* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九十二句「屋島院宣」

2011-08-15 14:44:09 | 日本の歴史

         

         わが子“重衡”の助命を願い、“宗盛”に泣きくどく“二位の尼(平時子)”

<本文の一部>

 同じく十四日、本三位の中将重衡、六条を東へわたされ給ふ。「入道にも、二位殿
にも、おぼえの子にておはしければ、一門の人々にも、もてなされ、院、内へ参り給
へば、当家も他家も、所をおきてうやまひぞかし。これは、ただ奈良を滅ぼし給へる
伽藍の罰にてこそ
」とぞ人申しける。

 六条を東の河原までわたされてのち、故中の御門中納言家成の卿の造られたる
堀川の御堂へ入れたてまつる。

 土肥の次郎実平は、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将同車したてま
つる。兵ども六十余人具して守護しけり。

 院より御使あり。蔵人の右衛門権佐定長、赤衣に剣、笏を帯して向かふ。三位中
将は紺村濃の直垂に、折烏帽子ひきたてられたり。昔は何とも思はざりし定長を、
今は冥土にて冥官に向かへる心にて、おそろしげにぞ思はれける。

 定長申しける、「勅諚には、所詮、『三種の神器をだにも都へ入れたてまつらせ給は
ば、西国へつかはさるべき』と候。このおもむき申させ給へ」と申しければ、三位の中将
「今は、かかる身となりて候へば、一門面を合はすべしともおぼえず候。女性にて候へ
ば、二位の尼なんどや、『いま一度見ん』とも思はんずらん。そのほかあはれをかくべき
者、あるべしともおぼえず候。さはありながら、院宣だに下されば、申してこそ見候はめ」
とのたまへば、定長この様を奏聞す。法皇、やがて院宣をぞ下されける。・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 寿永三年(1184)二月十四日、捕らわれの身の“平重衡”は、堀川の御堂に入り、
   土肥実平とその兵が屋敷の周りを固める。

    後白河院からのお使いがあり、「平家の手に在る“三種の神器”を無事に都へ
   返せば、“重衡”の身柄を平家に戻そう」との申し出でがある。

    “重衡”は、「難しいお話ではあるが、院宣があれば平家一門に伝えて見ましょ
   う」と返事をする。

(2) かくして後白河院の院宣が発せられて、平家の側では二位の尼(清盛)が、
   平家にある「神器」をお返しして、是非とも重衡を取り戻して欲しい・・・・と、宗盛
   に泣きくどくものゝ、一門に人々の反対が多く、宗盛は、「一門の総帥として、その
   願いを叶えるわけには参りませぬ」と、拒み、そして後白河院勅諚を拒否したの
   であった。

(3) 三位の中将(重衡)は、これを聞き、「そうであろう・・・・・」と、今更ながら無念の思い
   にしずむ心持であった。