* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第三十三句「信連合戦」(のぶつらがっせん)

2006-05-31 13:01:47 | Weblog
            高倉の宮・以仁王(もちひとおう)の御所に押し寄せた検非違使庁
            の下人たちに、ひとり奮戦する長谷部信連(左上隅)

        <本文の一部>

  かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもって、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国(清盛)をりふし(たまたま)福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞くもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず、高倉の宮からめ取って、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。

  上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。追立の官人には、源大夫判官兼綱、出羽の判官光長うけたまはって、宮の御所へぞむかひける。源大夫判官と申すは、三位入道(頼政)の養子なり。しかるをこの人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによってなり。

  三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ・・・・・・「君の御謀叛、すでにあらわれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺(三井寺)へ入らせ給へ。入道(頼政)も子ども引き具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。

  宮(高倉の宮・以仁王)は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける・・・・・・・

  長兵衛は、御所の御留守に侍ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも(あれほど)御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや、(これは大へん)。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず(とても)御よろこびありて、「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける・・・・・・

  ・・・・夜半ばかりに、出羽の判官(光長)、源大夫判官(兼綱)、都合二百騎ばかりにて押し寄せたり。源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかえたり・・・・・・・

  長兵衛、「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんじらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉(さひょうえのじょう)長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける・・・・・

  ・・・・信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬ってまはるに、おもてを会はする者ぞなき。信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざっとぞおりたりける・・・・

  ・・・・・太刀の切っ先五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ会うたり。「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ・・・・・

  信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり・・・・・

  ・・・・平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり・・・・

 右大将(宗盛)、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。入道(清盛)も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちのは当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆(鳥取)の日野へぞ流されける。

  そののち源氏の世となりて、鎌倉殿(頼朝)より土肥の次郎実平に仰せてたずね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、志のほどをあはれみて、能登の国(石川)の御恩ありける(領地を賜る)とぞ聞こえし。

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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       <あらすじ>

(1) 長谷部信連は、”宮”の御所の留守に留まっていたが、「役人が来るから片付けよ!」
    と指図しながら、宮の秘蔵の笛「小枝」を見つけ、門を走り出て宮に追いつきお渡し
    した。

    高倉の宮は、大そう喜ばれ「私が死んだら、この笛を何としても棺におさめよ」と仰
    った。

(2) 追捕の役人が来るというのに、宮の御所に誰一人居ないというのも悔しい!、武士
    としては役人に言葉のひとつもかけて相手をしたいものだと、信連はすぐに取っ
    て返した。

(3) 長谷部信連ただ一人御所で待つところへ、平家の侍が二百騎ほど押し寄せる。
    信連「宮はこの御所にはいらっしゃらない」という、役人「それなら御所中をお探し
    しろ」と、信連「礼儀もわきまえぬ奴らだ、噂にも聞いているだろうが、私が長谷部
    信連だ、そばへ寄って怪我をするな!」と叫び、これを合図に平家の役人たちが、
    信連めがけてどっと討ちかかる。

    しかし、信連一人に斬りたてられて逃げまどい、たちどころに拾数人を斬り伏せるが、
    太刀も折れ自害しようとしたが腰刀も落してしまい、長刀で股を突かれて遂に
    生け捕られてしまう。

(4) 信連は、六波羅へ引き立てられ、宗盛が「宣旨のお使に悪口をいい、役人を殺害し
    たことは不埒である、事情を糾した後”処刑場”で首を刎ねよ!」というが・・・・

    信連は、「高倉の宮のお出でになるところは知らないし、たとえ知っていたとして
    も申さぬ。宮の御為に命を落すのであれば武士の面目、冥途の良い土産」と延べ、
    あとは一切口を開かなかったという。

(5) 並み居る平家の面々は、信連のあまりの豪胆さに”首を切るのは惜しい”と云い、
    ある者は、御所での警護の役人が止められなかった強盗六人を、信連ただ一人
    で討ちかかって、四人を斬り二人を生け捕ったという功名話を披露したりして、
    結局は宗盛も、清盛も「気持ちが改まったたら、当家に仕えよ」と、伯耆の国(鳥取)
    へ流罪とした。

    のち源氏の世となって、頼朝から能登の国(石川)に領地を賜ったということである。