* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九十八句『維盛入水(これもりじゅすい)』

2012-02-27 08:44:14 | 日本の歴史

      
        沖の小島に上がり、松の木に“名跡”を書きつける「維盛」入道

<本文の一部>

 維盛、まず証誠殿の御前にに参り、法施参らせて、御山の様を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。
大悲擁護の霞は、熊野山にそびえき。霊験無双の神明は音無川に跡を垂れ、かの一乗修行の峰には、
感応の月くまもなし。六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。

 いずれもいずれもあはれをもよほさずといふことなし。夜もすがら祈念申されけるなかにも、父大臣
(おとど)治承のころこの御前にて「命を召し、後世をたすけさせましませ」と、申させ給ひけんこと思い出
でてあはれなり。「本地弥陀如来にておはしければ、摂取不捨の本願あやまたず、西方浄土へ迎へ給へ」
とかきくどく申されける。

 なかにも「故郷にとどめおきし妻子安穏」と祈られけるこそかなしけれ。「憂き世を厭ひ、まことの道に入り
給へども、妄執はなほ尽きず」とおぼえて、いよいよあはれまさりけり。

 それより船に乗り、新宮へ参り、神倉を拝み給ふに、「巌松高くそびえて、嵐妄想の夢をやぶる。流水清く
流れて、波煩悩の垢をそそぐらん」とおぼえたり。飛鳥の社を伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御
山へ参詣す。三重にみなぎり落つる滝の水、数千丈までよじのぼり、観音の霊j像あらはれ、「補陀落山」と
も申しつべし。  霞の底には・・・・・・・・・

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 <あらすじ>

(1) 維盛は、先ず熊野本宮に詣で、都に残してきた妻子の無事を祈るが、現世への執着の思いが一層
   あわれをつのらせる。

(2) 次いで、船で新宮(速玉大社)に参り、更に熊野那智大社に参詣し、三重に漲り落ちる滝の霞の底に
   法華経を唱える声聞こえ、まさに釈迦が法華経を説いた地(霊山)を思はせる有様であったと云う。

(3)  那智籠りの僧の中に、三位(さんみ)の中将・維盛を知る者があり。安元二年(1176)の“後白河院の
   五十歳”の賀宴に、雅楽(青海波)を舞われた立派な“維盛”の晴れの姿を思い浮かべ、あまりの変わ
   りように驚き、悲しさに涙するのであった。
   (延慶本は、越中の前司・盛俊の叔父と伝える。盛国の弟・盛信か・・?)

(4) こうして熊野三山を滞りなくお参りし終わった“維盛”は、沖の小島(勝浦湾外の山成島)に上がり、
   松の木に “名跡”を書きつける。

    「祖父六波羅の入道、前の太政大臣・平の朝臣清盛公、法名浄海。親父小松の内大臣・重盛公、
      法名浄蓮。その子三位の中将・維盛、法名浄円。 二十七にて浜の宮の御前にて入水おはん」

     そして船に乗り一首・・・・
        生まれては つひに死にてふことのみぞ さだめなき世の さだめあるかな  

            (この世に生まれたからには、所詮“死”と云うことだけが、定めないこの世で唯一つ、
               確かな“定め”なのだ・・・・・・・・・・・)

                          寿永三年(1184)三月二十八日の頃のことであった

(5) 維盛は、西に向いて高らかに念仏を唱えながら、未だ妻子への未練を残すが、滝口入道に励まされ
   思いを断ち切って“入水”する。

     伴の与三兵衛重景と石童丸も共に海に入る。

(6) 舎人の武里も、耐え切れずに続いて海に入ろうとするのを滝口入道に諭されて思い留まる。
   そして滝口入道は高野山に帰り、武里は屋島に戻って、新三位の中将・資盛(すけもり)以下の方々
   に、これまでの経緯を詳しく伝えたのであった。

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