* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七十一句「四の宮即位」(しのみやそくゐ)

2009-09-25 09:27:55 | 日本の歴史

  後白河法皇の仮の御所となった比叡山東塔“円融房
  続々と参集する公卿たちを門前で案内する僧侶

<本文の一部>

 寿永二年七月二十四日の夜半ばかりに、法皇は按察の大
納言資賢の卿の子息右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに
御所を出でさせ給ひ、鞍馬寺へ入らせ給ひけるが、「ここ
もなほ都近くてあしかりなん」とて、笹の峰、解脱が谷、
寂場房、御所になる。

 大衆起つて、「東塔へこそ御幸なるべけん」とていきど  
ほり申すあひだ、「さらば」とて東塔の南谷、円融房、御
所になる。かかるあひだ、武士も衆徒も円融房御所ちかく
侍ひて、君を守護したてまつる。

 院は天台山に、主上は平家にとられて西海へ、摂政は
知足院に、女院の宮は八幡、加茂、嵯峨、太秦、西山、
かたほとりについて逃げ隠れさせ給へり。平家は落ちぬ
れども、源氏はいまだ入りかはらず。すでにこの京は主
なき里とぞなりにける。

 開闢よりこのかた、かかることあるべしともおぼえず
聖徳太子の未来記にも、今日のことこそゆかしけれ。

 法皇は天台山にわたらせ給ふと聞こえしかば、馳せ参
り給ふ人々、「入道殿」とは前の関白松殿。「当殿」と
は近衛殿、太政大臣、大納言、中納言、宰相。三位、四
位、五位の殿上人。官加階にのぞみをかけ、所帯、所職
を帯する人の、一人も漏るるはなかりけり。

 あまりに人参りつづいて、堂上、堂下、門外、門内、
ひますきもなく満ち満ちたり。山門の繁昌、門跡の面目
とぞ見えし。

 同じき二十八日、法皇は都へ還御なる。木曽の冠者義
仲、五万余騎にて守護したてまつる。近江源氏山本の冠
者義高、白旗ささせて先陣つかまつる。この二十余年見
ざりつる白旗の今日はじめて都へ入る。めづらしかりし
事どもなり。

 十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治橋より京へ入る。睦
奥の新判官義康が子矢田の判官代五千余騎にて丹波の国
大江山を経て京へ入る。京中には源氏の勢みちみちたり

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<あらまし>

<後白河法皇、御所を脱出して比叡山へ>

(1)寿永二年(1183)七月二十四日、法皇は密かに法住寺殿を
   脱出し、比叡山東塔の円融房に入る。これを聞いた摂政等
   公卿、殿上人たちが続々と参集、山門が賑わう。

(2)七月二十八日、法皇は都へ戻り法住寺殿(御所)へお入りに
   なるが、木曽義仲などの多数の軍勢が守護したので、都の
   中は源氏の白旗があふれる様であった。
    法皇は、義仲行家を呼び、“平家追討”を命じた。

<四の宮(尊成、のちの82代後鳥羽帝)立太子の経緯>

(1)第80代・高倉帝の皇子は、第81代・安徳帝のほか、二の宮
  (守貞)は平家が都落ちに際して九州へお連れし、三の宮(
  )は法皇になつかず、四の宮(尊成)は甘えてなつき、後の
  82代後鳥羽帝
となる。

<源氏が官職につき、平家ははずされる>

(1)八月十日、義仲は伊予の守に、行家は備前の守に、
 そして他の源氏十人は国司に、また京中に警護や武官
 職に任ぜられた。(源氏)

(2)八月十四日、宗盛以下百六十三人が官職を解かれ、
 昇殿の名札を除かれたのであった。(平家)

   

<四の宮、都で即位>

(1)八月十四日、都では“四の宮(尊成)”が即位する。
 第82代・後鳥羽天皇である。
  このため、地方(九州)に在位中の第81代・安徳帝と
 都の第82代・後鳥羽天皇
、“二天の君”並立の事態
 となつたのである。

  この他、木曽義仲が、“北陸の宮”を推戴し法皇
  に迫ったが、さすがに、これは入れられなかった。