<本文の一部>
同じく(治承五年・1181)閏二月二十日、五条の大納言邦綱の卿も失せ給
ひぬ。平大相国(清盛)とさしもちぎり深く、心ざし浅からざりし人なり。
せめてのちぎりの深きにや、同じ日に病ひづきて、同月にぞ失せられける。
この大納言と申すは、中納言兼輔の卿の八代の末葉、前の右馬助盛邦の
子なり。進士の雑色にて侍はれしが、近衛の院御在位の時は、公家に伺候
せられけり。
仁平(1156~1158)のころ、四条の内裏にはかに焼亡出できたり。南殿に出御な
りしかども(近衛院が紫宸殿にお出になった)、近衛司一人も参らず、あきれさせ
給ふところに、かの邦綱手輿を舁いて参りたり・・・・・・
・・・・・主上(近衛院)御感あって(感心されて)、「かかるさかさかしき者こそあれ」
とて召し出だされ、そのときの殿下(当時の関白殿下)、法性寺殿に仰せければ、
御領あまた賜びなんどして、召し使はれけるほどに・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、注釈の記入です。
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<あらすじ>
<五条の大納言・邦綱が亡くなる>
治承五年(1181)閏二月二十日、藤原邦綱の卿が亡くなった。
平清盛との深い付き合い・・・・この世の親友として、この人(邦綱)以上の者は
いない・・・と云わしめたほどの仲であった。 奇しくも清盛と同じ日に病にかゝ
り、同じ月に没したのであった。
”清盛の伝染性の病に感染したのではないか?とも云われる。”
<邦綱、お取立ての経緯>
近衛帝(76代)のとき、内裏の火災の折に、近侍の者も参らぬという非常の際
に、邦綱(当時、大学寮の雑役を勤めていた)が、手輿を舁いて参り、帝をお乗
せして避難した。その気転・気配りに大へん感心なさって、褒美を与えて、お取
立てになったという。
<邦綱の先祖(高僧)のお話>
邦綱の先祖(・・・・とされる)に、戒律正しい高僧(如無)があり、宇多法皇に供奉
していた内大臣の子息が、風に烏帽子を飛ばされて困っていた折に、自らの袈
裟入れから烏帽子を取り出してさし出だし、奉った・・・・・との説話。
(当時、髪をあらわにすることは、たいへんな恥辱であった。)
<清盛と邦綱の、深い間柄>
清盛は、邦綱を無二の親友として、邦綱の子を一人養子として、名を”清邦”
と名乗らせ(丹後守・従四位下。一の谷の合戦で戦死)、又、清盛の子・重衡に
は、邦綱の姫が嫁でいる。
<邦綱の才覚あれこれ>
邦綱は、学問や詩歌にそれほど優れていたわけではなかったとされるが、
いろいろと頭の働く”邦綱”の人柄や、その才覚を印象づける幾つかの説話を
紹介し、述べている。
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きのうのニュースに、作家・池宮彰一郎さんの訃報がありました。
永らく日本経済新聞に連載された「平家」。
平清盛を”悪者”では無く、”開拓者”として描いた壮大な筋書き
に魅せられた一人として、素晴らしい”物書き”を失って、とても残
念な思いです。