* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二十一句 「伝法灌頂」(でんぽふくゎんぢょう)

2006-04-30 17:22:20 | Weblog
               後白河法皇 の御所へ年始のご挨拶に行幸の高倉天皇

              <本文の一部>
  治承二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日、朝勤の行幸ありけり。例にかはりたることはなけれども、こぞの夏、大納言成親の卿以下、近習の人々おほく失はれしことを、法皇御いきどほりいまだやまず、世のまつりごとも、もの憂くおぼしめされければ、御心よからぬこと(ご不快)にてぞありける。

  太政入道も、多田の蔵人行綱が告げ知らせてのちは、君をも一向うしろめたきことに思ひたてまつりて、上には事なきやうなれども、下には用心して、にが笑うてぞおはしける。

 同じく正月七日、「彗星東方に出づる」とも申す。また「赤気」とも申す。十八日、光を増す。

 そのころ、法皇、三井寺の公顕僧正御師範にて、真言の秘法を伝授せられおはしけるが、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、この三部の秘経をさずけさせましまして、「三井寺にて御灌頂あるべし」と聞こえしほどに、山門(比叡山延暦寺)の大衆、これをいきどほり申す。「むかしより御灌頂、御受戒は当山にてとげさせましますことさ先規なり。なかにも山王化導は受戒灌頂のためなり。しかるを、園城寺にてとげさせ給ふならば、寺を焼きはらふべし」とぞ申しける。

 「これ無益なり」とて、加行を結願して、おぼしめしとどまりぬ。法皇なほ、御本意なりければ、公顕僧正召し具して、天王寺へ御幸なって、五智光院を建てて、亀井の水をもって五瓶の智水として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂とげさせおはします。

 山門の騒動をしづめられんがために、法皇、三井寺にて御灌頂はなけれども、山には、堂衆、学生(がくしょう)、不快のこと出できて、合戦度々におよぶ。毎度学侶うちおとされて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。

 山門に「堂衆」と申すは、学生の所従(従者)なり。童部の法師になりたるなり。もとは仲間(ちゅうげん)の法師ばらにありけるが、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山のときより、三塔に結番して、「夏衆」と号し、仏に花香を奉る者どもなり。近年は、「行人」とて、大衆をもことともせざりしが(見くびった振舞い)、かく度々戦に勝ちにけり・・・・・・・・

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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    <あらすじ>
  (1)<朝勤の行幸> 
年頭に帝(高倉天皇 )が、上皇(後白河上皇)の御所にごあいさつにお出でになる。
治承二年(1178)正月四日、高倉天皇は後白河上皇の御所に行幸するが、前年に大納言・成親 をはじめ、近臣の多くを失った上皇としては、心穏かならぬ心境であった。

清盛 も、法皇近臣による陰謀を知ってからは、院に対しても警戒心を怠らなかったのである。

  (2)<法皇、三井寺において伝法>
法皇の寵愛する三井寺(園城寺)の公顕 僧正を御導師として真言の秘法をお受けになったものゝ、比叡山延暦寺の僧たちの大反対にあい、”灌頂”をあきらめる。

 受戒や修道昇進のしるしに、頭に智水をそそぐ儀式を「灌頂」といい、真言宗では秘法伝授のとき壇を設けて式を行い、これを「伝法灌頂」と称し、略式に仏縁を得させる作法を「結縁灌頂」という。

  (10年後文化三年(1187)、天王寺において御灌頂あり。)

  (3)<山門の学侶と堂衆の争い>
もともと学侶の従者である雑役法師(堂衆)が、だんだん僧侶を見くびった態度をとるようになり、ついには院宣を受けた官軍(平家の軍勢)と僧兵が、堂衆の籠もる城に誅伐に向かうが、官軍と僧兵の心がまとまらず惨敗してしまうのであった。(乱世を象徴する僧兵たちの争いであった。)

   

第二十句 「徳大寺殿厳島参詣」

2006-04-29 17:13:20 | Weblog
               厳島の内侍たちを迎えた清盛邸
                 左上の 清盛 : ”ところで本日の所用はなんじゃ”

     <本文の一部>

  そのころ徳大寺の大納言実定の卿、平家の次男宗盛に大将を越えられて、大納言をも辞し申して、籠居せられたりけるが、「つらつらこの世の中のありさまを見るに、入道相国の子ども、一門の人々に官加階を越えらるるなり。知盛、重衡なんどとて、次第にしつづかんずるに、われらいつか大将にあたりつくべしともおぼえず。つねのならひなれば、出家せん」とぞ思ひたたれける。

