源氏なども馳せ来たっ
   て、その勢”二十万騎”と記されている。

(4) 平家の陣では、大将の 平維盛 の問いに答えて 斉藤実盛 (豪の者)は、「西国の武者に
   較べて、東国の武者のきわだった精兵・勇猛さ」を述べると、これを聞いた平家の兵たちは
   ふるえあがった、と云う。

(5) 十月二十三日夜半、沼にたくさん群がっていた水鳥が、何に驚いたのか”いっせい”に飛
   び立ち、その羽音のすさまじさに平家の兵たちは、すわ!源氏の大軍の攻撃!っとばかり
   に、あわてふためき、呼び寄せていた遊び女の頭を踏み割るは、腰を踏み折るはの大混乱
   となって、散りじりに都へ向けて逃げ去ってしまった。

(6) 十月二十四日夕方、源氏の大軍勢が富士川に押し寄せて、鬨の声を上げるも、平家の軍
   勢は一人もおらず逃げ散ってしまっていた。

(7) 頼朝 は、駿河の国を一条次郎忠頼(甲斐源氏)に、遠江の国を安田三郎義定(甲斐源氏)
   に預け、背後にも不安があるとして、平家を追わず鎌倉へと一旦引き上げるのであった。

(8) 海東や宿々の人々は、戦もしないで都に逃げ帰った”平家”勢を笑い、「落書」の類が巷に
   貼りだされる始末であった・・・。

   ひらやなる むねもりいかに さわぐらん 柱とたのむ すけをおとして
    (平家)     (宗盛)                          (維盛)

   富士川の 瀬々の岩こす 水よりも はやくもおつる 伊勢平氏かな
   
   
富士川に 鎧は捨てつ 墨染めの 衣ただきよ 後の世のため

                              (上総守忠清)

(9) 十一月八日、大将の”維盛”は福原へ帰り着いたが、”清盛”は「維盛を重き流罪に、忠清
   をば死罪にせよ!」と怒った。

     平家重臣の”平盛国”は、「忠清は、臆病者ではありません、この度の失敗はよくよくのこと
   があったのでしょう」と、とりなしたと云う。

       (注) 良く言われる「坂東」とは、一般的に・・・

              ”足柄峠” 、 ”碓氷峠”から東の地域とされています。


 


第四十七句「平家東国下向」(へいけとうごくげかう)

2006-08-11 16:13:51 | 日本の歴史

       行進する平家の軍勢、三条の大路は見物人が群がり、
       町民は熱狂している。
       (画面左、弓を手にするのが”維盛”)

   <本文の一部>

さるほどに、福原には、「頼朝に勢のつかぬさきに、いそぎ討手を下すべし」
とて、公卿僉議ありて、大将軍には、入道の孫小松の権亮少将(ごんのすけし
ょうしょう)維盛、副将軍には薩摩守忠度(清盛の末弟)、都合その勢三万余騎、
九月十八日福原の新都をたつ。十九日に旧都に着き、やがて二十日東国へぞ
うちたたれ
ける。

 大将軍小松の権亮少将は、生年二十三、容儀帯佩絵にかくとも筆もおよび
がたし。重代の鎧「唐皮」といふ着背長(大鎧)を、唐櫃に入れて舁かせらる。
赤地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗
り給へり。

 副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、黒き馬のふとく
たくましきに、沃懸地の鞍置いて乗り給へり。馬、鞍、鎧、太刀、刀にいたる
まで、てりかがやくほど、いでたたれたりしかば、めでたき見物なり。

 忠度は、年ごろ宮腹の女房のもとへ通はれけるが、ある夜おはしたりけるに、
その女房のもとへやんごとなき女房、客に来たり、ややひさしう物語りし給ふ。

 小夜もはるかにふけぬれども、客帰り給はず。忠度軒ばにしばしはただよひ
て、扇をしたひ使ひければ、宮腹の女房、「野もせにすだく虫の音」と優にや
さしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて扇を使ひやめて帰られけり・・・・・

 九月二十二日、新院また厳島へ御幸なる。御供には前の右大将宗盛・・・・
安芸守在綱とぞ聞こえし。・・・・・

 去んぬる三月にも御幸あって、そのゆゑにや、半年ばかりは静かにして、
法皇も鳥羽殿より還御なんどありしが、去んぬる五月、高倉の宮の御謀叛によ
り、うちつづきしずまりやらず、逆乱の先表しきりにしげし。地妖つねにあっ
て、朝静かならざつしかば、ことに天下静謐の御祈念、別しては聖体不予の御
祈祷のためなり。今度は色紙に墨字の法華経を書写し供養せらる。御願文の御
自筆の草案あり。摂政殿(藤原基通)清書ありけるとぞ承る。・・・・

      (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。 
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        <あらすじ>

 (1)   右兵衛佐・頼朝の反乱!との知らせが、相次いで聞こえ福原(平家の本拠)では、
    頼朝に加勢する軍兵が増えぬ中に、「急いで討手を下すべき」と僉議を行い、
    平維盛(清盛の孫)を大将軍に、薩摩守・忠度(清盛の末弟)を副将軍として、侍大将
    には上総守・忠清を先にして、約三万余騎をもって九月十八日、福原の新都を出発
    し、二十日には旧都(京都)から東国へ向けて立って行った。

(2)   絵に描いたような美男子の”維盛”は、美々しく着飾り見事なばかりの”まばゆい”装
    いであり、副将軍の”忠度”ともども、それは”見もの”であったという。

(3)   九月二十二日、高倉上皇は、去る三月に続き再び”厳島神社”へ御幸になり、五月
    の”高倉の宮の謀叛”などの騒動が静まる気配のないことから、「天下が静まらんこと」と、
    ご自身の「病気平癒」の祈願のため、この度は”自筆の願文”の草案を、摂政・藤原基通
    が清書したとされる。

         この後、翔ぶ鳥の音に驚いて平家軍が大敗走したとされる”富士川”
        のくだりとなる。