* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九十三句「重衡受戒」

2011-09-14 13:46:18 | 日本の歴史

      (画面・霞の下部分)  重衡女房宛ての手紙の文面を改める警護の武士たち。
      (画面・霞の上部分)  重衡からの手紙を読んで、泣き伏す内裏女房

<本文の一部>

 三位の中将(重衡)、土肥の次郎を召して、「出家の心ざしあるをば、いかがすべ
き」とのたまへば、土肥の次郎この様を御曹司(源義経)に申す。御曹司、院へ奏
聞せられけり。

 「あるべうもなし。頼朝に見せてのちこそ法師にもなさめ」とて、ゆるされもなかり
ければ、力および給はず。「わが在世のとき見参したる聖に、後生のことを申し合
はせんと思ふはいかに」とのたまへば、土肥の次郎、「御聖はたれにて候ふやら
ん」。「黒谷の法然房」とぞのたまひける。「さらば」とて、法然上人を請じたてまつ
る。

 三位の中将出で向かひたてまつり、申されけるは、「さても、南都を滅ぼし候こ
と、世にはみな『重衡一人が所業』と申し候ふなれば、上人もさこそおぼしめされ
候ふらん。まったく重衡下知たることなし。

 悪党おほく籠り候ひしかば、いかなる者のしわざにてか候ひけん。放火の時節、
風はげしく吹いて、おほくの伽藍を滅ぼしたてまつる。『すゑの露、もとの雫とな
ることにて候ふなれば、重衡一人が罪にて、無間の底にしずみ、出離の期あら
じ』とこそ存知候ひつるに、みな人の『生身の如来』とあふぎたてまつる上人に、
ふたたび見参に入り候へば、『今は無始の罪障も、ことごとく消滅し候ひぬ』と
こそ存じ候へ。・・・・・・・・・・・・・・・・

    (注) ( )内は注釈記入のものです。
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<あらすじ>

(1)   平家の三位の中将・重衡は、警護の源氏の土肥の次郎・実平から源義経
  
を介して“出家”の望みを申し出でたが、後白河院はこれを許さなかった。
        
  ならばと、法然上人に相談したい旨を申し出でて、土肥の次郎はすぐさまに
  法然上人を招くのであった。

(2)  重衡は、南都焼失のことの次第を詳しく話し、“”を乞うたところ法然上人
  は、髪の少しを剃った上で“”を授けたのであった。
  その夜の一夜は、互いに語り明かし、重衡は父(清盛)の秘蔵の宋の名硯を差
  しだし、これを「重衡」と思い冥福を祈って欲しいと奉る。

(3)  八条の女院(鳥羽院皇女・瞕子)に仕える木工右馬允・政時が、重衡に逢い
  たいと申し出でて、土肥次郎はこれを許す。(政時は、重衡にも仕えていた)

  やがて重衡政時は一夜を語り明かし、重衡は当時交情を続けていた女房
  に、いま一度逢いたいと“手紙”を書いて政時に託し、政時はこの手紙を内裏
  の女房に届ける。

   なみだ川  憂き名をながす身なれども  いま一たびの逢ふ瀬ともがな(重衡)

        女房は返事をしたため、政時が預かり重衡に届ける。

   君ゆえに われも憂き名をながすとも そこの水屑とともになりなん (女房)

  重衡は、返事の文を見て思いが募り、土肥の次郎にこの旨を伝えると、情け
  ある実平はこれを許したのであった。

   早速使いをたて、女房はとるものも取りあえず使いの車に乗り重衡の許へ
  かけつけるのであった。

   重衡は、「警護の武士が見ているので車から降りてはなりません」と言い、
  自らは車の“すだれ”を頭にか被り車の中へは入らないという配慮を見せる。

   そして、手に手を取り袖を顔に押し当てて語るうちに夜も更けて、警護の
  武士に促され、やがて女房は内裏へと帰って行ったという。

   この後は、逢うことは許されず“”のやりとりを続けたと伝えられる。

  女房は後日、重衡が斬られたことを聞くと、すぐに出家しその後世安楽
  祈ったという、まことに哀れ深い
話である。 

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