 諸大夫、侍ども寄りあひ、「いかにせん」となげきあへり。その中に藤蔵人大夫重藤といふ者あり。なにごとも存知したる者なりけり・・・・・・

 「いかに重藤か。なにごとに参りたるぞ」。「今夜は月くまなう候ひて、徒然に候ふほどに、参りて候」と申せば、「神妙なり。そこに侍へ。物語りせん」とぞのたまひける。かしこまって侍ひけるに、実定の卿「当時、世の中のありさまを見るに、入道相国の子ども、そのほか一門の人人に、官加階を越えらるるなり。今は大将にならんこともありがたし。つねのことなれば、世を捨てにはしかじ。出家せんと思ふなり」とのたまへば、「この御諚こそ、あまり心細うおぼえ候へ。げにも御出家なんども候はば、奉公の輩のかなしみをば、いかがせさせ給ひ候ふべき。重藤不思議の事をこそ案じ出でて候へ。安芸の厳島の大明神は、入道相国のなのめならず崇敬し給ふ神なり。なにごとも様にこそより候へ。君、厳島へ御参り候ひて、一七日も御参籠あり、大将のことを御祈念候はば、かの社には、内侍とて優なる妓女ども、入道置かれて候ふなり、さだめて参りもてなし申し候はんずらん。さて御上洛のとき、御目にかかりぬる内侍ども召し具して上らせましまさんに、御供に参り候ふほどには、うたがひなく西八條へ参り候はんず。入道相国『なにごとにて上りたるぞや』とたずねられば、ありのままにぞ申し候はんずらん。『さては徳大寺殿は、浄海(清盛)が頼みたてまつる神へ参られけるござんなれ』とて、きはめて物めでたがりし給ふ人にて、よきようにはからひもや候はんずらん」と申したりければ、実定の卿「まことにめでたきはかりごとなり。かの様のこといかでか思ひよるべき」とて、やがて精進はじめて、厳島へぞ参られける・・・・・・・・

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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    <あらすじ>
  閑院流・藤原公能 の長子・実定 の卿は、平 宗盛 に大将の位を越され、そのショックで大納言まで辞退して邸に籠り鬱々としていた。

  この世は、平家一門の者でなければ出世はとても望めないと、出家しようと思い立つ。  実定の家臣の中に 藤蔵人大夫 重藤 という知恵者がいて申し上げる。

 「世を捨てるなどとは、あまりにも心細い仰せです。私に考えがあります」と次のように進言するのであった。

 「厳島神社(清盛 の尊崇篤き神)にしばらく参籠し、大将への昇進を祈願なされれば、厳島の内侍たちがご接待なさるでしょう。京へお戻りの折にこれら内侍を引き連れてお出でになれば、きっとかの妓女らは清盛邸にご挨拶にまかり出るに違いありません。そこで清盛様から、何事の上洛か?と聞かれて、内侍たちが事の次第を語るでしょう。そうすれば清盛 様も感激しやすい人ですから、悪いようにはなさらないと思います」と。

  実定 は、すばらしい名案だと喜び、早速に精進潔斎をして厳島へ参るのであった。

  七日間のお籠りの中で、今様朗詠の名手である実定 は、内侍たちに今様を歌い、奏楽、歌舞なども奏し、また丁寧に教えたりもしたという。

  参籠が終えて都に上る際、主だった内侍たちが舟をしたてて実定 一行を見送るが、あと二日、あと三日・・・・とのばしつつ、遂に都まで来てしまう。

  徳大寺邸で、もてなされた上、引き出物まで賜って退出するが、案の定!内侍たちは、西八條の清盛邸にご挨拶に伺うのである。

 ここで清盛 は、実定 の厳島神社での参籠祈念のことを知り、この清盛が篤く敬う厳島の神にわざわざ祈願されたのであれば、何とか良いように計らわねばならぬ・・・・と、思はれるのであった。

 やがて嫡男・重盛 の左大将を辞任させ、次男・宗盛 を越えて徳大寺実定 の卿を”左大将”に任じたという。

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  新大納言・成親 の卿に、このような賢明な策も無く、つまらぬ謀叛を起こして流罪の上”惨殺”されてしまったのは、何とも情けないことであったと、世の人はいう。

          ◎ 史実は、やや前後して異なるところがあるとされています。
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          ◎ 美しい言葉を使っていると、その人も”美しくなる”と云われます。
            平成の世は、言葉遣いが非常に乱暴で、トゲのある云いようが
            日常的に聞かれます。
           ”身だしなみ”もしかりで、どこかの国をマネるのか
         大へんに”だらしなく”感じるのです。これはマナー違反?なのであります。

              ”おしゃれ” は、自分のため
              ”身だしなみ”は、相手のため




 
               

第十九句 「成親死去」

2006-04-28 17:28:38 | Weblog
        侍どもが 成親 を外へ連れ出して、槍のように先の尖った物をたくさん植えて
        ある崖の上に誘い、三人の侍が一緒に突き落して殺してしまった。
 
  <本文の一部>
 新大納言成親の卿は、「すこしくつろぐ心もや」と思はれけるところに、「子息丹波の少将以下、鬼界が島に流されぬる」と聞きて、小松殿に申して、つひに出家し給ひけり。
 北の方は雲林院にましましけるが、さらぬだに住みなれぬ山里はもの憂きに、いとどしのばれければ、過ぎゆく月日もあかしかね、暮らしわずらふ様なりけり。
 女房、侍おほかりけれども、世におそれ、人目をつつむほどに、問ひとぶらふ人もなし。

