皇子ご誕生に、声を上げて泣く清盛 入道
<本文の一部>
同じき十一月十二日(治承二年(1178))の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿(藤原基房)をはじめたてまつりて、太政大臣(師長)以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。
「大治二年(1127)九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。(むごいことだ)「御産平安、皇子御誕生あるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。
全玄法印、これを承りて、敬白す。(謹んで読み上げる)
神社は大神宮をはじめたてまつりて二十余箇所、仏所は、東大寺、興福寺以下十六箇所へ御誦経あり。御誦経のお使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より東南庭をわたり、西の中門に出づ。めずらかりし見物なり・・・・・・・・
かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ(陣痛)給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。入道相国も二位殿も胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。(呆然としていた)・・・・・・・・
重衡の卿、そのときは、中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子御誕生候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇をはじめたてまつり、太政大臣以下の卿相すべて堂上、堂下おのおの、助修(験者の助手)、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしずまりやらざりけり。
入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。よろこび泣きとはこれをいふべきにや・・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
第八十代・高倉帝と中宮・平徳子に皇子ご誕生のくだりです。
(1)池殿(清森の弟・頼盛の邸)にて、中宮・徳子 の産みの苦しみの中、後白河法皇
をはじめ関白(基房)、太政大臣(師長)などの大勢の公卿のひしめく有様が描か
れている。
(2)御産の平安と皇子ご誕生を願い、高僧、貴僧がうち並び各種のご祈祷を修し、
なかんづく後白河法皇 は、中宮の錦のとばり近くに御座あって千手経を声高
に唱えられる。
(3)皇子ご誕生(言仁親王、のちの八十一代・安徳天皇)で、清盛 は嬉しさのあまり声を
あげて泣き、重盛 は御産行事の祝詞とともに、”金銭”を献じ、魔除けの法などを
行う。(”金”で鋳造した銭)
(4)御産に六波羅に参集した人々の名が列挙されていて、関白、太政大臣、左右大臣、
内大臣などその数三十三人であった。
(5)清盛 は、娘・徳子 が高倉帝の中宮になられた折に、皇子に恵まれること、そして皇位
にたてて、自らは外戚とならんことを願い、厳島の神に祈ったが遂にこれが叶うこと
になったのである。
”徳子”十五歳で入内し、七年のあと二十二歳にして、当時としては遅い
お産であり、すでに高倉帝は他の女性との間に二人の姫宮があり、
焦りもあったであろう清盛としては本音で嬉しかったのである。
<本文の一部>
同じき十一月十二日(治承二年(1178))の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿(藤原基房)をはじめたてまつりて、太政大臣(師長)以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。
「大治二年(1127)九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。(むごいことだ)「御産平安、皇子御誕生あるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。
全玄法印、これを承りて、敬白す。(謹んで読み上げる)
神社は大神宮をはじめたてまつりて二十余箇所、仏所は、東大寺、興福寺以下十六箇所へ御誦経あり。御誦経のお使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より東南庭をわたり、西の中門に出づ。めずらかりし見物なり・・・・・・・・
かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ(陣痛)給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。入道相国も二位殿も胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。(呆然としていた)・・・・・・・・
重衡の卿、そのときは、中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子御誕生候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇をはじめたてまつり、太政大臣以下の卿相すべて堂上、堂下おのおの、助修(験者の助手)、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしずまりやらざりけり。
入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。よろこび泣きとはこれをいふべきにや・・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
第八十代・高倉帝と中宮・平徳子に皇子ご誕生のくだりです。
(1)池殿(清森の弟・頼盛の邸)にて、中宮・徳子 の産みの苦しみの中、後白河法皇
をはじめ関白(基房)、太政大臣(師長)などの大勢の公卿のひしめく有様が描か
れている。
(2)御産の平安と皇子ご誕生を願い、高僧、貴僧がうち並び各種のご祈祷を修し、
なかんづく後白河法皇 は、中宮の錦のとばり近くに御座あって千手経を声高
に唱えられる。
(3)皇子ご誕生(言仁親王、のちの八十一代・安徳天皇)で、清盛 は嬉しさのあまり声を
あげて泣き、重盛 は御産行事の祝詞とともに、”金銭”を献じ、魔除けの法などを
行う。(”金”で鋳造した銭)
(4)御産に六波羅に参集した人々の名が列挙されていて、関白、太政大臣、左右大臣、
内大臣などその数三十三人であった。
(5)清盛 は、娘・徳子 が高倉帝の中宮になられた折に、皇子に恵まれること、そして皇位
にたてて、自らは外戚とならんことを願い、厳島の神に祈ったが遂にこれが叶うこと
になったのである。
”徳子”十五歳で入内し、七年のあと二十二歳にして、当時としては遅い
お産であり、すでに高倉帝は他の女性との間に二人の姫宮があり、
焦りもあったであろう清盛としては本音で嬉しかったのである。