八幡神の使い“霊鳩”の飛来に感激する「木曾義仲」
<本文の一部>
木曾は八幡の社領、埴生の荘に陣とって、四方をきっと見まはせば、
夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎづくりの
(千木をつけた社殿)社壇あり。
木曾これを見給ひて、案内者を召して、「これはなにの社ぞ、いか
なる神を崇めたてまつりたるぞ」とたづねられければ、「これは、八幡
を遷しまゐらせて、当国には『新八幡(いまやはた)』とこそ申し候へ」
木曾おほきによろこんで、手書(書記)に見せられたる、木曾の大夫覚明
を呼びて、「義仲こそ、さいはひに八幡の御宝前に近づきたてまつりて
合戦をとげんずるなれば、それについて、『かつうは後代のため、かつ
うは当時の祈祷のため、願書を一筆、書いて参らせばや』と思ふはいか
に」。
「もっともしかるべく候」とて、馬より飛び下り、書かんとす。
覚明、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、斑母衣の矢負ひ、塗籠藤の弓を持
ちて、黒き馬にぞ乗りたりける。
箙(えびら)より小硯、畳紙を取り出だし、木曾殿の御前にひざまづい
てぞ書いたりける。数千の兵これを見て、「文武の達者かな」とぞほめ
たりける。・・・・・・・・・
(・・・八幡さまへの「願文」が格調高く綴られる・・・)
たのもしいかな、八幡大菩薩、真実の心ざしの二つなきをや、はるか
に照覧し給ひけん、雲のうちより山鳩二つ飛び来たって、源氏の白旗の
うへに翩翻す。平家もこれを見て、みな身の毛もよだちたり・・・・
(注) カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。
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(あらすじ)
<木曾源氏、倶利伽羅峠の夜襲>
(1)木曾義仲は、八幡社領の埴生(羽丹生)の荘に陣を取り、“戦勝祈願”
の願書を祐筆役の“覚明”にしたゝめさせて、ご宝殿に納める。
すると、戦の神・八幡の神使とされる鳩がどこからともなく飛び
来たり、源氏の旗の上を旋回したので、義仲らは感激してうやうやし
く“霊鳩”を礼拝するのであった。
(2)源平両軍とも対峙して、日中は小競り合いの応酬のまゝ過ごし、日が
暮れるのを待って、平家軍の後ろから突如!として鬨(とき)の声を挙
げながら、木曾勢が奇襲をかけた。
険しい地形上、背後を襲われるこたは無いと安心して休息していた
平家の軍勢は、慌てふためき次々にかたわらの谷へ追い落とされて、
さしもの深い谷も、平家将兵の死骸の山となったと云う。
七万余騎の大軍が僅かに二千余騎となって、大将軍・維盛は副将軍
通盛と共に危うく命拾いして加賀の国へと逃れたが、上総の判官・忠
綱、飛騨の判官・景高や河内の判官・季国ら、名だたる武将が戦死し
た悲惨な負け戦となった。
(3)平泉寺の長吏・斎明や、高名な備中の瀬尾の太郎・兼康など、生け捕
りになった者も多かったが、斎明の生け捕りを聞いた義仲は、「憎っ
くき奴め、有無を言わさず即座に斬ってしまえ!」と命じ、その場で
首を刎ねてしまったという。
(4)夜が明けて、志保坂の十郎蔵人・行家の応援に駆けつけた義仲は、
散々に攻め込まれていた行家軍を助けて、平家の軍勢を蹴散らし追撃
した。寿永二年(1183)五月のことであった。
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