* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七十九句「法住寺合戦」

2010-05-16 15:26:47 | 日本の歴史

   画面中央上に、射落されて落馬する天台座主明雲大僧正”
    左やや下、竹やぶ前で生捕られる播磨中将源雅賢

        ・・・木曾源氏が、後白河院の御所を攻撃する・・・・

<本文の一部>
 都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取
りおほし。賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、
人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち
通る物をうばひとり、衣装を剥ぎとる。

 平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方におそろしか
りしばかりなり。衣装を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏は
おとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。・・・・・

 木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。
樋口の次郎兼光五百予騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向か
ふ。やがて御所に火をかけたり。

 院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。おびたたしく騒動す。
いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。
行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。「われ先に」と落ち
ゆくに、あまりあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足
を突きぬく者もあり。・・・・・・

 按察の大納言資賢の孫、播磨の中将雅賢生捕にせられ給ふ。
天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあ
いだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首
取られ給ふ。

 寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射ら
れさせ給ひて、御首取ってんげり。・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 都では七月頃から木曾源氏の兵達が跋扈し、そこら中で略奪が
  繰り返されて、特別な神領でも構わずに青田を刈って馬の餌に
  して与え、通行人の持ち物や衣服を剥ぎ取る有様であった。

(2) この源氏たちの乱暴狼藉を取り締まるよう、後白河院は壱岐の判
  官・知康に命じる。しかし都には平家の軍勢は無く、比叡山や三
  井寺の僧兵や巷の不良達までかき集め、更に木曾方を離反した近
  江源氏や信濃源氏などを含め一万余人が院方に集まった。

(3) 木曾勢三千余騎が十一月十九日朝、院の御所・法住寺殿へ押寄せ
  御所に火を放つと、院側の総指揮官・平知康は真っ先に逃げ出し
  てしまい、指揮官を失った兵達は逃走の混乱の中で多数が死傷し
  名ある山法師は討死にし、摂津源氏も西へ落ちて行く。

   検非違使・源光経、近江中将・高階為清、越前守・藤原信行
  主水正・清原近業等が討死。 播磨中将・源雅賢は生け捕られて
  天台座主・明雲も落ち行く馬上で射落され首を取られ、三井寺の
  ・八条の宮(後白河第五皇子・円恵法親王)まで射られて首を
  取られてしまった。

(4) 後白河院は、騒ぎの中で五条の里内裏(藤原邦綱邸)に押し籠めら
  れ、宰相・脩範卿(藤原信西の子)は、髪を落とし墨染の法衣で院
  の御前に上がり、“きょうの戦い”の事の次第を語った。

(5) 大勝したあくる朝、木曾源氏勢は“鬨の声”を挙げるが、討たれ
  て六条河原に並べられた首、三井寺長吏・八条の宮や天台座主・
  明雲を含めて六百三十余人。
   都の人々は、みな涙を流したと云う。(1183・寿永二年)