 その中に、大納言の幼少より不便にして召しつかはれける源左衛門尉信俊といふ侍あり。なさけある男にて、つねはとぶらひたてまつる。あるとき、信俊参りたりければ、北の方、涙を押さへて、「いかにや、これには備前の児島にましますとこそ聞こえしが、当時は有木の別所とかやにおはすなり。いかにしても、いま一度、文をも奉り、返事をも見んと思ふはいかに」とのたまへば、信俊涙をおしのごひて申しけるは、「さん候。幼少より御情をかうぶりて、一日も離れまゐらすること候はず。御下りしときも、さしもに御供つかまつるべきよし、申し候ひしかども、入道殿御ゆるされも候はざりしかば、参ることも候はず。召され候ひし御声も、耳にとどまり、諌められまゐらせ候ひし御ことばも、肝に銘じていつ忘れまゐらせんともおぼえず候。たとひいかなる目にもあひ候へ、御文賜はり候はん」と申せば、北の方、やがて御文書きてぞ賜はりける。

 信俊、これを賜はって、備前の国、有木の別所にたずね下る・・・・・・

  さてもあるべきならねば、信俊、いとま申して上りけり。
都へ上りて、北の方へ参り、御返事を参らせたりければ、「あなめずらし。命の今までながらへておはしけるよ」とて、この文を見給へば、文に中に御髪の一ふさくろぐろとして見えければ、二目とも見給はず、「はや。この人様をかへ給ひけり。形見こそ、なかなか今はあたなれ」とて、これを顔におしあてて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。
 おさなき人々も泣きかなしみ給ひけり。

  さるほどに大納言入道をば、同じき八月十七日、備前、備中の境、吉備の中山といふ所にて、つひに失ひたてまつる。酒に毒を入れてすすめたてまつりけれども、なほもかなはざりければ、岸の二丈ばかりある下に、菱を植ゑ、それにつき落し、貫かれてぞ失せ給ひける・・・・・・・・・

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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   <あらすじ>
  大納言・成親 は、少しは心が落ちつくかと思はれた矢先に、子の少将・成経 などの人たちが鬼界が島 に流されたと知り、重盛 に申し出てついに出家してしまう。

  成親 が、小さいときから面倒を見てきた 信俊 という侍が、北の方の文を持って 成親 の有木の別所に届け、返事の文を預かって、これを都の北の方 に渡すというくだりがある。

  北の方 は、返事の文を見て、成親 が生きていることと、中に納められていた一ふさの髪を見て、出家したことを知り、小さな若君や姫君ともども泣き伏すのであった。

 八月十七日、ついに成親殺害 の命が下り、初めは酒に毒を入れて飲ませようとしたが果たせず、吉備の中山(岡山市)という所で、崖から追い落とし、下に設けた先の尖った木に身体を刺し貫かれて殺されてしまう、まさに惨殺 である。

  北の方は、この噂を聞きつたえて、「出家姿でも良いから今一度お会いしたかった」と思っていたが、今はそれもかなわぬことゝなり、仏門に入って成親 の後生を弔うのであった。

          (注)死去の日は、諸本によりいろいろあるが、七月中のことであったらしい。

               後白河院の異常なほどの寵愛をうけた大納言も、
               清盛からは余程に嫌われたのである。
 


第十八句 「三人鬼界が島に流さるる事」

2006-04-28 11:00:40 | Weblog
                    <右上>熊野権現に見立てたところで参篭する成経康頼入道
                    <左下>卒塔婆を流す康頼入道、一本一本卒塔婆の形を削り、
                        梵字と年月日、名前を刻み二首の和歌をしたためる

             <本文の一部>
 さるほどに、法勝寺執行俊寛、平判官康頼、瀬尾におはする少将(成経)あひ具して、三人薩摩方鬼界が島へぞ流されける。この島は、都を出でてはるばると海をわたりてゆく島なり。おぼろけにては(並大抵のことでは)舟も人もかよふことなし。島にも人はまれなり。おのずからある者は(まれに住んでいる者)この地(本土)の人にも似ず。

 色くろうして、牛なんどのごとし。身にはしきりに毛生ひ、言うことばも聞き知らず。男は烏帽子もせず、女は髪をもさげず。衣裳なければ人にも似ず(人らしくもなく)。食する物なければただ殺生(猟や漁)をのみ先とす。賤が山田をたがやさねば米穀のたぐひもなし。園の桑(養蚕)をとらざれば、絹綿のたぐひもなかりけり。

 島のうちには高山あり。山のいただきには火燃えて、いかづち常に鳴りあがり、鳴りくだり、ふもとにはまた雨しげし。一日片時も人の命あるべしとも見えざりけり。硫黄といふものみちみちてり。かるがゆゑに「硫黄が島」とぞ申しける。

