高倉の宮・以仁王(もちひとおう)の御所に押し寄せた検非違使庁
の下人たちに、ひとり奮戦する長谷部信連(左上隅)
<本文の一部>
かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもって、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国(清盛)をりふし(たまたま)福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞くもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず、高倉の宮からめ取って、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。
上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。追立の官人には、源大夫判官兼綱、出羽の判官光長うけたまはって、宮の御所へぞむかひける。源大夫判官と申すは、三位入道(頼政)の養子なり。しかるをこの人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによってなり。
三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ・・・・・・「君の御謀叛、すでにあらわれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺(三井寺)へ入らせ給へ。入道(頼政)も子ども引き具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。
宮(高倉の宮・以仁王)は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける・・・・・・・
長兵衛は、御所の御留守に侍ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも(あれほど)御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや、(これは大へん)。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず(とても)御よろこびありて、「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける・・・・・・
・・・・夜半ばかりに、出羽の判官(光長)、源大夫判官(兼綱)、都合二百騎ばかりにて押し寄せたり。源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかえたり・・・・・・・
長兵衛、「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんじらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉(さひょうえのじょう)長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける・・・・・
・・・・信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬ってまはるに、おもてを会はする者ぞなき。信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざっとぞおりたりける・・・・
・・・・・太刀の切っ先五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ会うたり。「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ・・・・・
信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり・・・・・
・・・・平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり・・・・
右大将(宗盛)、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。入道(清盛)も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちのは当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆(鳥取)の日野へぞ流されける。
そののち源氏の世となりて、鎌倉殿(頼朝)より土肥の次郎実平に仰せてたずね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、志のほどをあはれみて、能登の国(石川)の御恩ありける(領地を賜る)とぞ聞こえし。
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 長谷部信連は、”宮”の御所の留守に留まっていたが、「役人が来るから片付けよ!」
と指図しながら、宮の秘蔵の笛「小枝」を見つけ、門を走り出て宮に追いつきお渡し
した。
高倉の宮は、大そう喜ばれ「私が死んだら、この笛を何としても棺におさめよ」と仰
った。
(2) 追捕の役人が来るというのに、宮の御所に誰一人居ないというのも悔しい!、武士
としては役人に言葉のひとつもかけて相手をしたいものだと、信連はすぐに取っ
て返した。
(3) 長谷部信連ただ一人御所で待つところへ、平家の侍が二百騎ほど押し寄せる。
信連「宮はこの御所にはいらっしゃらない」という、役人「それなら御所中をお探し
しろ」と、信連「礼儀もわきまえぬ奴らだ、噂にも聞いているだろうが、私が長谷部
信連だ、そばへ寄って怪我をするな!」と叫び、これを合図に平家の役人たちが、
信連めがけてどっと討ちかかる。
しかし、信連一人に斬りたてられて逃げまどい、たちどころに拾数人を斬り伏せるが、
太刀も折れ自害しようとしたが腰刀も落してしまい、長刀で股を突かれて遂に
生け捕られてしまう。
(4) 信連は、六波羅へ引き立てられ、宗盛が「宣旨のお使に悪口をいい、役人を殺害し
たことは不埒である、事情を糾した後”処刑場”で首を刎ねよ!」というが・・・・
信連は、「高倉の宮のお出でになるところは知らないし、たとえ知っていたとして
も申さぬ。宮の御為に命を落すのであれば武士の面目、冥途の良い土産」と延べ、
あとは一切口を開かなかったという。
(5) 並み居る平家の面々は、信連のあまりの豪胆さに”首を切るのは惜しい”と云い、
ある者は、御所での警護の役人が止められなかった強盗六人を、信連ただ一人
で討ちかかって、四人を斬り二人を生け捕ったという功名話を披露したりして、
結局は宗盛も、清盛も「気持ちが改まったたら、当家に仕えよ」と、伯耆の国(鳥取)
へ流罪とした。
のち源氏の世となって、頼朝から能登の国(石川)に領地を賜ったということである。
