* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二十三句 「御産の巻」(ごさんのまき)

2006-05-07 12:35:52 | Weblog
                   皇子ご誕生に、声を上げて泣く清盛 入道

          <本文の一部>
  同じき十一月十二日(治承二年(1178))の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿(藤原基房)をはじめたてまつりて、太政大臣(師長)以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。

 「大治二年(1127)九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。(むごいことだ)「御産平安、皇子御誕生あるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。

 全玄法印、これを承りて、敬白す。(謹んで読み上げる)
神社は大神宮をはじめたてまつりて二十余箇所、仏所は、東大寺、興福寺以下十六箇所へ御誦経あり。御誦経のお使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より東南庭をわたり、西の中門に出づ。めずらかりし見物なり・・・・・・・・

  かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ(陣痛)給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。入道相国も二位殿も胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。(呆然としていた)・・・・・・・・

  重衡の卿、そのときは、中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子御誕生候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇をはじめたてまつり、太政大臣以下の卿相すべて堂上、堂下おのおの、助修(験者の助手)、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしずまりやらざりけり。

  入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。よろこび泣きとはこれをいふべきにや・・・・・・・・・

             (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    <あらすじ>
  第八十代・高倉帝と中宮・平徳子に皇子ご誕生のくだりです。

 (1)池殿(清森の弟・頼盛の邸)にて、中宮・徳子 の産みの苦しみの中、後白河法皇
    をはじめ関白(基房)、太政大臣(師長)などの大勢の公卿のひしめく有様が描か
    れている。

 (2)御産の平安と皇子ご誕生を願い、高僧、貴僧がうち並び各種のご祈祷を修し、
    なかんづく後白河法皇 は、中宮の錦のとばり近くに御座あって千手経を声高
    に唱えられる。

 (3)皇子ご誕生(言仁親王、のちの八十一代・安徳天皇)で、清盛 は嬉しさのあまり声を
    あげて泣き、重盛 は御産行事の祝詞とともに、”金銭”を献じ、魔除けの法などを
    行う。(”金”で鋳造した銭)

 (4)御産に六波羅に参集した人々の名が列挙されていて、関白、太政大臣、左右大臣、
    内大臣などその数三十三人であった。

 (5)清盛 は、娘・徳子 が高倉帝の中宮になられた折に、皇子に恵まれること、そして皇位
    にたてて、自らは外戚とならんことを願い、厳島の神に祈ったが遂にこれが叶うこと
    になったのである。

        ”徳子”十五歳で入内し、七年のあと二十二歳にして、当時としては遅い
         お産であり、すでに高倉帝は他の女性との間に二人の姫宮があり、
         焦りもあったであろう清盛としては本音で嬉しかったのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