 されども丹波の少将の舅・平宰相の所領、肥前の国桛の荘より衣食をつねに送られければ、俊寛も康頼も命生きてすごしけり。康頼は流されけるとき、周防の室富といふ所にて出家してんげれば、法名「性照」とぞ名のりける。

 出家はもとよりのぞみなりければ、泣く泣くかうぞ申しける。
            つひにかく そむきはてける 世のなかを とく捨てざりしことぞ くやしき

 と書きて都へ上せたりければ、とどめおきし妻子ども、いかばかりのことをか思ひけん。

                (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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 <あらすじ>
  平判官・康頼と法勝寺の俊寛は、瀬尾に居る少将・成経と一緒に薩摩(南九州)の硫黄島(鬼界が島)へながされる。

 隔絶した僻地の島であり、滅多に舟も人も寄らないようなところで、たまに住んでいる人は本土の人にも似ず、色が黒くて毛深く狩猟や漁労で生きていた。

 島には高い山があって、いつも噴火していて雷のような轟音が鳴りひびき、硫黄だらけで「硫黄島」と呼んでいた。

 でも、少将・成経の舅の平宰相教盛が、自分の領地である肥前(佐賀県)から着るものや食べ物をいつも届けてくれていたので、そのお陰で命をとどめていられたのである。

 平判官・康頼は、配所へ送られる途中、周防(山口県)で出家して”性照”と称していた。

 成経康頼 は、熊野信仰者で、島の中で熊野に似た場所を探し出し、毎日”熊野詣”のまねをして京へ戻れることを祈っていたのであった。

  康頼入道は、、都恋しさのあまり千本の卒塔婆を作り”二首の和歌”を書きつけて、「この卒塔婆を一本なりとも都へ伝えて」と念じながら海へ流したのである。

          薩摩の沖の小島に 私が生きていることを 母親に伝えて欲しい 海原の潮風よ・・・

  そしてこの中の一本が厳島へ流れつき、康頼 ゆかりの僧の手に渡り、さらに康頼の老いた母や妻子の目にとまることゝなった。

  後に後白河法皇 も、この卒塔婆を御覧になる機会があり、哀れに思はれて平重盛 のもとへ送られ、清盛 もこれを見て、心を動かされることになった。


   (注)"本文中にある鬼界が島"は・・・・・
       現在の奄美大島の東に位置する”喜界島”ではなく、
       口永良部島の北にある”硫黄島”であったと考えら
       れています。


第十七句 「成親流罪・少将流罪」

2006-04-23 14:47:17 | Weblog
         ”備中の児島”に流される、鳥羽で粗末な屋形船に乗せられる大納言・成親

               <本文の一部>
 同じき六月二日、大納言をば、公卿の座へ出だしたてまつて、御物したてて参らせたれども、御覧じもいれず。見まはし給へば、前後に兵みちみちたり。
我が方様の者は一人も見えず。
 やがて車を寄せて、「とくとく」と申せば大納言、心ならず乗り給ふ。ただ身にそふものとては、つきせぬ涙ばかりなり。朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。・・・・・・

 「たとひ重科をかうぶって遠国へ行く者も、ひと一両人はそへぬ様やある」と、車のうちにてかきくどき、泣き給へば、近う侍ふ武者ども、みな鎧の袖をぞぬらしける。・・・・・

 同じき三日、大物の浦に「京より御使あり」とひしめきけり。大納言、「ここにて失へとや」と聞き給へば、さはなくして、「吉備の児島へ流さるべし」となり。・・・・・

 大納言一人にも限らず、か様にいましめらるる輩おほかりけり。近江の中将入道、筑前の国。山城守基兼、出雲の国。式部大輔章綱、隠岐の国。宗判官信房、土佐の国。平判官資行、美作の国。次第に配所をさだめらる。・・・・・

 六月二十二日、福原へ下りつき給ひければ入道、瀬尾の太郎兼康に仰せて、少将(成経)は備中(岡山)の瀬尾へ下されけり。兼康、宰相(成経の舅・教盛)のかへり聞き給はんところをおそれて、道の程様々にいたはりなぐさめたてまつる。されど少将は一向仏の御名となえて、父のことをぞ祈られける。

                      (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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  <あらすじ>

 治承元年(1177)六月二日、供の者ひとりもつけられず配所への道すがら、皇居をはるかに涙ながらに引かれてゆく大納言・成親、舟へ乗せられる前に自分の縁のある者に伝えておきたいことがあると、警護の難波の経遠 に告げ、経遠が辺りを探し回るが誰ひとり名乗りでる者もいない有様であった。

 大納言・成親ばかりでなく、近江の中将入道や山城守・基兼、式部大輔・章綱、宗判官・信房、新平判官・資行などがそれぞれ、筑紫の国(福岡)、出雲の国(島根)、隠岐の国(島根)、土佐の国(高知)、美作(みまさか)の国(岡山)など等へ次々と配流先が決められていった。

