* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第百一句『屋島』

2012-05-13 08:48:46 | 日本の歴史

            前(さきの)能登守・教経(画面左)に射落とされる佐藤三郎兵衛嗣信(画面中央右)。
                    (右下)の忠信に射抜かれる(下段左)の菊王丸(教経の従者)

本文の一部)

 元暦二年(1185)正月十日、九郎大夫の判官、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもって申されけ
るは、「平家は宿報つきて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落
人となれり。しかるをこの二三箇年、攻め落とさずして、おほくの国国をふさげつるこそ口惜しう候へ。
今度義経においては、鬼界、高麗、天竺,震旦までも、平家のあらんかぎりは攻むべき」よしをぞ申され
ける。

 院の御所を出で、国々の兵に向かって、「鎌倉殿の御代官として、勅宣をうけたまはって、平家追討に
まかり向かふ。陸は駒の足の通はんほど、海は櫓櫂のたたんかぎりは攻むべきなり。命を惜しみ、妻子を
かなしまん人は、これより鎌倉へ下らるべし」とぞのたまひける。

 屋島には、ひまゆく駒の足早め、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草暮れては、秋の風におどろき、秋の
風やんでは、春の草になれり。送り迎へて三年にもなりぬ。しかるを、「東国の兵ども攻め来たる」と聞こえ
しかば、男女の公達さし集まって泣くよりほかのことぞなき。

 同じく二月十三日、都には二十二社の官幣あり。これは「三種の神器、事ゆゑなく都へ返し入れ給へ」との
御祈念のためとぞおぼえたる。同じく十四日、三河守範頼、平家追討のために七百余艘の船に乗って、摂津
の国神崎より山陽道を発向す。九郎大夫判官、二百余艘の船に乗りて、当国渡辺より南海道へおもむく。

 同じく十六日卯の刻、渡辺、神崎にて日ごろそろへたる船のともづな今日ぞ解く。風枯木を折って吹くあひだ、
波蓬莱のごとく吹きたて、船を出だすにおよばず。あまつさへ大船どもたたき破られて、修理のためにその日
はとどまる。

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<あらすじ>

(1) 平家攻略に手をこまねく兄・源範頼の遠征を“手ぬるい”と批判した弟・義経は、元暦二年(1185)二月、
    摂津国渡辺からニ百余艘の船で南海道(紀伊~四国)へ向かった。

(2) 船戦(ふないくさ)の戦法で“逆櫓”を進言する梶原景時と、これに反対する源義経は対立し、「他の船は
   知らず、自分の船には“そんなもの”を付けてはならぬ!」と言い放つ。

(3) 強風で荒れる海の中、義経は船を出すことを命じ、結局二百余艘の船のうち五艘のみが進発し、僅か
   四~五時間で阿波(徳島)の勝浦に着くという強行ぶりであった。
    夜が明け、敵の襲来を察したか平家側では赤旗の“のぼり”を上げるが、義経たちを見て五十騎ばかり
   が退却する。この中の阿波(徳島)の板西(ばんざい)の武者一人を降参させて、土地の状況や平家側の
   様子を聞き出した上で、平家に組する桜間(さくらば)の能遠(よしとう)を討ち取り軍神に備えるのであった。

(4)  二月十八日、源義経勢は一斉に白旗の“のぼり”を上げて岸辺に寄せる、これを見た平家側は慌てて
   船を海に下し、安徳帝や女院、女房などそして宗盛や武将たちが乗り移り漕ぎ出した。
    義経は真っ先に進んで名乗りを上げ、平家側は大将(義経)を射倒そうと一斉に弓を射る。

(5)  激しい合戦のさ中、前(さきの)能登守・教経の従者である“菊王丸”(18歳)の討死。さらには源義経
   従者“佐藤三郎兵衛嗣信”(28歳)の討死があり、親しく仕えた家来の死によって、その主はいずれも最前
   線から身を退くと云うエピソードが挟まれ、武家社会の歴史の中で主従の“一心同体”の人間関係をあら
   わす逸話として語られている。

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