那須の与市が見事に“扇の的”を射抜く
<本文の一部>
阿波、讃岐に、平家をそむき、源氏を待ちける者ども、かしこの洞、ここの谷
より馳せ来たって加はる。源氏の勢ほどもなく三百余騎にぞなりにける。「今日
は日暮れぬ。勝負は決せじ、明日のいくさ」とさだめて、源氏引きしりぞかんと
するところに、沖の方より尋常にかざりたる小船一艘、なぎさに寄す。
「いかに」と見るところに、赤き袴に柳の五衣着たる女の、まことに優なりけるが、
船中より出でてみな紅の扇の日出だしたるを、船ばたにはさみ立て、陸へ向か
ひてぞ招きける。
判官、後藤兵衛を召して、「あれはいかに」とのたまへば、「射よとこそ候ふらめ。
ただしはかりごとごさんなれ。大将軍さだめてすすみ出でて、傾城(けいせい)を
御覧ぜんずらん。そのとき手だれをもって射落さんと候ふか。扇をばいそぎ射さ
せらるべうや候ふらん」と申しければ、「射つべき者はなきか」。「さん候。下野の
国、那須の太郎助孝が子に、余市助宗こそ小兵なれども手はきいて候へ」。「証
拠はあるか」。「さん候。翔け鳥を、三よせに二よせはかならずつかまつる」と申す。
「さらば召せ」とて召されたり。
余市そのころ十八九なり。褐(かちん)に、浅葱(あさぎ)の錦をもってはた袖いろ
へたる直垂に、萌黄(もえぎ)にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、中黒の矢の、
その日のいくさに射残したるに、薄切斑(うすぎりふ)に鷹の羽はぎまぜたるぬため
の鏑差し添へたり。
二所藤(ふたどころどう)の弓脇ばさみ、兜をぬいで高紐にかけ、御前にかしこま
る。判官、「いかに余市、傾城のたてたる扇のまん中射て、人にも見物させよ」との
たまへば、余市、「これを射候はんことは不定に候。射損じ候ふものならば、御方
の長ききずにて候ふべし。自余の人ににも仰せつけらるべうや候」と申せば、判官
怒って、「鎌倉を出でて西国へ向かはん殿ばらは、義経が命をそむくべからず。
それに子細を申さん殿ばらは、いそぎ鎌倉へ帰りのぼらるばし。そのうへ多くの
中より一人選び出ださるるは、後代の冥加なりとよろこばざる侍は、何の用にかた
つべき」とぞのたまひける。
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<あらすじ>
(1) 源氏勢の前に現れた平家側の小船一艘、紅色に金地の日輪を描いた“扇”
をふなばたに立て、 これを射て見よ・・・とのさそい・・・。
義経は、後藤実基と相談し射手に“那須の与市”を選ぶ。
(2) 与市は、揺れ動く船上の小さな的に天を仰いで神仏に祈り、“ひょう”と射て
見事に“扇”を射抜く。これを見た源平双方の兵は、どよめいて褒めそやした。
(3) その直後に、長刀(なぎなた)を持って現れた平家の武者ひとり、船の上で舞
い踊る。 義経の命を受けた“与市”は、この武者をも射抜き、源氏側の兵の
気勢は上がるばかりであった。
(4) 音もなく沈んでいた平家側から、船に乗った武者たちが源氏側の水際に上
がり、源氏の兵士たちを“けしかけ”る。 すると義経の下知で武蔵の水尾谷
(みおのや)四郎をはじめ五騎ばかりが駆け入るが、先頭の水尾谷が馬を射
られて危うく飛び降りると、平家の豪傑・上総の悪七兵衛景清が、その水尾
谷の兜を掴み取ろうと揉みあい、遂には兜の“しころ”を引きちぎって水尾谷
は危うく窮地を脱して味方の中へ戻ったのであった。
義経は、平家の剛の者・悪七兵衛景清を逃すなと大声を上げて、自ら馬を
走らせ三百余騎もこれに続き、平家側も“景清”を討たすなと、しばし激しく戦う。
(5) 敵陣に深入りしすぎた義経を、平家側は船の中から熊手で引き落とそうとし、
義経ははずみで弓をかけ落とされて、必死に鞭の先で取り戻そうとする。源
氏の兵の制止にも耳を貸さず、遂に取り戻すのであった。
義経は、叔父の鎮西八郎為朝のような剛弓ならとに角、こんな弱い弓を拾
われて、“笑いもの”にされるのが残念だと、その理由を打ち明ける。
今日は暮れぬ、戦は明日と定めて源氏は引き退き高松に陣を取る。
(6) 源氏はこの三日間、“寝て”おらず、皆疲れ切って寝入ってしまう。 平家側
では「夜討ち」を図ったものの、先陣争いをしている内に夜が明けてしまう。
もし“夜討ち”が実行されていれば、源氏はその夜のうちに滅ぶ筈であった
のに、平家の“運の無さ”を象徴するできごとであったと・・・・・・・・・。