* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二十二句 「 大 赦 」

2006-05-04 15:34:19 | Weblog
             大赦にも洩れ、漕ぎ出す赦免のお使船に取りすがる 俊寛 僧都
             上の部分には、形見に残された薄い夜具布団一枚と法華経の
             経巻が転がっている
             この絵の左頁続きには、浜辺で足摺りをする俊寛 の姿が描かれている

           <本文の一部>
  そのころ、太政入道(清盛)第二の御むすめ、建礼門院いまだ中宮と聞こえさせ給ひしが、御脳とて、雲のうへ、天がしたの嘆きにてぞありける。諸寺に御読経はじまり、諸社に官幣をたてらる。陰陽術をきはめ、医家くすりをつくし、大法、秘法ひとつとしてのこるところなうぞ修せられける。されども、御脳ただごとにもわたらせ給はず、「御懐妊」とぞ聞こえし。

  主上は今年十八、中宮は二十二にならせ給へども、いまだ皇子、姫宮もいでき給はず、「もし皇子にてわたらせ給はば、いかにめでたからん」と、平家の人々、ただいま皇子御誕生なりたる様に、いさみよろこび会はれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌、をりを得たり。皇子御誕生うたがひなし」とぞ申し会はれける。

  高僧、貴僧に仰せて、大法秘法修し、星宿、仏菩薩につけても、「皇子御誕生」とぞ祈誓せられける・・・・・・

  六月一日(治承二年(1178))、中宮御着帯ありけり。仁和寺の御室守覚法親王、いそぎ御参内ありて、孔雀経の法をもって御加持あり。天台座主覚快法親王、おなじう参らせ給ひて、変成男子の法を修せらる。

  かかる御脳のおりふしにあはせて、こはき御物怪どもあまたとり入りたてまつる。よりまし、明王の縛にかけて、霊あらはれたり・・・・・・・

  さるほどに、入道相国(清盛)、「鬼界が島の流人ども、召し返さるべき」とさだめられて、赦文を書きて下されける。お使、すでに都をたつ。宰相(教盛)あまりのうれしさに、お使にわたくしの使をそへてぞ下されける。

  「夜を日にして、いそぎ下れ」とありしかども、心にまかせぬ海路なれば、おほくの波風をしのぎ行くほどに、都を七月下旬に出でたれども、九月二十日ごろにぞ鬼界が島には着きにける。

  お使は丹波の左衛門尉基康と申す者なり。いそぎ船よりあがり、「これに、都より流され給ひたる法勝寺の執行俊寛僧都、丹波の少将成経、康頼入道殿やおはす」と声々にぞたづねける・・・・・・・・

  雑色(召使い)がくびにかけたる文袋より、入道相国の赦文とり出だし奉る。これをいそぎあけて見給ふに、「重科は遠流に免ず、はやく帰洛の思ひをなすべし。中宮御脳の御祈りによて、非常の大赦おこなはる。しかるあひだ、鬼界が島の流人ども、少将成経、康頼入道殿赦免」とばかり書かれて、「俊寛」といふ文字はなし。

  「礼紙(書状の上に巻き重ねる紙)にぞあるらん」とて、礼紙を見るにも見えず。奥よりはしへ読み、はしより奥へ読みけれども「二人」とばかり書かれて、「三人」とは書かれざりけり・・・・・・・

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。

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     <あらすじ>
 (1)皇子御誕生祈念の大赦   
     高倉帝中宮 (清盛二女・徳子)との皇子ご誕生を祈って、高僧・貴僧などの
     ご祈祷に加えて、重盛 の薦めもあり、清盛 は”大赦”を行う。

     しかし、赦免状には少将成経と、康頼 入道の名はあっても、俊寛 ひとりの
     名が無く、絶望の淵に陥る。

 (2)俊寛 、ひとり島に取り残される  
     お使いの船にとりすがりせめて九州までも・・・・と、繰り返し頼むが、望みは
     入れられず、漕ぎ行く船を見送りながら浜辺で地団駄をふんで”足摺り”をする
     のであった。

     翌治承三年(1179)、失意のうちに島で亡くなるという悲劇の部分です。

     清盛 の怒りが解けず、ほとり寂しく島で亡くなった俊寛 の悲劇、島の人々は
     その生涯を哀れみ、俊寛が良く行き来した川原に墓をたてたといゝます。

この悲劇は、歌舞伎の演目にもなり、平成八年には中村勘九郎 丈を招いて、世界初、
史実の地での野外歌舞伎『俊寛』を演じ、これを記念してその海岸と俊寛の”足摺石”を見下ろす場所に”俊寛像”が建立されました。