* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九十四句『重衡東下り』

2011-10-10 10:13:21 | 日本の歴史

            鎌倉に護送される“重衡”(逢坂の辺か・・)  囚人として“板輿”に乗せられ・・・・

<本文の一部>

  鎌倉の前(さき)の右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝、しきりに申されければ、
三位(さんみ)の中将重衡(しげひら)をば、同じき三月十三日、関東へこそ下さ
れけれ。梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)、土肥(とい)の次郎が手よ
り受けとって、具したてまつりてぞ下りける。

 西国より生捕(いけど)られて、故郷へ帰るだにかなしきに、いつのまにかまた
東路(あづまぢ)はるかにおもむき給ひけん。心のうちこそあはれなれ。

 粟田口(あわたぐち)をうち過ぎて、四の宮河原(しのみやがわら)にもなりけれ
ば、むかし延喜(えんぎ)の第四(だいし)の王子蝉丸(せみまる)の、関の嵐に心
をすまし、琵琶(びわ)を弾(だん)じ給ひしに、、博雅(はくが)の三位(さんみ)、
夜もすがら、雨の降る夜も、降らぬ夜も、三年(みとせ)があひだ、琵琶の秘曲を
伝えけん、藁屋(わらや)の床(とこ)の旧跡(きゅうせき)も、思ひやられてあはれ
なり。

 逢坂山(おうさかやま)をうち超えて、瀬田の長橋駒もとどろと踏みならし、雲雀
(ひばり)のぼれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞(かすみ)にくもる鏡山(か
がみやま)、比良の高根を北にして、伊吹が岳も近づきぬ・・・・・・・・・・・

       (注) ( )内は、本文ではなく“注釈記入”です。

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<あらすじ>

(1) 都の後白河院に、頼朝は再三“重衡の引き渡し”を要求し、遂に梶原景時
   
が警固して都から鎌倉へ下る重衡の一行。

     道中の池田の宿(現静岡県磐田市)で遊女・熊野(ゆや)との歌のやり
   とりがある。(かつて宗盛の寵愛を受けた歌の名手である。)

   そして、小夜の中山清見が関足柄山を越えてやがて鎌倉に入る。

(2) 重衡に対面した頼朝は、「南都炎上については故入道殿(平清盛)の
   命令か、それともそなたの一存か?」と尋ねる。

    重衡は、「清盛の考えでも、重衡の意図するところでも無く、軍勢での不慮
   のできごとで止むを得なかったこと。源平は互いに朝廷を守護した昔から、
   平家の栄えたこと。今は平家の運が傾き囚(とら)われの身になった、この上
   は早々に首を刎ねて欲しい・・・」と述べて、あとは黙して一言も語らなかった
   と言う。

(3) 狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)に預けられた重衡宗茂は湯殿を
   作り、頼朝の差し向けた女房が世話をして入浴し身を浄めるのであった。

    重衡の“出家”の願いを、女房から聞いた頼朝は、朝敵となった身で出家
   はまかりならぬ!と許さなかった。

(4) 世話をした女房が“可憐”であると・・・重衡が言ったと聞いた頼朝は、かの
   女房を着飾らせて重衡のもとへ遣わし、音曲を用意して宗茂(むねもち)も
   酒肴を勧めしきりにもてなすのであった。
   
     あまり興味のなさそうな重衡の様子に、女房は今様(はやりうた)を吟詠
   し、見事に歌い終えるのを聞いた重衡は初めて盃を傾け、そして自ら琵琶を
   弾きはじめるのであった。

(5) 実はこの時、頼朝重衡琵琶の撥音、今様等の口ずさみの見事さを
   何と夜を徹して隣で立ち聞きをしていたのであった。
 そしてその優美で優れ
   たる人となりに感嘆したと、後に人に語ったと言うことである。

(6) そして、後に重衡が南都の僧たちに引き渡されて、“斬首”されたことを聞い
   た千手の前は、ただちに尼となり重衡の菩提を弔ったと伝えられる。

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         源義朝(1123~1160)   平宗盛(1147~1185)    平重衡(1157~1185)

   池田の宿の長“藤原重徳”が、紀州の熊野権現に詣でて授かった子ゆえ
   “熊野(ゆや)”と名付けたと・・・・・伝えられる。

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