の下人たちに、ひとり奮戦する長谷部信連(左上隅)
<本文の一部>
かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもって、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国(清盛)をりふし(たまたま)福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞くもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず、高倉の宮からめ取って、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。
上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。追立の官人には、源大夫判官兼綱、出羽の判官光長うけたまはって、宮の御所へぞむかひける。源大夫判官と申すは、三位入道(頼政)の養子なり。しかるをこの人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによってなり。
三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ・・・・・・「君の御謀叛、すでにあらわれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺(三井寺)へ入らせ給へ。入道(頼政)も子ども引き具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。
宮(高倉の宮・以仁王)は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける・・・・・・・
長兵衛は、御所の御留守に侍ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも(あれほど)御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや、(これは大へん)。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず(とても)御よろこびありて、「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける・・・・・・
・・・・夜半ばかりに、出羽の判官(光長)、源大夫判官(兼綱)、都合二百騎ばかりにて押し寄せたり。源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかえたり・・・・・・・
長兵衛、「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんじらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉(さひょうえのじょう)長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける・・・・・
・・・・信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬ってまはるに、おもてを会はする者ぞなき。信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざっとぞおりたりける・・・・
・・・・・太刀の切っ先五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ会うたり。「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ・・・・・
信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり・・・・・
・・・・平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり・・・・
右大将(宗盛)、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。入道(清盛)も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちのは当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆(鳥取)の日野へぞ流されける。
そののち源氏の世となりて、鎌倉殿(頼朝)より土肥の次郎実平に仰せてたずね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、志のほどをあはれみて、能登の国(石川)の御恩ありける(領地を賜る)とぞ聞こえし。
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 長谷部信連は、”宮”の御所の留守に留まっていたが、「役人が来るから片付けよ!」
と指図しながら、宮の秘蔵の笛「小枝」を見つけ、門を走り出て宮に追いつきお渡し
した。
高倉の宮は、大そう喜ばれ「私が死んだら、この笛を何としても棺におさめよ」と仰
った。
(2) 追捕の役人が来るというのに、宮の御所に誰一人居ないというのも悔しい!、武士
としては役人に言葉のひとつもかけて相手をしたいものだと、信連はすぐに取っ
て返した。
(3) 長谷部信連ただ一人御所で待つところへ、平家の侍が二百騎ほど押し寄せる。
信連「宮はこの御所にはいらっしゃらない」という、役人「それなら御所中をお探し
しろ」と、信連「礼儀もわきまえぬ奴らだ、噂にも聞いているだろうが、私が長谷部
信連だ、そばへ寄って怪我をするな!」と叫び、これを合図に平家の役人たちが、
信連めがけてどっと討ちかかる。
しかし、信連一人に斬りたてられて逃げまどい、たちどころに拾数人を斬り伏せるが、
太刀も折れ自害しようとしたが腰刀も落してしまい、長刀で股を突かれて遂に
生け捕られてしまう。
(4) 信連は、六波羅へ引き立てられ、宗盛が「宣旨のお使に悪口をいい、役人を殺害し
たことは不埒である、事情を糾した後”処刑場”で首を刎ねよ!」というが・・・・
信連は、「高倉の宮のお出でになるところは知らないし、たとえ知っていたとして
も申さぬ。宮の御為に命を落すのであれば武士の面目、冥途の良い土産」と延べ、
あとは一切口を開かなかったという。
(5) 並み居る平家の面々は、信連のあまりの豪胆さに”首を切るのは惜しい”と云い、
ある者は、御所での警護の役人が止められなかった強盗六人を、信連ただ一人
で討ちかかって、四人を斬り二人を生け捕ったという功名話を披露したりして、
結局は宗盛も、清盛も「気持ちが改まったたら、当家に仕えよ」と、伯耆の国(鳥取)
へ流罪とした。
のち源氏の世となって、頼朝から能登の国(石川)に領地を賜ったということである。