* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第百二句『扇の的』

2012-06-12 19:45:31 | 日本の歴史

                         那須の与市が見事に“扇の的”を射抜く

<本文の一部>

 阿波、讃岐に、平家をそむき、源氏を待ちける者ども、かしこの洞、ここの谷
より馳せ来たって加はる。源氏の勢ほどもなく三百余騎にぞなりにける。「今日
は日暮れぬ。勝負は決せじ、明日
のいくさ」とさだめて、源氏引きしりぞかんと
するところに、沖の方より尋常にかざりたる小船一艘、
なぎさに寄す。

 「いかに」と見るところに、赤き袴に柳の五衣着たる女の、まことに優なりけるが、
船中より出でて
みな紅の扇の日出だしたるを、船ばたにはさみ立て、陸へ向か
ひてぞ招きける。

 判官、後藤兵衛を召して、「あれはいかに」とのたまへば、「射よとこそ候ふらめ。
ただしはかりご
とごさんなれ。大将軍さだめてすすみ出でて、傾城(けいせい)を
御覧ぜんずらん。そのとき手だれ
をもって射落さんと候ふか。扇をばいそぎ射さ
せらるべうや候ふらん」と申しければ、「射つべき者
はなきか」。「さん候。下野の
国、那須の太郎助孝が子に、余市助宗こそ小兵なれども手はきいて
候へ」。「証
拠はあるか」。「さん候。翔け鳥を、三よせに二よせはかならずつかまつる」と申す。

 「さらば召せ」とて召されたり。

 余市そのころ十八九なり。褐(かちん)に、浅葱(あさぎ)の錦をもってはた袖いろ
へたる直垂に、
萌黄(もえぎ)にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、中黒の矢の、
その日のいくさに射残したるに、薄切斑(うすぎりふ)に鷹の羽はぎまぜたるぬため
の鏑差し添へたり。

 二所藤(ふたどころどう)の弓脇ばさみ、兜をぬいで高紐にかけ、御前にかしこま
る。判官、「いか
に余市、傾城のたてたる扇のまん中射て、人にも見物させよ」との
たまへば、余市、「これを射候は
んことは不定に候。射損じ候ふものならば、御方
の長ききずにて候ふべし。自余の人ににも仰せつ
けらるべうや候」と申せば、判官
怒って、「鎌倉を出でて西国へ向かはん殿ばらは、義経が命をそむ
くべからず。
  それに子細を申さん殿ばらは、いそぎ鎌倉へ帰りのぼらるばし。そのうへ多くの
中より
一人選び出ださるるは、後代の冥加なりとよろこばざる侍は、何の用にかた
つべき」とぞのたまひける。

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<あらすじ>

(1) 源氏勢の前に現れた平家側の小船一艘、紅色金地の日輪を描いた“
       をふなばたに立て、
   これを射て見よ・・・とのさそい・・・。

    義経は、後藤実基と相談し射手に“那須の与市”を選ぶ。

(2) 与市は、揺れ動く船上の小さな的に天を仰いで神仏に祈り、“ひょう”と射て
       見事に“”を射抜く。
これを見た源平双方の兵は、どよめいて褒めそやした。

(3) その直後に、長刀(なぎなた)を持って現れた平家武者ひとり、船の上で舞
        い踊る。 義経の命
を受けた“与市”は、この武者をも射抜き、源氏側の兵の
        気勢は上がるばかりであった。

(4) 音もなく沈んでいた平家側から、船に乗った武者たちが源氏側の水際に上
        がり、源氏の兵士たち
を“けしかけ”る。 すると義経の下知で武蔵の水尾谷
        (みおのや)四郎をはじめ五騎ばかりが駆け
入るが、先頭の水尾谷が馬を射
        られて危うく飛び降りると、平家の豪傑・上総の悪七兵衛景清が、
その水尾
        の兜を掴み取ろうと揉みあい、遂には兜の“しころ”を引きちぎって水尾谷
        は危うく窮地
を脱して味方の中へ戻ったのであった。

    義経は、平家の剛の者・悪七兵衛景清を逃すなと大声を上げて、自ら馬を
      走らせ三百余騎も
これに続き、平家側も“景清”を討たすなと、しばし激しく戦う。

(5) 敵陣に深入りしすぎた義経を、平家側は船の中から熊手で引き落とそうとし、
       義経ははずみで
弓をかけ落とされて、必死に鞭の先で取り戻そうとする。源
       氏の兵の制止にも耳を貸さず、遂に
取り戻すのであった。

    義経は、叔父の鎮西八郎為朝のような剛弓ならとに角、こんな弱い弓を拾
       われて、“笑いもの”
にされるのが残念だと、その理由を打ち明ける。 

    今日は暮れぬ、戦は明日と定めて源氏は引き退き高松に陣を取る。

(6) 源氏はこの三日間、“寝て”おらず、皆疲れ切って寝入ってしまう。 平家側
       では「夜討ち」を図った
ものの、先陣争いをしている内に夜が明けてしまう。

    もし“夜討ち”が実行されていれば、源氏はその夜のうちに滅ぶ筈であった
       のに、平家の“運の無さ
を象徴するできごとであったと・・・・・・・・・。