(上段)令旨を受ける伊豆の国・蛭が小島の頼朝、「何と、高倉の宮さまより、
この頼朝に令旨を下さるとな」と急ぎ文を開けて見る。
(下段)東国に出発する源行家の一行。
<本文の一部>
一院第二の皇子以仁(もちひと)の親王と申すは、御母は加賀大納言季成の卿の御むすめ。三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。御歳十五と申せし永万元年(1165)十二月十六日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず・・・・・・・
治承四年(1180)卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道(頼政)、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の宮にてわたらせ給ふ。いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず。宮にてわたらせ給ふことを、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさま見るに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし・・・・・・」とて申しつづく。
「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基・・・・・伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝(さきのひょうえのすけ よりとも)。・・・・・故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。・・・・君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道(頼政)こそ年寄って候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。
熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ、「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。同じき四月二十八日、都をたって、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨を奉る。「信太の三郎先生(せんじょう)義教にとらせん」とて、常陸の国信太の浮島へ下る。「木曾の冠者義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。・・・・・・・
さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。
さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、たりふし(懇願)申されければ、入道相国(清盛)、やうやう思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 五歳の弟宮(のちの高倉天皇)が親王宣旨を受ける直前に、十五歳の以仁王は、
許しの無いまま勝手に元服の式を行い、皇位継承者としてはそれなりの
立場にたったが、当然に”高倉天皇”の即位をもくろむ平家側からは厳しく警戒
することになる。
(2) 治承四年(1180)四月、源三位・頼政は高倉の宮・以仁王の御所に参上し、
平家への謀叛を薦めるのであった。
(3) そして、各地の源氏諸流の武士たちの名を挙げて、以仁王の”平家追討”の令旨
を頂ければ、直ちに諸国へ挙兵の馬を走らせましょう・・・・と申し上げる。
以仁王は、迷った末に結局”計画”を実行に移し始めるのであった。
(4) 源為義の十男、十郎義盛を行家と改名し、令旨の御使いとして東国の各地に
遣わされる。治承四年(1180)の四月二十八日のことである。
五月十日には、伊豆の国・蛭が小島に流されていた源頼朝に対面し、更には
木曾の義仲にも令旨を授けるのであった。
(5) 後白河法皇は、鳥羽殿へ遷されてから早くも足掛け二年が過ぎ、平宗盛の再三
の懇請もあって、清盛もようやく思い直して、五月十三日、法皇を、鳥羽殿から
故美福門院の御所へお移し申し上げた。
(6) この間に、熊野の別当・湛増(永年、平家に縁故のあった勢力)の、源平の合戦の
途中で源氏側に寝返るというお話もある。
(平)徳子(建礼門院)
|
(平)滋子(建春門院) |---言仁親王(安徳天皇)(1178~1185)
| |
|------------憲仁親王(高倉天皇)(1161~1181)
|
後白河院(1129~1192)
|
|------------守覚法親王(仁和寺御室)
| |
(源)成子 |----以 仁 王(高倉の宮)(1151~1180)
|
|----亮子内親王
|
|----式子内親王
この頼朝に令旨を下さるとな」と急ぎ文を開けて見る。
(下段)東国に出発する源行家の一行。
<本文の一部>
一院第二の皇子以仁(もちひと)の親王と申すは、御母は加賀大納言季成の卿の御むすめ。三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。御歳十五と申せし永万元年(1165)十二月十六日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず・・・・・・・
治承四年(1180)卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道(頼政)、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の宮にてわたらせ給ふ。いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず。宮にてわたらせ給ふことを、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさま見るに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし・・・・・・」とて申しつづく。
「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基・・・・・伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝(さきのひょうえのすけ よりとも)。・・・・・故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。・・・・君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道(頼政)こそ年寄って候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。
熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ、「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。同じき四月二十八日、都をたって、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨を奉る。「信太の三郎先生(せんじょう)義教にとらせん」とて、常陸の国信太の浮島へ下る。「木曾の冠者義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。・・・・・・・
さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。
さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、たりふし(懇願)申されければ、入道相国(清盛)、やうやう思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 五歳の弟宮(のちの高倉天皇)が親王宣旨を受ける直前に、十五歳の以仁王は、
許しの無いまま勝手に元服の式を行い、皇位継承者としてはそれなりの
立場にたったが、当然に”高倉天皇”の即位をもくろむ平家側からは厳しく警戒
することになる。
(2) 治承四年(1180)四月、源三位・頼政は高倉の宮・以仁王の御所に参上し、
平家への謀叛を薦めるのであった。
(3) そして、各地の源氏諸流の武士たちの名を挙げて、以仁王の”平家追討”の令旨
を頂ければ、直ちに諸国へ挙兵の馬を走らせましょう・・・・と申し上げる。
以仁王は、迷った末に結局”計画”を実行に移し始めるのであった。
(4) 源為義の十男、十郎義盛を行家と改名し、令旨の御使いとして東国の各地に
遣わされる。治承四年(1180)の四月二十八日のことである。
五月十日には、伊豆の国・蛭が小島に流されていた源頼朝に対面し、更には
木曾の義仲にも令旨を授けるのであった。
(5) 後白河法皇は、鳥羽殿へ遷されてから早くも足掛け二年が過ぎ、平宗盛の再三
の懇請もあって、清盛もようやく思い直して、五月十三日、法皇を、鳥羽殿から
故美福門院の御所へお移し申し上げた。
(6) この間に、熊野の別当・湛増(永年、平家に縁故のあった勢力)の、源平の合戦の
途中で源氏側に寝返るというお話もある。
(平)徳子(建礼門院)
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(平)滋子(建春門院) |---言仁親王(安徳天皇)(1178~1185)
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|------------憲仁親王(高倉天皇)(1161~1181)
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後白河院(1129~1192)
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|------------守覚法親王(仁和寺御室)
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(源)成子 |----以 仁 王(高倉の宮)(1151~1180)
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|----亮子内親王
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|----式子内親王
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