画面中央上に、射落されて落馬する天台座主“明雲大僧正”
左やや下、竹やぶ前で生捕られる播磨の中将“源雅賢”
・・・木曾源氏が、後白河院の御所を攻撃する・・・・
<本文の一部>
都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取
りおほし。賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、
人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち
通る物をうばひとり、衣装を剥ぎとる。
平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方におそろしか
りしばかりなり。衣装を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏は
おとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。・・・・・
木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。
樋口の次郎兼光五百予騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向か
ふ。やがて御所に火をかけたり。
院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。おびたたしく騒動す。
いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。
行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。「われ先に」と落ち
ゆくに、あまりあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足
を突きぬく者もあり。・・・・・・
按察の大納言資賢の孫、播磨の中将雅賢生捕にせられ給ふ。
天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあ
いだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首
取られ給ふ。
寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射ら
れさせ給ひて、御首取ってんげり。・・・・・・・
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<あらすじ>
(1) 都では七月頃から木曾源氏の兵達が跋扈し、そこら中で略奪が
繰り返されて、特別な神領でも構わずに青田を刈って馬の餌に
して与え、通行人の持ち物や衣服を剥ぎ取る有様であった。
(2) この源氏たちの乱暴狼藉を取り締まるよう、後白河院は壱岐の判
官・知康に命じる。しかし都には平家の軍勢は無く、比叡山や三
井寺の僧兵や巷の不良達までかき集め、更に木曾方を離反した近
江源氏や信濃源氏などを含め一万余人が院方に集まった。
(3) 木曾勢三千余騎が十一月十九日朝、院の御所・法住寺殿へ押寄せ
御所に火を放つと、院側の総指揮官・平知康は真っ先に逃げ出し
てしまい、指揮官を失った兵達は逃走の混乱の中で多数が死傷し
名ある山法師は討死にし、摂津源氏も西へ落ちて行く。
検非違使・源光経、近江中将・高階為清、越前守・藤原信行、
主水正・清原近業等が討死。 播磨中将・源雅賢は生け捕られて
天台座主・明雲も落ち行く馬上で射落され首を取られ、三井寺の
・八条の宮(後白河第五皇子・円恵法親王)まで射られて首を
取られてしまった。
(4) 後白河院は、騒ぎの中で五条の里内裏(藤原邦綱邸)に押し籠めら
れ、宰相・脩範卿(藤原信西の子)は、髪を落とし墨染の法衣で院
の御前に上がり、“きょうの戦い”の事の次第を語った。
(5) 大勝したあくる朝、木曾源氏勢は“鬨の声”を挙げるが、討たれ
て六条河原に並べられた首、三井寺長吏・八条の宮や天台座主・
明雲を含めて六百三十余人。
都の人々は、みな涙を流したと云う。(1183・寿永二年)