 その内に、福原(神戸)にいた清盛は、弟の教盛に対し、「急いで福原へ少将・成経を出頭させるよう」命じ、結局、瀬尾の太郎兼康に命じて成経を備中(岡山南部)に流してしまう。

 成経は、父・成親の配所(有木の別所)が自分の居るところから近いことを知って、瀬尾の太郎に「父の配所までどのくらいの道のりか」を尋ねるが、太郎は、本当のことを知らせてはまずいと思って、「これより十二三日の道にて候」と答える。

 成経は、「十二・三日とは、九州へ行くのと同じことではないか、自分に本当のことを知らせまいとして云うのであろう」と、以後は聞くことをしなかったという。

                  ~~~~~~~~~~~~~~~~~
<藤原成親・賞罰の変遷>

 (1) 平治元年(1159)、藤原信頼に加担して死罪になるべきところを
    平重盛の助命嘆願によって免職だけで、命が助かる。

 (2) 永暦二年(1161)、平時忠が高倉帝擁立運動で罪をうけたとき、
    連座して右中将を免職。

 (3) 嘉応元年(1169)、神人との争いで比叡山に訴えられ、権中納言
    を免職され、備中(岡山)へ流罪となったが、途中で赦免。

 (4) 嘉応二年(1170)、比叡山の更なる訴えで、右衛門督を免職。

 (5) 治承元年(1177)、鹿ケ谷の陰謀発覚で、備中(岡山)へ流罪。


       そして、このあと 清盛 の命で”惨殺”されてしまう。


第十六句 「大教訓」

2006-04-17 12:09:03 | Weblog
         慌てて鎧の上に僧衣をつけた清盛
         その右に烏帽子直衣姿の嫡男重盛
          周りには居並ぶ一門の諸将

       <本文の一部>
  入道相国(清盛)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞(後白河院)をうらみたてまつらばや」とぞ申される。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸縅の腹巻、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらって、ゆゆしうぞ見えける。

 筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地の直垂に緋縅の鎧着て、御前にかしこまってぞ侍ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正(父・忠盛の弟)をはじめて、一門なかばすぎて新院(崇徳帝)の御方へ参りにき。中にも一の宮(崇徳院第一皇子・重仁親王)の御ことは、故刑部卿(父・忠盛)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがたに見放ちまゐらせがたかりかども、故院(鳥羽院)の御遺誡にまかせたてまつりて、御方にて先を駆けたりき。これ一つの奉公なり。」・・・・・・・・

 君(後白河院)の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。しかるに成親といふ無用のいたずら者、西光といふ下賤の不当人が、申すことにつかせ給ひて、この一門滅ぼすべきよし、法皇御結構こそ遺恨の次第なれ。

 こののちも讒奏する者あらば、当家追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば世をしづめんほど、法皇をこれへ御幸なしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿(離宮)へ遷したてまつらんと思ふはいかに。・・・・・・

 門のうちへさし入りて見給へば、入道すでに腹巻を着給へるうへ、一門の卿相運客数十人、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり・・・・・

 小松殿(重盛)は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しずかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道(清盛)は遠くより見給ひて、「例の、内府(重盛)が世を表する様にふるまふものかな。陳ぜばや」っとは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥ずかしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻のうへに着給ひたりけるが、胸板の金物すくしはずれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。

                (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
             ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   <あらすじ>

 清盛は、多数の人々を捕えてもなお、憤懣おさまらず、陰で糸を引く後白河院
 思い知らせたいと考える。

 これまでの平家一門のご奉公を見捨てゝ、成親などという碌でもない馬鹿者や、西光法師という無法者の言に引きずられて、平家を滅ぼす企てに後白河法皇が加わったことは誠に無念だ!

 もし平家追討の院宣が下されて、朝敵の汚名を着てしまってからでは取り返しがつかない。だから、この企てを鎮めるまでの間、法皇を、この邸にお出でいただくか、鳥羽の離宮へ幽閉しよう。そうなれば院の御所の北面の武士たちの抵抗もあるだろうから、戦の支度をせよ! 筑後守貞能に命じ、西八條邸は戦さ支度の武士たちであふれ、ものものしい有様であった。

 ことの次第を聞いた重盛は、わざと参内用の雅な支度に大きい紋様の袴を着けて、騒然とした西八條邸に向かい、静かに入ってゆく。それを陰から見た清盛は、さすがに恥ずかしく思い、鎧の上から絹の僧衣をはおって胸をかき合わせるのであった。

 こゝで重盛は、父・清盛が太政大臣で、しかも出家の身でありながら甲冑をつけ、ましてや上皇を押し籠めることを考えるなど、これまでの朝廷の御恩を思えば”もってのほか”!のことであると、涙ながらに切々と訴え諫めるのであった。

 並み居る一門の諸将も、重盛の命を賭しての諫言にみな涙するのである。

 頭に血が上っていた、清盛も、さすがに憑き物がおちたように鎧を脱ぎ、僧衣に袈裟をうちかけて、心にも無い?念仏読誦をはじめるのであった。

     平家物語では、清盛は「悪者」、嫡男の重盛は、つねに
    「沈着冷静な温厚な貴公子」として描かれるが・・・・
     慈円の愚管抄の記述:「コノ小松内府ハイミジク
                  心ウルハシクシテ・・云々」ともある。

     でも最近は、理屈っぽい「重盛」より、あわてゝ鎧の上のから
     はおった僧衣の胸を掻き合わせる「清盛」の方が、何となく
     憎めないと、人気上昇とか?     


