* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第六十五句「玄の沙汰」(げんばうのさた)

2009-03-06 09:05:18 | 日本の歴史

 「広嗣の供養」の際の導師・玄の首を持ち去る広嗣の武者姿の亡霊

<本文の一部>

  平家は、去んぬる四月に北国より下りしときは、十万余騎と聞こえしが、
 今五月下旬に帰り上るには、わずかにその勢三万余騎。さしも花やかにいで
 たちて都をたちし人々の、いたずらに名のみ残し、越路の末の塵となるこそ
 かなしけれ。

  入道の末の子三河守知度も討たれ給ひぬ。忠綱、景高もかへらず、季国、
 長綱も討たれぬ。「『流れを尽くしてすなどるときんば(魚を取り尽くす時
 は)多くの魚ありといへども、明年には魚なし。林を焼いて狩りするときは
 多くの獣ありといへども、明年には獣なし』と、のちを存じて少々は残さる
 べきものを」と申す人もおほかりけり。

  飛騨守景家は、「最愛の嫡子景高討たれぬ」と聞こえしかば、臥ししずみ
 て嘆きけるが、しきりにいとま申すあひだ(暇を頂きたい旨を願い出て)、大
 臣殿(宗盛)ゆるされけり。やがて出家して、うち臥すこと十余日ありて、つ
 ひに思い死にけれ。

  これをはじめとして、親は子を討たせ、子は親を討たせ、妻は夫におく
 れて、家々には、をめきさけぶ声おびたたし。北国のいくさにうち負けて
 都へ帰り上りけり。

  六月一日、蔵人の左衛門権佐定長、仰せをうけたまはって、祭主神祇権
 少副大中臣の親俊を殿上のおり口へ召され、「兵革をしずめんがために、
 大神宮へ行幸なるべき」よし仰せ下さる。

  大神宮と申すは、高天の原より降らせ給ひて、大和の国笠縫の里にまし
 ましけるを、十一代の帝垂仁天皇二十五年丙辰三月に、伊勢の国五十鈴の
 川上、下津石根に大宮柱を広う敷き立てて、祝ひそめたてまつりしよりこ
 のかた、日本六十余州、三千七百五十余社の神祇冥道のうちには無双なり
 、されども代々の帝の臨幸はいまだなかりけり。

  奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛の少
 将兼太宰少弐広嗣といふ人あり。天平十五年十月に、肥前の国松浦の郡に
 して、十万の凶賊をかたらひて、国家をあやぶめんとす。これによって大
 野の東人、広嗣が討手に向かふ。その祈りのために、帝はじめて伊勢へ行
 幸なるとかや。広嗣討たれてのち、その亡霊荒れて、おそろしき事ども多
 かりけり。

       (カッコ(  )内は本文ではなく、注釈です。)
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<あらすじ>
 (1)平家は、去る3月(寿永二(1183))に北国に下った折には、十万余騎も
    の大軍勢であったのが、北陸の戦いで惨敗し都に帰りついたものは
    わずかに三万余騎(絵巻では二万余騎)となってしまった。

     故・清盛の末子・知度(とものり)をはじめ、忠綱景高季国
    長綱など名だたる武将も相次いで討たれ、巷では“平家も少しは
    兵力を温存すべきだった・・・”と、噂する人も出てくる始末で
    あった。

 (2)一昨年に清盛が亡くなった時に、出家した飛騨守・景家は、この度
    の戦で子の景高を失い、悲嘆の思いが積もって、ついに嘆き死んで
    しまった。
     これをはじめとして、親は子に先立たれ、妻は夫に死別してそれ
    ぞれ嘆き悲しむこと限りなく、京中の家々は門戸を閉ざし念仏を唱
    え、泣き叫ぶ声が満ちあふれていたという。

 (3)45代・聖武帝の御代に、藤原不比等(左大臣)の孫で、太宰の少弐
    広嗣が北九州で乱を起こし(740)、大野東人(あづまびと)が征討
    将軍として九州に向かった時、広嗣滅亡祈願のために帝が伊勢大神
    宮に行幸されるということになったが、広嗣が討たれた後も亡霊と
    して暴れまわったので、大宰府の観世音寺において玄僧正を導師
    として供養が行われた。

     ところが、玄僧正が高座に上がると一天にわかにかき曇り、雷
    が轟いて僧正の上に落ちかかり、その首をもぎ取って雲の中に逃れ
    入ったという。これは玄広嗣を調伏(祈祷によって呪い殺す)し
    たためだ、ということであった。
     このため、広嗣の霊を松浦の鏡の宮にお祀りしたという。 

 (4)52代・嵯峨天皇の御代に、先帝の(51代)平城上皇の復位を狙った
    “薬子の乱”(くすこのらん)が起きる(810)が、こと敗れて藤原薬子
    
は毒死するという事件があった。
    (薬子:(50)桓武帝の時に暗殺(785)された藤原種継の娘である)

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