* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八十二句「義経院参」

2010-08-17 14:05:22 | 日本の歴史

  後白河院の御所(六条殿)に入り、大膳大夫・業忠に宇治川の合戦の次第を
   言上する“義経”一行

<本文の一部>
 さるほどに、木曽左馬頭義仲は、「宇治、瀬田敗れぬ」と聞きしか
ば、「最後の御いとま申さん」とて、百騎ばかりにて院の御所六条殿
へ馳せ参る。「あはや、木曽が参り候ふぞや。いかなる悪行かつかま
つらん」とて、君も、臣も、おそれわななき給ふところに、「東国の
兵ども、七条河原までうち入りたる」よし告げたりければ、木曽門の
前よりとって返す。御所にはやがて門をさしけり。木曽は最愛の女に
名残を惜しまん」とて、六条万里の小路なる所にうち入りて、しばし
は出でもやらざりけり。

 新参したりける越後の中太家光といふ者あり。これを見て、「あれ
ほど敵の攻め近づいて候ふに、かくては犬死せさせ給ひなん。いそぎ
出でさせ給はで」と申しけれども、なほも出でやらざりければ、越後
の中太、「世は、かうござんなれ。さ候はば、家光は死出の山にて待
ちまゐらせん」とて刀を抜き、鎧の上帯切っておしのけ、腹切ってぞ
死にけり。

 木曽殿これを見給ひて、「これはわれをすすむる自害にこそ」とて
やがてうち出でられけれ。上野の国の住人、那波の太郎広澄を先とし
て、百五十騎には過ぎざりけり。

 六条河原へうち出でて見れば、東国の武者とおぼえて、三十騎ばか
り出で来る。その中に二騎進んで見えにけり。一騎は塩屋の五郎惟広
一騎は勅使河原の五三郎有直なり。塩屋が申しけるは、「後陣の勢を
や待つべき」。勅使河原申す様、「一陣破るれば、残党まったからず。ただ寄せよや」とて、をめいてかかる。「われ先に」と乱れ入る。あとより後陣続いたり。

 木曽殿これを見給ひて、いま最後のことなれば、百四五十騎轡を並
べて、大勢の中に駆け入る。東国の兵ども、「われ討ちとらん」と面
々にはやりあへり。両方火出づるほどこそ戦いけれ。

 九郎義経、兵どもに矢おもてふせがせて、「義経は院の御所のおぼ
つかなさに、守護したてまつらん」とて、まづわが身ともに、ひた兜
五六騎、六条殿に馳せ参る。

 大膳大夫業忠、六条の東の築垣にのぼって、わななく、わななく、
世間をうかがひ見るところに、東の方より武者こそ五六騎、のけ兜に
戦ひなって、射向の袖を吹きなびかせ、白旗ざっとさしあげ馳せ参る
・・・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 宇治川の合戦で、自軍が敗れたことを知った木曽義仲は、
   院の御所へ後白河院への最後のおいとま乞いもならず、自らは
   都での最愛の女性との名残りを惜しんでいた。

(2) 義仲を含む総勢百五十騎ほどの木曽勢は、追いついた東国
   の(頼朝の軍勢)大軍勢の中に駆け入り激戦となった。

(3) 頼朝勢の大将軍・九郎義経は、院の御所の情勢を案じて、
   わずか六騎で六条殿へ駆け付けた。
    築垣の上に登って様子を見ていた大膳大夫・業忠は、鎌倉
   の義経一行と知るやあまりの嬉しさに飛び降りて腰をしたた
   かに打ち、這うようにして後白河院の御前にこのことを申し
   上げすぐさま門を開いて義経一行を通したのであった。

(4) 後白河法皇は義経たちをそれぞれ名乗らせ、義経は鎌倉の
   頼朝の命を受けて木曽義仲勢を駆逐し、御所へ駆け付けた事
   の仔細を申し上げた。
    法皇は、木曽の残党の悪行を心配し義経に御所の守護を命
   じたのであった。
    義経が門を固める中に、ほどなくして二~三千騎が到着し
   万全の備えを敷いたのであった。

                 一方、義仲一行は主従わずか七騎となって
        賀茂の河原を北のほうへ落ちて行く・・・・

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