 

第十五句 「平宰相、少将乞ひ請くる事」

2006-04-15 21:57:33 | Weblog
           縁の上、正面に宰相平教盛、その右に娘婿の少将成経
           急ぎの呼び出しで、清盛邸へ向かう場面

      <本文の一部>
 大納言の侍ども、中の御門烏丸の宿所へ走りかへり、このよしいちいちに申せば、北の方以下の女房たちも、をめきさけび給ひけり。
「『少将殿をはじめまゐらせて、公達もとられさせ給ふべし』とこそ承り候へ。上(大納言・成親)をば『夕さり失ひまゐらすべし』と候。これへも追捕の武士どもが参りむかひ候ふなるに、いづちへもしのばせ給はでは」と申せば、「われ残りとどまる身として、安穏にてはなにかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えんこそ本意なれ。さても今朝をかぎりと思はざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。

 すでに追捕の武士どもの近づくよしを申しければ、「さればとて、ここにてまた恥がましき目をみんもさすがなり」とて、十になり給ふ姫君、八になり給ふ若君、車にとり乗り給ひて、いづくともなくやり出だす。

 中の御門を西へ、大宮をのぼりに、北山のほとり雲林院へぞ入れまゐらせける。そのほとりなる僧坊におろし置きたてまつり、御供の者ども、身のすてがたさに、たれに申しおきたてまつるともなく、いとま申してちりぢりになりにけり。いまは幼き人々ばかり残りとどまって、またこととふ人もなくてぞおはしける。

 北の方の心のうちおしはかられてあわれなり。暮れゆくかげを見給ふにつけても、「大納言の露の命、この暮れをかぎり」と思ひやるにも消えぬべし。いくらもありつる女房、侍ども、世におそれ、かちはだしにてまどひ出づ。門をだにもおしたてず。馬どもは厩にたて並びたれども、草飼ふ者も見えず・・・・・・

  宰相(平教盛(清盛の弟))中門にましまして、入道相国(清盛)に見参に入らんとし給へども、入道相国出でもあはれず。源大夫判官季貞をもって申されけるは、「よしなき者にしたしうなり候ひて、かへすがへすも悔しく候へども、今はかひも候はず。そのうへあひ具して候ふ者、近う産すべきとやらん承り候ふが、このほどまた悩むこと候ふなるに、このなげきを今朝よりうちそへて、身々ともならぬさきに、命も絶え候ひなんず。しかるべく候はば、成経を教盛にしばらくあずけさせおはしませ。なじかはひが事をばさせ候ふべき」と申されければ、季貞この様を参りて申すに、入道「あっぱれこの例の宰相がものに心得ぬよ」とて、しばしは返事もなかりけり。宰相、中門にて「いかに、いかに」と待たれけり。

                   (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。   
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<あらすじ>

  大納言・成親 の侍たちは中御門烏丸の成親邸に、西八條の清盛邸から走りかえり、「少将・成経さまや、同じご兄弟の方々も捕えなさるらしい・・・」「殿(成親 )を、この夕方にも処刑しようということです・・)」「こゝへもすぐに追捕の武士たちがやってくると申します、早くどこかへ姿を隠されなくては・・・」と申し、北の方(教盛の娘で、成経の妻)や女房たちは、驚き騒ぎただ泣き伏すばかり。

    しかし、こゝで又、恥をさらすのも口惜しい・・・と、車に乗りあてもな
    く走り出し、やがて北山の雲林院の僧坊に下りるのであった。
    (追捕の検非違使の役人が、罪人を逮捕しその屋敷・財産を没収するや
     り方は、過酷なもので家族への狼藉もしばしばあったと云う。)

  成経 は、後白河院の御所に宿直していたが、大納言の侍から「殿は、西八條に押し籠められ、お子たちも捕えるということです・・」と云っている内に、西八條から 教盛 に、「成経を連れて急いで参れ」との使いがあった旨が伝えられる。

 宰相・教盛 は、急ぎ成経 を伴って西八条へ参り、「成経を自分に預けて欲しい」と助命嘆願をするが、清盛は聞き入れない。

  ついに、この教盛を信用できないのなら”出家遁世”をするほかない!と、
  決意して再度願いでる。 さすがの 清盛 も驚いて、しぶしぶ許したという。

 

  

