後白河法皇 の御所へ年始のご挨拶に行幸の高倉天皇
<本文の一部>
治承二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日、朝勤の行幸ありけり。例にかはりたることはなけれども、こぞの夏、大納言成親の卿以下、近習の人々おほく失はれしことを、法皇御いきどほりいまだやまず、世のまつりごとも、もの憂くおぼしめされければ、御心よからぬこと(ご不快)にてぞありける。
太政入道も、多田の蔵人行綱が告げ知らせてのちは、君をも一向うしろめたきことに思ひたてまつりて、上には事なきやうなれども、下には用心して、にが笑うてぞおはしける。
同じく正月七日、「彗星東方に出づる」とも申す。また「赤気」とも申す。十八日、光を増す。
そのころ、法皇、三井寺の公顕僧正御師範にて、真言の秘法を伝授せられおはしけるが、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、この三部の秘経をさずけさせましまして、「三井寺にて御灌頂あるべし」と聞こえしほどに、山門(比叡山延暦寺)の大衆、これをいきどほり申す。「むかしより御灌頂、御受戒は当山にてとげさせましますことさ先規なり。なかにも山王化導は受戒灌頂のためなり。しかるを、園城寺にてとげさせ給ふならば、寺を焼きはらふべし」とぞ申しける。
「これ無益なり」とて、加行を結願して、おぼしめしとどまりぬ。法皇なほ、御本意なりければ、公顕僧正召し具して、天王寺へ御幸なって、五智光院を建てて、亀井の水をもって五瓶の智水として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂とげさせおはします。
山門の騒動をしづめられんがために、法皇、三井寺にて御灌頂はなけれども、山には、堂衆、学生(がくしょう)、不快のこと出できて、合戦度々におよぶ。毎度学侶うちおとされて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。
山門に「堂衆」と申すは、学生の所従(従者)なり。童部の法師になりたるなり。もとは仲間(ちゅうげん)の法師ばらにありけるが、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山のときより、三塔に結番して、「夏衆」と号し、仏に花香を奉る者どもなり。近年は、「行人」とて、大衆をもことともせざりしが(見くびった振舞い)、かく度々戦に勝ちにけり・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1)<朝勤の行幸>
年頭に帝(高倉天皇 )が、上皇(後白河上皇)の御所にごあいさつにお出でになる。
治承二年(1178)正月四日、高倉天皇は後白河上皇の御所に行幸するが、前年に大納言・成親 をはじめ、近臣の多くを失った上皇としては、心穏かならぬ心境であった。
清盛 も、法皇近臣による陰謀を知ってからは、院に対しても警戒心を怠らなかったのである。
(2)<法皇、三井寺において伝法>
法皇の寵愛する三井寺(園城寺)の公顕 僧正を御導師として真言の秘法をお受けになったものゝ、比叡山延暦寺の僧たちの大反対にあい、”灌頂”をあきらめる。
受戒や修道昇進のしるしに、頭に智水をそそぐ儀式を「灌頂」といい、真言宗では秘法伝授のとき壇を設けて式を行い、これを「伝法灌頂」と称し、略式に仏縁を得させる作法を「結縁灌頂」という。
(10年後文化三年(1187)、天王寺において御灌頂あり。)
(3)<山門の学侶と堂衆の争い>
もともと学侶の従者である雑役法師(堂衆)が、だんだん僧侶を見くびった態度をとるようになり、ついには院宣を受けた官軍(平家の軍勢)と僧兵が、堂衆の籠もる城に誅伐に向かうが、官軍と僧兵の心がまとまらず惨敗してしまうのであった。(乱世を象徴する僧兵たちの争いであった。)
<本文の一部>
治承二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日、朝勤の行幸ありけり。例にかはりたることはなけれども、こぞの夏、大納言成親の卿以下、近習の人々おほく失はれしことを、法皇御いきどほりいまだやまず、世のまつりごとも、もの憂くおぼしめされければ、御心よからぬこと(ご不快)にてぞありける。
太政入道も、多田の蔵人行綱が告げ知らせてのちは、君をも一向うしろめたきことに思ひたてまつりて、上には事なきやうなれども、下には用心して、にが笑うてぞおはしける。
同じく正月七日、「彗星東方に出づる」とも申す。また「赤気」とも申す。十八日、光を増す。
そのころ、法皇、三井寺の公顕僧正御師範にて、真言の秘法を伝授せられおはしけるが、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、この三部の秘経をさずけさせましまして、「三井寺にて御灌頂あるべし」と聞こえしほどに、山門(比叡山延暦寺)の大衆、これをいきどほり申す。「むかしより御灌頂、御受戒は当山にてとげさせましますことさ先規なり。なかにも山王化導は受戒灌頂のためなり。しかるを、園城寺にてとげさせ給ふならば、寺を焼きはらふべし」とぞ申しける。
「これ無益なり」とて、加行を結願して、おぼしめしとどまりぬ。法皇なほ、御本意なりければ、公顕僧正召し具して、天王寺へ御幸なって、五智光院を建てて、亀井の水をもって五瓶の智水として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂とげさせおはします。
山門の騒動をしづめられんがために、法皇、三井寺にて御灌頂はなけれども、山には、堂衆、学生(がくしょう)、不快のこと出できて、合戦度々におよぶ。毎度学侶うちおとされて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。
山門に「堂衆」と申すは、学生の所従(従者)なり。童部の法師になりたるなり。もとは仲間(ちゅうげん)の法師ばらにありけるが、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山のときより、三塔に結番して、「夏衆」と号し、仏に花香を奉る者どもなり。近年は、「行人」とて、大衆をもことともせざりしが(見くびった振舞い)、かく度々戦に勝ちにけり・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
(1)<朝勤の行幸>
年頭に帝(高倉天皇 )が、上皇(後白河上皇)の御所にごあいさつにお出でになる。
治承二年(1178)正月四日、高倉天皇は後白河上皇の御所に行幸するが、前年に大納言・成親 をはじめ、近臣の多くを失った上皇としては、心穏かならぬ心境であった。
清盛 も、法皇近臣による陰謀を知ってからは、院に対しても警戒心を怠らなかったのである。
(2)<法皇、三井寺において伝法>
法皇の寵愛する三井寺(園城寺)の公顕 僧正を御導師として真言の秘法をお受けになったものゝ、比叡山延暦寺の僧たちの大反対にあい、”灌頂”をあきらめる。
受戒や修道昇進のしるしに、頭に智水をそそぐ儀式を「灌頂」といい、真言宗では秘法伝授のとき壇を設けて式を行い、これを「伝法灌頂」と称し、略式に仏縁を得させる作法を「結縁灌頂」という。
(10年後文化三年(1187)、天王寺において御灌頂あり。)
(3)<山門の学侶と堂衆の争い>
もともと学侶の従者である雑役法師(堂衆)が、だんだん僧侶を見くびった態度をとるようになり、ついには院宣を受けた官軍(平家の軍勢)と僧兵が、堂衆の籠もる城に誅伐に向かうが、官軍と僧兵の心がまとまらず惨敗してしまうのであった。(乱世を象徴する僧兵たちの争いであった。)