* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第三十句「関白流罪」

2006-05-26 11:37:38 | Weblog
             配所に近い熱田神宮に参詣した前太政大臣・藤原師長は、威儀を正
             して琵琶の秘曲を次々に弾き詠い、明神への法楽供養を行う。
             前庭には、村人や猟師など老若男女が集まり、たゞ頭を垂れて聞き
             惚れている。

             <本文の一部>

  さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめて、みな追籠めたてまつる。なかにも摂政殿をば太宰帥にうつして、鎮西へ流したてまつる・・・・・・

  また、前関白松殿(藤原基房)の侍に江の大夫の判官遠業といふ者あり。これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉家業うち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山にうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐頼朝をたのばやとは思へども、それも当時は勅勘の人の身にて、身ひとつにもかなひがたうおはすなり・・・・・六波羅より召しつかひあらば、腹かき切って死なんにはしかじ」とて、瓦坂の宿所へとって返す。

  さるほどに、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂の宿所に押し寄せて、鬨をどっとぞつくりける。江の大夫判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら、六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切って、父子ともに焔のなかにて焼け死にぬ・・・・・・・・

  同じき二十日、院の御所法住寺殿へは、軍兵四面をうちかこむ。「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。法皇も大きにおどろかせおはします・・・・・・・・

  さて御車に召されけり。公卿、殿上人、一人も供奉せられず。北面の下臈、金行と申す力者ばかりぞ参りける。車の尻に尼御前一人参られたり。この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり・・・・・・・

              (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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    <あらすじ> 

(1) 治承三年(1179)十一月十六日、清盛は院側近の公卿を含め四十三人(三十九人
    とも)を解官し、摂政殿基房)を鎮西(九州)へ流罪とした。 この清盛のやり方に官
    職はみな呆然としたのであった。

(2) 太政大臣・師長は尾張へ流されて、近くの三ノ宮・熱田神宮に参詣し、歌舞を捧げる。

(3) 大江遠業(基房の侍)と子息・家業の父子は、平家勢の前で屋敷に火を放って壮絶
    な死(切腹)を遂げる。

(4) 同年十一月二十日、院の御所・法住寺殿を平家の軍兵が取り囲み、後白河院を城
    南の離宮・鳥羽殿へ幽閉してしまう。(清盛クーデターである。)

(5) 故少納言入道・信西の子息・静憲法印は許しを得て、鳥羽殿の法皇の御前に伺候
    するが、法皇は食事もとらず、夜もお寝みにならず・・・・と、お側の尼御前の話に
    涙をおさえるのであった。

(6) 高倉帝は、関白を流され多くの近臣を失ったばかりか、父の法皇をも鳥羽殿に押し込
    められた心痛に、これ又食事もとらず、夜もお寝みにならぬていにて、たゞ清涼殿で
    伊勢の大神を参拝するばかりであった。そして密かに内裏より鳥羽殿へ御書があり、
    「帝位に留まっても何もならないご時世では、隠棲したい」との高倉帝の意向に、驚い
    た法皇は、「そのように思ってはなりません、帝位にあることが、私の唯一の頼りであ
    り、この先を見届けて欲しい」と、急ぎ返書をおくられるのであった。

       このように『巻第三』では、さすがの蜜月関係にあった後白河院平 清盛 との
       間も、次第に対立確執が深まっていくさまを描いている。

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