第十四句 「小教訓」(こけうくん)

2006-04-14 16:43:04 | Weblog
            (右上)大納言・成親を尋問する清盛
                縁の上の赤糸縅の鎧が筑後守平貞能
            (中央)兼康と経遠に、庭上に引き据えられる大納言・成親
     <本文の一部>
 さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあって車に乗り、嫡子権亮少将(平維盛)、車のしり輪に乗せたてまつり、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやうげにてぞおはしける。

 車よりおり給ふところに、筑後守貞能つつと参り、「など、これほどの御大事に軍兵をば召し具せられ候はずや」と申しければ、小松殿『大事』とは天下の大事をこそ言へ、わたくしを『大事』と言ふ様やある」とのたまへば、兵仗帯したる者ども、みなそぞろ退きてぞ見えける。

 「大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうえに、蛛手給うたるところあり。「ここやらん」とて、あけられたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。
 大臣「いかにや」とのたまへば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄に罪人が地蔵菩薩を見たてまつるらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。

 大納言「いかなることにて候ふやらん。憂き目にこそ遭い候へ。さてわたらせ給へば、『さりとも』と頼みまゐらせ候。平治にもすでに失すべう候ひしを、御恩をもって首をつなぎ、位正二位、官大納言にいたってすでに四十にあまり候。御恩こそ生々世々にも報じつくしがたう存じ候へ。おなじくは今度もかひなき命をたすけさせおはしませ。命だに生きて候はば、出家入道して、高野、粉河にとぢこもり、一すぢに後生菩提のつとめをいとなみ候はん」とのたまへば、小松殿「人の讒言にてぞ候ふらん。失ひたてまつるまでのことは候ふまじ。たとひさも候へ、重盛かくて候へば、御命は代りたてまつるべし」とて出でられけり。

 大臣(おとど=重盛のこと)、入道相国(清盛)の御前に参りて申されけるは、「あの大納言左右なう失はれ候はんことは、よくよく御ばからひいるべう候。先祖修理大夫顕季、白河の院に召しつかはれてよりこのかた、家にその例なき正二位の大納言にいたって、当時君の無双の御いとほしみなり。左右なう首(かうべ)を刎ねられんこと、いかがあるべう候はんや。都のほかへ出だされたらんには、こと足り候ひなん。」・・・・・・・・

                   (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
  大納言・成親がもっとも頼りにしていた多田蔵人行綱の密告によって、清盛に捕えられてしまった。兵を集め騒然としているその西八条邸へ重盛は、大臣としての公式の共揃えだけで、家来の武士たちも連れずに、しずしずと乗り込み清盛家来の筑後守貞能を叱りつけ、押し込められている部屋に行き、”地獄に仏”と命乞いする大納言成親に、「私がこうして参ったからには、命はお守りいたします」と申し上げる。

 そして清盛の前で、後白河院の無双の寵臣である大納言成親の命を軽々しくお取りするようなことは、よくよく考えてなさるべきであると、さまざまな故事の例をあげて理路整然と語り、父・清盛を諫めるのである。

 清盛も、さすがに嫡男・重盛の申し条ももっともであると思ったのか、死罪にすることを思いとどまるのであった。

  そして、清盛から命じられて、大納言・成親を庭へ引きおろし手荒な仕打ちををした難波の次郎経遠と、瀬尾の太郎兼康を叱り、二人はちゞみあがって恐れ入るのであった。


 

第十三句 「多田の蔵人返り忠」(ただのくらんどかえりちゅう)

2006-04-07 12:15:57 | Weblog
            捕えられた新大納言・成親の卿、(まだ謀叛の露見に気がついていない)
       <本文の一部>
 先座主を大衆(だいしゅ)取りとどめたてまつるよし、法皇(後白河上皇)聞こしめして、やすからず(憤懣)おぼしめされける・・・・・・

 新大納言成親の卿は、山門の騒動により、わたくしの宿意をばおさえられけり。日ごろの内議支度はさまざまなりしかども、議勢ばかりにて、させる事しいだすべしともおぼえざりければ、むねとたのまれける多田の蔵人行綱、「このこと無益なり」と思ふ心ぞつきにける。

 成親の卿のかたより「弓袋の料に」とておくられたる白布ども、家の子郎等が直垂(ひたたれ)小袴に裁ち着せてゐたりけるが、「つらつら平家物語の繁昌を見るに、たやすくかたぶけがたし。よしなきことに与してんげり。もしこのこと漏れぬるものならば、行綱まづ失われなんず(殺されるにちがいない)。 他人の口より漏れぬさきに、返り忠して命生きん」と思ふ心ぞつきにける。

 五月二十五日の夜ふけ人しずまって、入道相国(平清盛)の宿所西八条へ、多田の蔵人行きむかって、「行綱こそ申し入るべきこと候うて参り候へ」と申し入れたりければ、「なにごとぞ。聞け」とて、主馬の判官盛国を出だされたり。

