* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第百四句『壇の浦』

2012-10-21 13:07:17 | 日本の歴史

  源氏側に嫡男を生け捕られている阿波の民部成能は、
    ついに平家を裏切って源氏に味方し、平家の船に討ちかかる・・・

<本文の一部>
 同じく二十四日の卯の刻に、源平鬨をつくる。うえは梵天にも聞
こえ、下は海龍神
までもおどろきぬらんとぞおぼえたる。門司、赤
間、壇の浦は、みなぎりて落つる潮
なれば、源氏の船は潮に引かれ
て心ならず引き落さる。

 平家の船は潮に追うてぞ来たりける。沖は潮の早ければ、なぎさ
について、梶原、
敵の船の行きちがふを熊手うちかけて、乗りうつり、
乗りうつり、散々に戦ふ。分捕
あまたしたりければ、その日の
功名の一にぞつきたりける・・・・・・・・

・・・・・平家は千余艘の船を三手に分かつ。先陣は、山鹿の兵頭
次秀遠五百余艘
二陣は、松浦党三百余艘にて参り給ふ。先陣にすす
みたる山鹿の兵頭次秀遠がはかりごととおぼえて、精兵を五百人そ
ろへて、五百艘の船の舳に立て、射させけ
るに、鎧も、盾も射通さる。
源氏の船射しらまされて漕ぎしりぞく。

 平家はこれを見、「御方すでに勝ちぬ」とて、攻め鼓を打って、
よろこびの鬨を
つくる。

 陸にも源氏の軍兵七千余騎ひかえて戦ひけり。そのうちに相模の
国の住人、
三浦の和田の小太郎義盛、船には乗らで、これも馬に乗り、
ひかへて戦ひけるが、
三町がうちの者は射はづさず。三町余が沖に
浮かび
たる新中納言の船を射越し
て、白箆の大矢を一つ波の上
にぞ射浮かべたる。

 和田の小太郎、扇をあげて、「その矢こなたへかへし賜ばん」と
ぞ招きける。

新中納言、この矢を召し寄せて見給へば、白箆(しらの)に鵠の羽に
て矧いだる
矢の、十三束三伏(じゅうさんぞくみつぶせ)ありけるが、

沓巻のうへ一束おきて、
「三浦の和田の小太郎義盛」と漆をもって
書きたりけり・・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 元暦二年(1185)三月二十四日の午前六時ごろ、源氏平氏共
   に鬨(とき)の声を上げて、激しい潮流の中で平家側では新中納
   言知盛の檄が飛ぶ!

(2) 平の知盛は、大臣殿(おほいどの)(宗盛)に、『今日は侍の士
   気が大へん盛んですが、ひとり阿波の民部成能(しげよし)だけ
   が“変心”したのか闘志が見えません。彼の首を刎(は)ねたい
   ものです』と進言するが、宗盛はそのことを信じられず、『証
   拠も無いのに首は斬れない』と、許さなかった。

(3)千余艘の船を三手に分けた平家勢は、先陣に“強弓精兵”の者
   を配して連射に次ぐ連射で、これにより源氏方は射すくめられ
   船団を後退させた。これを見た平家勢は勝ち誇って勝鬨の陣太
   鼓を打ち鳴らした。

    しかし源氏の中には陸地にいて馬に乗り、海中の平家の船の
   兵を射落とす者あり。平家側もこれに呼応して射返し、源平共
   に強弓の猛者たちが激しく戦うさまを描写する。

(4) 源平乱れあい数時間の後、この間に阿波の民部成能は、平家
   側にありながら、嫡男の田内左衛門(でんないざえもん)を源氏
   に生け捕られている為、親子の情愛耐え難く遂に平家を裏切り
   源氏方に寝返ったのであった。

    これを見た四国九州の兵たちは、平家に利あらずと忽ちに
   一斉に源氏方に寝返り、平家勢の多数の将兵が射倒され斬り伏
   せられて船底にばたばたと倒れたのであった。

 

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