 行綱「まったく人してかなふまじきにこそ」と申すあひだ、入道中門の廊に出であひ対面あり。「こよひははるかにふけぬらんに、ただ今なにごとに参りたるぞ」とのたまへば、「さん候。昼は人目しげう候ふほどに、夜にまぎれて参り候。新大納言成親の卿、そのほか院中の人々このほど兵具をととのへ、軍兵をあつめられしこと、聞こしめされ候ふや」。・・・・・・

                   (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 <あらすじ>  
    明雲先座主を奪還されたことを耳にした後白河上皇(法皇)は、
    憤懣やるかたない思いであった。

    新大納言・成親卿は、平家打倒の相談ごとや準備が、議論ばかりで
    ちっとも進まない有様のなか、贈り物などをして一番頼りにしていた
    多田の蔵人(源)行綱であったが、この行綱は、「この謀叛は駄目だ!」
    と思い、夜更けに平清盛邸にかけこみ、平家討伐の謀叛の計画が
    あることを密告し、成親を裏切ったのである。

    清盛は、すぐさま家来に指示して、その夜のうちに数千騎の軍勢を集め、
    あくる六月一日、成親を初め、法勝寺の俊寛僧都、平判官康頼西光法師
    
など、主だった者を矢つぎばやに引っ捕えるという手をうったのである。

  天台座主・明雲を流罪に処した上皇、西光法師側は、山門(比叡山)の悪僧たちの
”先座主奪還”という大事件に、「後白河院側」も「叡山側」も不穏な睨み合いの真っ最中
であった、その時に「清盛」は、鹿が谷(俊寛僧都の山荘)の陰謀者たちを一網打尽に捕
えて、西光法師を斬首したのをはじめ、次々に処断したため、後白河院側は側近勢力が
潰滅してしまうのである。

           蜜月関係にあった、「上皇」と「清盛」との決定的な対立であった。
           

第十二句 「明雲帰山」(めいうんきざん)

2006-04-05 15:39:52 | Weblog
            奪還、帰山をためらう「明雲」に「祐慶法師」は叱り励ます

     <本文の一部>
 山門には、大衆、大講堂の庭に三塔会合して僉議しけるは、「そもそも伝教、慈覚、智証大師、義真和尚よりこのかた、天台座主はじまりて五十五代にいたるまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦十三年(794)十月に皇帝(桓武天皇)は帝都をたて(平安遷都)、大師は当山によぢのぼり、四明の教法をひろめ給ひしよりこのかた、五障の女人あと絶えて(女人の出入りを禁じた)三千の浄侶居を占めたり。峰には一乗(法華経)読誦年ふりて麓には七社の霊験日あらたなり。・・・・・・・

 「その儀ならば、行きむかって貫首(明雲)をうばひたてまつれや」と言ふほどこそあれ、雲霞のごとく発向す。あるいは志賀、辛崎の浜路に歩みつづきける大衆もあり、あるいは山田、矢橋の湖上に舟おし出だす衆徒もあり。
 おもひおもひ、心々にむかひければ、きびしかりつる領送使(流人を配所に護送する役人)、座主をば国分寺に捨ておきたてまつり、われ先にと逃げさりぬ。・・・・

 ここに西塔の法師、戒浄坊の阿闍梨祐慶といふ悪僧(剛強の者という意)あり・・・・

 先座主の御前にづんと参り、大の眼にてしばしにらまへて申しけるは、「あっぱれ、不覚の仰せどもかな。その御心にてこそ、かかる御目にもあはさせ給へ。とくとく召され候へ」と申しければ、先座主あまりのおそろしさににや、いそぎ乗り給ふ。大衆取り得たてまつるうれしさに、いやしき法師、童にはあらねども、修学者たち、をめき叫んで舁いて、輿の轅(ながえ)も、長刀の柄も、くだけよと取るままに、さしもさがしき東坂本を、平地を歩ぶがごとくなり。

            (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 天台座主・明雲が、流罪に処せられ配所に護送される途中を、多数の大衆たちが奪い返しに押しかけたため、護送の役人たちは明雲を近江・国分寺に置いたまゝ逃げてしまうのであった。

 明雲は僧たちに向かい、「身にあやまることの無い私が、無実の罪で遠流をうけるのは、前世の宿業である、皆の気持ちは有難いが”勅勘”の身であるから、このまま急いで山に帰りなさい」と諭すのである。

 西塔の祐慶法師は、ためらう明雲先座主に「そんな弱いお気持ちだからこんな目に遭はれるのです。早くお乗りなさい!」と叱り促す。

 明雲は、その勢いにおそれて輿に乗ると、喜び勇んだ大衆たちは物凄い速さで比叡山延暦寺へと駆け上り帰山してしまうのであった。

 
       ”祐慶法師”は、勅勘の流人を奪回したことの首謀者として、たとえ
       牢獄に繋がれようと、流罪になろうと斬首されようと、この世の
       面目、冥途の土産であると、涙を流すのである。